伯爵夫人のおねだり
「え? お芝居ですか?」
外の気温も安定してきた正午のこと。
侯爵夫妻に誘われて少し遅めの昼食を取っていたイリスは、意図せずしての誘いに戸惑い、思わず聞き返した。
「ああ。よかったら、一緒に行かないか? もう席を確保してあるんだが」
水で喉を潤しながら、穏やかにイザベラは言った。
イリスはどう返事をするか迷った。
こんな風に二人からお誘いを受けるのははじめてではない。
いつもは仕事が理由で断ることを余儀なくされていたが、別荘滞在中には伯爵のお呼びたても少ない。芝居は好きだが、今まで断り続けてきたからこそ、どう答えるか戸惑ってしまったのである。
伯爵のお呼びたてだって、数は少ないがまったくないというわけではない。もしもイリスの手が必要になったときのことを想定すると気が進まなかったし、本人のいないところで勝手に返事をするのは雇われている以上、気が引けた。
「……行きたいのは山々なのですが……」
「イリス。ウェンデルのことなんて放っておけばいいんですよ。小さな子供でもあるまいし。仕事はすべて断っているのでしょう? 数時間あけたところで何もありませんよ」
お断りの返事をしようとすると、素早くシャーメインが遮る。
聡いイリスは、この話にシャーメインが入ってきた時点で、すでに決定事項なのだと察知した。イリスに拒否権など、最初からなかったのだ。
恐らく、普段から仕事で机から離れられないイリスを気遣ってくれたのだろう。しばらく伯爵への(仕事の上での)忠誠心と葛藤したものの、やはり人間素直なもので、
「では、お言葉に甘えて。ご一緒させてください」
と微笑んで頷いた。
「というわけで、イリスも一緒に行くそうだ。よかったなぁ、レオルネ」
イザベラはなにやら含みがありそうな目で、ニヤニヤとレオルネを見やる。
完璧な挙措でフォークを操り、メインディッシュである白身魚のムニエルを口に入れようとしていたレオルネは、顔を赤くして言葉に詰まった。幼子の小さな口におさまろうとしていたムニエルはボトッと音を立てて皿に落下する。
「母上はいつもいつも一言多いです!」
なにやら慌てた様子で言い訳するレオルネを見て、イリスは密かに首を傾けたのだった。
そんなわけで、侯爵夫妻との外出はすでに決定事項となった。が、それまでに通らなければいけない難関がある。
すなわち、伯爵にお伺いを立てること。いい大人だし、いちいち外出することに許可などいらないと思うのだが、結婚はしていてもイリスは伯爵に雇われる側の人間である。主人に直接暇の許可を取るのが常識だろうと自分で判断を下した。
きっと眉間にシワを寄せて聞き返すんだろうな、と思いながらお伺いを立てると、予想は面白いほどにピタリと当たった。
「芝居?」
はい、こうなることは予想していました。
寝台の上で読書をしていたウェンデルは、整った細眉を額の中央に寄せた。
悲しいかな。眉を顰めていても、彼は美しい。顰に倣うとは、彼のためにつくられた言葉ではなかろうか。
「シャーメイン様とイザベラ様が連れて行ってくださるそうです。わたしもご一緒したいのですが……」
「……ふぅん」
なにやら含みがありそうな声で唸る。怒っているわけではないようだけれど、イリスの申し出を快くは思っていないようだ。
ここでもう一押しするべきだろう。無理かもしれないが、と消極的に考えながら、イリスは眉を下げた。
「やっぱり駄目、ですか……?」
仕事の疲れを癒すため、私生活でも好んで外出しないイリスである。大抵の買い物は伯爵の使いとして出かけたときに済ませてしまうか、使用人に頼んでいたので、面と向かって「外出していいですか」などと頼んだ覚えがない。反応を想像したことはないが、きっと「却下」と呆気なく切り捨てられるのだろう。
しかし、イリスは今回だけはと必死にお願いした。今日見る芝居の脚本はイリスが好んで読む作家が書き下ろしたもので、冊子では出回っておらず、劇場でしか見ることがかなわないものなのだ。
内心で、ウェンデルは許可を出すかどうか躊躇っていた。イリスが側にいないとなにかと不便だし、どうも落ち着かない。
イザベラとシャーメインが行くとなると当然、レオルネもついていくのだろう。先程の仲睦まじい様子を思い出して、自然と表情が強張る。一層仲良くなって帰ってきたら、先ほどから感じる根源のわからぬ苛立ちが増すような気がした。
そのような考えはあったものの、必死にお願いしてくる蜂蜜色の目に結局は負けてしまった。
「……好きにしたまえ」
「ありがとうございます!」
イリスのいつにない喜びように、ウェンデルは少し拍子抜けしたように目を丸くした。いつもは穏やかに調子を変えずに話すので、こんな風に声に抑揚をつけて話すことは想定外だった。
「芝居が好きだったとは、意外だな」
思わず呟くと、イリスは嬉しそうに相づちを打つ。
「今回は特別です。脚本は作家の書き下ろしで、劇場でしか見られないんです」
「へえ……」
興味なさげに呟く。伯爵の注意はすでに、読みかけの専門書に向いていた。
最初から最期まで聞いているとは期待していなかったので、怒ったりはしない。外出許可が出たことに対する喜びのほうが大きくて、怒る気になれなかったというのが正しいのだが。
心の底から嬉しそうにするイリスに目をやって、ウェンデルは溜息を吐いた。
いつもイリスを喜ばせるのは自分ではなく他人だということに改めて気付き、少し侘しい気持ちになる。そして楽しそうにしているのが不愉快でもあった。
二人でいるときくらい自分のことを考えろと、身勝手に呆れる。
「……なにを考えている」
「え?」
頭の中で「どの服を着ていこうか」とありきたりなことを考えていたイリスは、伯爵の質問に思わず目をパチパチさせた。
「どんな服を着ていこうかと考えていただけですが……閣下はどちらがよいと思われますか?」
不機嫌の予感を敏感に感じ取ったイリスは話を逸らすべくクローゼットを開け、持ってきた外出着を取り出す。緑のものと、紫のもの。どちらも詰襟で、冬場にはありがたい意匠だ。
ものぐさだが彼の審美眼は確かであるので、決めてもらうことにした。流行を取り入れたお洒落な品で、どちらも捨てがたい。
答えてくれることにそれほど期待していたわけではないけれど、気が向いたのか伯爵はドレスを交互に一瞥したあと、口を開いた。
「その緑のドレスにしろ。君に紫は似合わん」
そうだろうか? と首を傾げる。彼の価値観を疑うわけではないが、イリスのために作られたものだし、それなりに似合うはずなのだが……。
しかし、選んでもらったものを否定するわけにもいかず、イリスは素直に頷いた。
「ありがとうございます。ではこれを着ていきますね」
改めて緑のドレスを見ながら、お礼を言う。
室内用のドレスならともかく、外出着や礼服には使用人の手を借りなければいけないので、寝室とは別のもう一つの部屋にドレスを移動させるべく、一旦寝室から出ることにしたのだが、
「イリス。こっちにこい」
伯爵がほとんど感情のない声で呼びとめる。
呼びかけに応じて伯爵の寝台に寄ると、イリスは首を傾けた。
「はい。なんですか?」
思わず問い返したが、伯爵が答える気配はない。黙って従うと、手が首の裏に回って肩を竦めた。
くすぐったそうにするのを無視して顔を近づけさせ、唇を頬につけると、イリスは目を大袈裟なほど大きくさせた。
夫とはいえ、抵抗すらせず口付けを許してしまう無防備さに、ウェンデルは内心で溜息を吐く。誰かに攫われないか、早くも心配になってきた。
口付けた部分を指で荒くこすりながら、ウェンデルは言い聞かせるような口調で忠告した。
「なるべく早く帰ってこい。それと頼むから、変なやつには付いていってくれるなよ」
「……。……そこまで馬鹿じゃないです……」
自分の何処を見て無防備だと思ったのか、父親のようなことを言い出すウェンデルに、「そんなに信用がないのだろうか」と少しへこんだイリスだった。
***************
昼下がり。
髪形を整え、軽く化粧を施して外出に相応しい装いをすると、使用人にようやく部屋を出ることを許された。
仕上げに白い手袋をはめて、ケープを羽織る。相変わらず、鏡の中の自分は大きな目のせいで随分と年下だった。使用人は「お綺麗ですよ」といってくれたけれど、社交辞令だということはわかっていたので、笑顔で「ありがとうございます」と答えておいた。
今更になって、紫のドレスのほうがよかったのではと後悔した。伯爵は気に入らなかったようだが、紫のほうが落ち着いて大人に見えるし、イリスの幼い顔立ちを少しは年上に見せてくれたかもしれない。
自分の顔を嘆いても仕方がないと諦めの溜息をまじえつつ階段を下りると、すでに玄関で侯爵夫妻が待っていた。公の場であるためか、いつも男の装いをしているイザベラも、暗い赤のドレスを着ていた。レオルネのほうは立派な紳士の装いをしていたが、芝居に行くのだとはしゃぐ姿がなんとも可愛らしく、イリスの心を和ませた。
エッダという名のイザベラ付きの侍女を連れ、一向は馬車に乗り込んだ。
「芝居は夕方の五時開演なんだ。まだ三時前だし、時間つぶしに劇場近くの店で買い物でもしようと思うんだが」
「付き合ってもらえるだろうか?」と窺うイザベラの言葉に頷く。
流行やお洒落には疎いけれど、美しいものを愛でるのはイリスも嫌いではない。
馬車は、大きな建物の前で止まった。白い大理石で出来た小さな宮殿のような外観で、少なくとも三階建てだ。お店というよりも百貨店といったほうが正しいような気がした。しかも上流階級の人やその使用人が主人の生活用品を買うために通うようなお高いお店であるようで、身なりのいい人ばかりが入っていき、出入り口をよけて馬車が陳列していた。
店に入ろうとすると、中から人が扉を開けてくれる。建物内は色んな店が敷き詰められるように並んでいた。
早くも美しいものに目を奪われ、イリスは感嘆の息を漏らした。
「買い物というか、鑑賞に来たみたいですね」
王都でも店舗を展開している老舗の宝石店で、商品を眺めているときにふと口ずさむ。
「鑑賞を許すのも商売のうちだからな。なんのために陳列窓があると思う?」
なるほど、とイリスは納得した。陳列窓は鑑賞を許すことにより、購買意欲を高めている。
首飾りと腕輪を専門に置いた陳列棚から離れ、指輪やイヤリングが置かれた棚に目を移したところで、思わず動きを止めた。
イリスの目を惹きつけたのは、小粒のトパーズをあしらった指輪だった。
自分の目と同じ色をしていたからか、ただ単に色が目に入って気になっただけなのかはわからないけれど、気になって仕方がない。
自分の指と母の指の太さは同じくらいなので、大きさは合うはずだ。比較的値段も手ごろだし、少し遅いが母の聖夜の贈り物に……と思って眺めていると、
「イリス?」
レオルネが顔を覗きこんできた。今まで避け続けられ、姿さえ見せてくれなかったことを考えれば、距離がグッと近くなったと思う。
レオルネはイリスの顔と、彼女が見ていたトパーズをはめ込んだ指輪を交互に見つめた。
「僕が買ってやろうか?」
無理だろうと思ったが、レオルネも買い物のために小遣いを貰っているらしく、随分と自信ありげだった。
イリスはどう断るかかなりの間、考えた。頭ごなしに「いらない」といってしまうのはあまりにも不憫だし、彼の言葉に甘えるのも問題がある。
「……あ。レオルネ様、見て下さい。可愛らしいですね!」
結局、隣の陳列棚に並んでいる卵形の置物に必死で注意をむけたのだった。
隙を見て指輪を購入しようとしたイリスだが、レオルネが一緒にいたので、こっそり抜け出すということが出来なかった。
レオルネの注意が純金の馬にそれた隙に店員に指輪の購入について尋ねると、「あとで注文書に署名してくだされば確保しておきます」と答えてくれたので、ホッとした。
安心したイリスは、時間を忘れて宝石鑑賞を楽しんだ。
宝石の他に家具や化粧品店を見て回ると、一向は三階のカフェに落ち着いた。カフェで紅茶を飲みながら談笑し、一息つくと、イザベラが時計を見た。
「もう四時半だ。そろそろ出よう」
開演時間は五時だ。劇場はすぐ前にあるけれど、席までたどり着いた頃には、丁度いい時間になっていることだろう。
侯爵夫妻が立ち上がったのを皮切りに、全員立ち上がる。
脱いだ手袋を装着しようとすると、いち早く外套を着終えたレオルネが背を向けて走り出す。
「レオルネ様! 何処へ!?」
「先に下に行って待っていろ!」
エッダが呼ぶのも構わずに、まさに嵐のように走り去り、器用に人ごみを分けて、レオルネは消えてしまった。
エッダはオロオロしていたが、実の親である侯爵夫妻は落胆の溜息を吐いただけだった。
「またですか……」
「どうしていつもいつも直前になって何処かへ消えるんだ、あの子は……」
「大丈夫でしょうか? 変な人に攫われたりとかは……」
「ああ、イリス。気にしなくていいから。あれも馬鹿じゃない。それくらいの良識はあるさ。下で待っていろといっていたし、大人しく下で待っていよう。下手に動けばこっちがはぐれかねない」
心配そうに消えた方向を見るイリスを元気付けるように言って背を押し、カフェの支払いを済ませて階段を下りると、出入り口近くの柱に寄りかかるようにして、レオルネは待っていた。
生意気な灰色の目をこちらに向けて気付いたようにすると、イザベラは腰に手をあてて非難がましい視線を送った。
「何処へ行っていたんだ。心配するだろう」
イリスは首を傾ける。さっきは「気にしなくていい」といって楽観的に見ていたように思うのだが……話をこじらせるような気がしたので、大人しく引き下がった。
レオルネは言葉に詰まったのを隠すように母から目を逸らした。
「ちょっと、宝石店に」
「宝石店? なにをしに行ったんだ」
「これを、買いに」
子供に合わせてつくられた外出着のポケットに手を突っ込み探ると、小さな箱が出てきた。
レオルネはイリスに箱を見せると、なれない手つきでそれを開いた。
ベルベットの布が張られた群青色の小箱の中に佇む宝飾品に、イリスは思わず目を見張った。
それはまさしく、イリスが母に贈ろうと計画していた指輪だった。何度も記憶と照合するが、銀色に光る輪に小粒のトパーズをはめ込んだこの指輪は、間違いなくあの宝石店でイリスが見ていたものだ。
「ずっとこれを見ていただろう?」
「えっ」
「ん」
呆気に取られるイリスの手を取るとそれを握らせ、強引に渡す。
イリスの目に動揺が走った。
(どうしよう……?)
今更、返品など出来ないだろうし、かといって素直に受け取るのは気が引ける。手ごろな値段だったが、子供から貰うには高すぎる品に思える。
シャーメインは息子の奇行の理由を知ってイリス同様、目を丸くしていたものの、ややあって固まるイリスの背を叩いて耳打ちした。
「どうか、受け取ってやってくれませんか。断ると悲しみますよ」
半ば脅しのような言い方であったが。レオルネがはじめて、自分で考えて女性に贈り物をしたのだ。女性への贈り物は、貴族の息子に生まれた身として、いつか通らなくてはいけない関門である。その機会はあまりにも早くやってきてしまったけれど、本番の練習として、淑女らしい振る舞いで受け取ってやって欲しい。
そのことを短く説明すると、顔を離す。
シャーメインの頼みを聞いてイリスも決心が固まったのか、改めて箱の中を見分してレオルネに微笑んだ。
「ありがとうございます、レオルネ様。生涯、大切にいたします」
母の贈り物のつもりがイリスの贈り物になってしまったけれど、人に物を貰うということがそうないイリスは、本心から嬉しさを前面に押し出した笑みを浮べた。
紳士らしく贈り物が出来たレオルネはご機嫌で、侯爵夫妻が吹き出していたのに気づいていなかった。
嬉しさのあまりに早速、手袋越しに右の薬指にはめ、イリスは観劇にのぞむことにした。
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イリスが出て行ったあとも、ウェンデルは読書を続けていた。
ただし、場所は寝室ではなく一階の居間だ。そして望まない移動であったのか、ピリピリとした空気を身に纏っている。お節介な友人に引っ張り出されたからだ。
いまから残った人々でお茶を楽しもうとしているところなのに、いつまでもむっつり不機嫌顔で黙り込んでいる。
女子供も来ることだし、その仏頂面をなんとかしてもらえないだろうかと淡い期待を乗せてスピネルは声をかけた。
「あの……兄上?」
「なんだ」
帰ってきたのは冷え切った無愛想な声だった。
あまりに不機嫌な声に、スピネルは苦笑した。結婚して邸を離れた数年の間に兄が変わったとは思えないから、多分スピネルの方が変わったのだろう。
幼い頃から変わらぬ仏頂面は確かに美しいけれど、そのせいで人を遠ざけてしまう。多くを語らず、語るときは決まって嫌味文句。性格はお世辞にもいいとはいえない。
そんな兄に一年も尽くしているイリスのありがたみを身に染みて感じるスピネルである。
「そんな不機嫌な顔はよしてくれませんか。アンジェとレクシーがくるのに」
「却下。呼んだのはそっちだ。帰っていいのなら、いつでも帰らせてもらう」
「いい加減、諦めたらどうなんだ、ウェンデル。往生際が悪いぞ」
いますぐ本を閉じて自室に引っ込もうとするウェンデルを叱るのはヴァルザーだ。ジロリと咎めるように睨まれると、やれやれというように兄は肩を竦める。
彼にはなにを言っても無駄だと思っているのか、兄は気の利いた切り返しをしようとはしない。兄に対してはいつも一歩引いてしまうスピネルからしたら、ヴァルザーは心強い味方だ。
「遅れて申し訳ありません」
涼やかな声はアレクシアのものだ。片方にはアンジェリカを連れている。
スピネルと同じ、もっと広く言えば兄と同じ黒い巻き毛の少女は、無防備な笑顔で仏頂面の叔父のもとへ歩いていった。
「おじさま」
ウェンデルの前で止まると、彼に向かって手を伸ばす。
ウェンデルは瞬きせずに無言でアンジェリカを見ていたが、彼女がなにを求めているのかを理解したらしく、何も言わずに抱きかかえ、自分の膝に乗せた。
そして何事もなかったかのように読書を続ける。
すべての感情を切り落とした彫刻のような美顔を、アンジェリカはとりつかれたように凝視している。同じ年頃の子がキラキラしたものに興味を持つのと同じで、アンジェリカもこうやって間近で美しいものを愛でるのが好きなのだ。その美しいものの中には、叔父の顔も含まれているらしい。
膝に乗っている姪に見つめられていても意に介さない様子だ。彼が甥姪に向かって暴言を吐いているところを、誰も見たことがないから、嫌いではないのだろう。
(……悪い人ではないのだろうけど)
ずれかけたショールを直しながら、夫の隣に腰掛ける。
親子のあとに続いて入ってきた使用人たちによってお茶の準備が進められている間もずっと、アンジェリカは叔父の顔を見ていた。それに対して、ウェンデルは気付いたように姪の頭を撫でていたけれど、視線はずっと専門書だった。
「ところで、イリスは何処へ?」
クッキーを食べながら、ヴァルザーは聞く。
大方、部屋に閉じこもって次の本の執筆でもしていたのだろう。面倒だったが、ウェンデルは溜息交じりの声で説明してやった。
「……侯爵親子と一緒に芝居へ行った」
「なんだ。置いていかれたのか?」
頁を捲ろうとした手が思わず止まる。いちいち癇に障る言い方をする男だ。
「私が進んで行きたがると思うか?」
「思わないが。それにしても……ふーん。イリスは芝居が好きだったのか」
「そうらしい。今日はじめて知った」
「……ふーん」
ヴァルザーの声が低くなる。なんだと思って顔を上げると、ニヤニヤ笑っていた。学生時代によく見た、悪知恵を考えたときの顔だ。
彼と付き合っている人々は、色々騙されていると思う。彼は人当たりがよいだけの男ではない。
「……なんだ。ニヤニヤ笑うな。気持ち悪い」
なにやら含みのある笑い方だったため、ウェンデルは不愉快ながらも聞いてみることにした。
するとヴァルザーはさらに笑みを深くさせて、足を組みなおした。
「君たち夫婦は秘密主義なのかい?」
なにを聞くかと思えば、とウェンデルはちょっと肩を竦めて見せた。拍子抜けだ。
「そうでもないが。聞かれたら答えるし、聞かれなかったらなにも言わない。それだけだ」
「じゃあ、イリスは君の秘密を知らないわけだ」
「そんなものない」
これは即答できる。ウェンデルに秘密はない。商売の上での秘密は当然あるが、自分の仕事に最も近く関わっているイリスにはすべて教えてある。私生活の面での秘密も見当たらない。思ったことを口にする性質だから、隠すことが出来ないのだ。
「あるだろう。学生時代は散々言われてたことが」
「……あのことは話さなくてもいいだろう」
くだらない、というように吐き捨て、再度分厚い専門書に目を落とす。
「貴族にはありがちな話だ。なんの面白みもない。で、なにがいいたいんだ、君は?」
いつにもまして変なことを言い出す友人に非難がましい視線を送ると、ヴァルザーは平然として肩を竦めた。
「秘密の一つも打ち明けられない関係は夫婦というのかねぇ?」
「戸籍上はちゃんと結婚している。だから〝夫婦〟だ」
「それで夫婦か」
「それが夫婦だ」
ヴァルザーと話すのが苦手だと思うときがある。こういう風に人生哲学をねじこんでくるからだ。どちらかというと理系が得意なウェンデルと、文系のヴァルザーとが友人になれたのは、ほとんど奇跡に近いとさせ思ってしまう。考え方からして違うのだ。
友人がなにを言いたいのかわからず強引に自分の意見を押し通すと、ヴァルザーは「そうか」と呟いて驚くほどあっさりと引き下がる。
強引に押し通されたウェンデルの持論に驚いたのはヴァルザーではなく、スピネルとアレクシアだった。
(それって”夫婦〟というのかしら……?)
ありのままの相手を受け止めることが、真の夫婦というものだろう、というのが、アレクシアの持論だった。
口に出して意見したかったけれど、直前で口を噤む。
(昨日の晩みたいに、またお義兄様の機嫌を損ねてしまうわ)
生来の内気さもあり、アレクシアは心に浮かんだ疑問を憂鬱な気持ちで押し殺してしまったのだった
レオルネのターンでした。
日曜にまた更新する予定ですので、ご期待ください。
※陳列窓……ショーウィンドウ
陳列棚……ディスプレイウィンドウ