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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅲ 伯爵夫妻の日常~年明け編~
13/30

甥っ子との関係改善

 翌朝。


 イリスは部屋の寒さで目が覚めた。


 温かい毛布から離れたくなくて二度寝を検討したが、二度寝をすると体が辛い。結局眠るのはやめて毛布の中でグズグズするにとどめ、いつもより少し遅い時間に起き上がると、ガウンを羽織って腰で紐を結う。


 ガウンを羽織ったものの寝台から抜け出る勇気がなく、ぼんやりとした目で隣を見やると、昨日と同じく伯爵が眠っているのが見えた。


 いつものように彼を起こそうかと考えて、イリスは躊躇した。休日は昼まで眠っている人だ。いま起こせば不機嫌になるかもしれない。


(……絶対に不機嫌になるわ)


 加えて昨日の晩も不機嫌だったことを思い出す。


 起こすのをやめ、音を立てないように気を配って着替えると、イリスはそっと部屋から抜け出た。


 部屋から出て、厨房(ちゅうぼう)に向かいながら朝食を頼もうかと考えていると、階段のあたりでアンソニーと出くわした。


 なにか用事を済まそうとしていたらしい彼は、イリスの姿を目に留めると(うやうや)しく頭を下げる。


「おはようございます、奥様」


 堅苦しく頭を下げられて、顔が見えないのをいいことにイリスは苦笑した。

 まだ仕事になれないのか、それとも初対面だった伯爵夫人になれていないのか。はたまた彼の性格故かはわからなかったが、穏やかに「おはようございます」と返す。


「閣下はどちらに?」


 いって、アンソニーはイリスの肩越しに部屋の方を一瞥した。


「閣下はまだ眠っておいでです。多分、昼まで起きていらっしゃらないと思いますよ。休日は昼まで眠る人なので」


 ふと昨日、邸につくまえに目で言いつけられたことが蘇る。すなわち、邪魔するな、うるさくするな、最低限、話しかけるな。である。


 改めて溜息を吐き、顔を上げると、目があった拍子にアンソニーは見えるか見えないくらいの微笑を顔に刻んだ。


「すぐに朝食の準備をさせます。あとで呼びにいかせますので、それまで居間でゆっくりなさってください」


「はい」


 頷くと、「失礼」といって、アンソニーは去っていった。去る足があまりにも速かったので、狐に化かされたような気になる。どうやら相当、急いでいたようだ。引き止めて申し訳なかったと、イリスは今更になって嘆いた。


 突っ立ってばかりいても使用人たちの邪魔になるだけなので、居間へと足を進める。外よりはマシなものの、邸内は何処もかしこも寒く、早く暖を取りたい。


 執事の言葉に従って、居間まで行き、誰もいないだろうと高を括って取っ手を捻ったが、中にはイザベラとシャーメイン、そして昨晩はいなかったもう一人を含めた三人が他愛のない話をしていた。


「おはようございます、イリス」


 イリスが入ってきたことにいち早く気付いたシャーメインは、朝に相応しい爽やかな笑顔つきで挨拶してくれる。嬉しいが、爽やか過ぎて眩しい。周りに星でも散っているかのようだ。


「おはようございます。失礼してもよろしいですか?」


「どうぞ」


 次はイザベラが答え、紳士的な動作でイリスを長椅子に座るよう促す。

 ありがたく腰を下ろす前に、昨日はいなかった薄い金髪の男に、イリスはニッコリと微笑みかけた。


「お久しぶりです、ヴァルザー様」


「ああ、イリス。久しぶりだ」


「いつおつきに?」


「夜中の三時頃。今年最後の講習があってね。そのあと、教授たちの忘年会に付き合わされて酔いつぶれて、起きたら一日中二日酔いだったんだ。二日酔いがおさまってからきた上に別荘にいく貴族の渋滞に巻き込まれてしまって」


「参ったよ」といいながら茶色の瞳を和ませ、ヴァルザーはもったいないくらいの笑顔でイリスに挨拶してくれた。


 光の当たり具合によって白っぽく見える薄い金髪は黒のリボンでうなじに纏められ、淡い茶色の瞳はわずかに緑がかっている。


 ヴァルザー・シェーレン。伯爵と付き合える、数少ない友人と呼べる人である。彼は現シェーレン公爵の弟の息子、つまり甥だ。しかし、家名はあるが爵位を持っていない。彼の父は公爵が持つ所領の一部を任されているが、その仕事も通常ならば長男に引き継がれる。彼は次男なので、跡を継ぐ必要がないのである。


 家のこと云々を気にしなくてもいい身分の彼は、これ幸いと自分の好きな分野を専攻して博士号を取得。いまは王都で時折、教鞭を取る学者でもあり、本を書いたりしてちょっとした財産を築いているとのこと(このことを彼は詳しく話したがらない)。今日遅れたのもそれが理由だろう。


 伯爵は煙たそうにしているが、彼がいないと伯爵はますます人付き合いを(いと)うようになっていただろう。そのため、誰もが彼に感謝しているのだ。


 ヴァルザーは微笑みながらしばらくイリスを眺めて、そしてますます笑顔になる。


「イリス。いつ見ても君は愛らしいな。ウェンデルの妻にするのがもったいない」


「……同感」


「ですね」


 侯爵夫妻は力強く頷くことによって、同感を示す。

 彼も伯爵と同じでそれなりに遊び人なので、この甘い言葉が社交辞令だということは充分に理解している。それでも、嬉しくて頬が緩んだ。


「人妻を勝手に口説くな。悪い癖だぞ、ヴァルザー」


 なにか言葉を返そうと口を開けた瞬間、やや苛立った声が割って入ってくる。

 いつの間に、と彼の姿を目にうつした途端、誰もが驚きを隠せなかった。唯一、ヴァルザーだけはいつもの調子を崩さなかった。


「やあ、ウェンデル。寝起きでも顔だけは相変わらずの麗しさ。もちろん、顔だけな」


 眩しい笑顔に流されそうになったが、彼は確かに嫌味をいった。特に、『顔』という言葉に力を込めていたように思う


 いつものことなので今更なんとも思わない。が、彼と付き合いだしてまだ日が浅いイリスよりも、学生時代からの付き合いの伯爵のほうが気にしているらしく、不愉快そうな顔をした。眠そうな緑の瞳に、苛立ちがこめられる。


「……君は相変わらず顔も中身も麗しくないな」


「失礼するな。傷ついたよ」


「すぐに治るだろう」


「君は本当に口が悪いな」


「こういう性格だ。諦めたまえ」


「ああ、知ってたさ」


「だったら聞くな」


 嫌悪も露に、伯爵は吐き捨てる。


 一定の速度で続けられた嫌味の応酬は、伯爵が苛立ちを交えて言ったことにより即座に終結した。


 伯爵は不機嫌そうだったが、ヴァルザーのほうはというといつも通りの笑顔だ。ヴァルザーにとって、さっきの嫌味の応酬は挨拶代わりなのだ。


 友人にひどいことをいわれても傷ついた様子を見せないヴァルザーを、イリスは密かに感心した。どうすれば彼のような寛大な心を持つことが出来るのだろう。


 イザベラといい、スピネルといい、アレクシアといい、シャーメインといい、伯爵の周りには寛大な心を持った人が多すぎる。


 寛大な心を持つ親類と友人をなにも考えずにボーッと眺めていると、不意に扉が開いた。


「奥様、朝食の用意が出来ました。……おや」


 別荘に滞在している人々の半分が居間に集まっていることに、いささか驚いたようにアンソニーは目を見張ったが、すぐにいつもと変わらぬ調子で挨拶した。


「おはようございます、閣下」


 しかし、伯爵は目礼しただけで、何も言わない。

 一拍の沈黙の後、優秀な執事は気を取り直して主人に語りかけた。


「朝食はいかがなさいますか?」


 ここにも広い心を持つ人がいたようだ。

 何故か見ているイリスのほうが申し訳なくなってきて、溜息を吐いてしまった。こっそりと吐いたつもりだったのだが、たまたまそれを見ていたイザベラが、「幸せが逃げるぞ」と苦笑交じりの声でイリスの肩を叩いた。



 ***************



 朝食を終えると、イリスは真っ先に本を求めて、東にある書庫に向かった。


 朝食を終えた伯爵が「もうひと眠りする」と寝室に引き上げてしまったからである。仕事を命じられなかったイリスは、伯爵のいない時間を大いに楽しもうと、数少ない趣味に走ることにしたのである。


 使用人に案内された書庫で本を選んでいる間、昨晩の不可解な出来事のことを考えた。


 食堂で二人きりだったにもかかわらず、伯爵はお得意の嫌味まじりの話でさえ口にしなかった。昨日の夕食のようにむっつりと黙り込み、言葉を口にすることすら拒んでいるようだった。そして、黙っていたせいか寝起きのせいかはわからないが、朝から少し不機嫌そうだった。イリスの目の錯覚だろうか。


 何も言葉を口にしなかったのだから当然、昨日の不可解な出来事に関して弁解も弁明もしようとはしなかった。伯爵に弁解など期待していなかったが、それでも説明が欲しいと思うのは人間の心理だろう。心を通わせた恋人同士でもないのに突然唇を奪われては、いくら男に興味のないイリスでもドキドキしてしまう。


 いまのところ昨日ほど不可解なことはなかったが、ごく小さな変事はあった。グラスが空になっていることに気付いて水を注ごうとしたのだが、その前にベルで使用人を呼び出して、わざわざと外で待機している使用人に水を注がせたのである。


 遮るように仕事を持っていかれて、イリスは馬鹿みたいに呆けてしまった。不思議なこともあるものである。

 そこまで考えて、盛大な溜息をつく。


「……わたしが考えていても仕方ないものね」


 呟いて、腕が痺れてきたのでなんだと思って見下ろしたら、両腕で抱えきれるのがやっとな量の本を抱えていた。何冊か戻そうと試みるが、何処に置いてあったのかわからず、そのまま部屋まで持って帰ることにした。


 書庫から出ると、書庫とはまた一味違った冷たい空気が体に染み入る。外よりマシだとはいえ、邸内も随分と冷え込んでいるようだ。これだけ寒ければ、今日の晩、雪が降るかもしれない……といっても、雪の害が少ないシェーレンでは些細なものだろうが。


 暖かい室内でココアでも飲みながら本を読むのが幸せだ、と思いなおし、イリスは前を向いて歩き出した。


「レオルネ様!」


 誰かの叫ぶような声を聞いたそのとき、ドンッと前からやってきた金色の(かたまり)に突き飛ばされた。何度かたたらを踏んだが、目眩を起こしたときのように足元が頼りなく、バサバサと本が落ちる豪快な音が廊下に響き渡ったのは、一秒もたたないうちのことだ。


「ああっ、奥様! 大丈夫ですか!? お怪我は!?」


 見たことのない顔の使用人だ。恐らく、レオルネの乳母か、世話係なのだろう。

 本をかき集めようとしていたイリスは、顔を青くさせている彼女に微笑んでみせた。


「ええ、大丈夫ですよ。怪我もありません。少し足を挫いたようですが、数分もすれば治まるでしょう。そんなに痛くありません」


 安心させるようにいうと、ホッとしたような表情を見せる。それから、後ろを振り返り、怖い顔で睨みつけた。


「レオルネ様! ですから、廊下を走るのは危ないと申し上げたでしょう!」


 一旦、本を集めるのをやめて使用人の後ろを見やれば、ポカンとしているレオルネと目が合った。


 父母から受け継いだ灰色の瞳は生意気そうな光を宿しているが、何処かオドオドしているのが見て取れた。


 貴族としての矜持(きょうじ)が謝ることを邪魔しているのか、それとも謝ることに慣れていないのか……なんとなく、後者だろうとイリスは思った。彼が見るからに困っていたからである。昨日、伯爵に対して大人な振る舞いを見せてはいたが、中身は子供なのだ。


 だというのに乳母に睨みつけられて謝罪を求められ、どう謝ればいいのか困って、レオルネは尻の据わりが悪そうに目玉を動かす。


「結構ですよ。レオルネ様もわざとではないでしょう?」


 あまりにも困っているようで不憫に思え、イリスはレオルネを弁護した。


 イリスに大層な暴言を吐いてはいたが、そこまで悪い子ではないだろう。わざとだとすれば、それまでにイリスになんらかの嫌がらせをしていてもおかしくない。しかし、そのような覚えはない。


 微笑みかければ、レオルネはビクッとする。そして、顔を逸らしてしまった。予想外の行動に思わず、といった風に見えたのだが、乳母が咎めるように凄む。


「レオルネ様!」


「いいのです。わたしはもう部屋に戻ります。ぶつかって申し訳ありませんでした」


「ま、待て!」


 集めた本を両腕に抱くと、子供特有の甲高い声が呼び止める。

 侯爵によく似たその顔が赤い気がして不思議そうに首をもたげると、レオルネはもごもごと口の中で言葉を発した。


「も、持ってやる。足を……挫いたんだろう……?」


 かなり上からな物言いにイリスは目を丸くさせたが、やがてその目は細められ、微笑みに変化する。


 大人のイリスでさえも重いと感じる量の本だ。まだ幼いレオルネにもって運べるはずもない。言い方は生意気だったが、彼なりに責任を感じているのだと知って、イリスの心はほっこりと温かくなった。


「ではお言葉に甘えて……これとこれとこれを持っていただけますか?」


 なるべく薄そうな本を三冊とって渡すと、レオルネは素直にそれを受け取った。イリスの手にあれば薄くみえるそれも、子供のレオルネが持てば随分と重そうに見える。それも、伯爵やイリスが読む本である。なるべく薄そうなといっても、幼子の目にはさぞかし分厚くうつっていることだろう。


 乳母は空気を察して一旦その場から下がったようで、ハラハラしてはいたが二人のあとを追ってこようとはしなかった。


 ほどよく冷えた廊下を歩いていると、はじめは固かった空気も時間を経れば徐々に柔らかくなってくる。


 階段を上がろうとしたとき、ジッと持っている本の題名を見て、レオルネが唸る。


「なんだこれ。難しいな」


「それは……哲学の本ですね。レオルネ様には少し早いかもしれません」


「その下は?」


「歴史書ですね。バローズ朝の」


「それなら知ってる。母上と歌劇で見たぞ」


 イザベラは子供を伴って歌劇を見に行くことがある。レオルネも母とのお出かけが楽しいようで、自然と笑顔になっている。

 微笑んでその幼い横顔を見ていると、ふいに生意気な灰色の目がイリスを見上げた。


「勉強は得意なのか……?」


「大学を出ていますから、それなりには」


「じゃあ……。……僕に、勉強を教えてくれないか?」


 ポツリとレオルネの口から零れ出た言葉に驚いて、「え?」と問い返すと、レオルネの顔は瞬時に燃え上がったかのように真っ赤になった。


「か、勘違いするな! 父上が、父上がイリスに教えてもらえといったから、だから……」


 だんだん尻すぼみになるレオルネに、イリスはますます微笑む。


「わたしの名前をご存知だったのですね」


「と、当然だろう。叔父上の奥方だからな!」


「呼んでくださらないので、知らないのかと思いました」


「そ、そんなわけないだろう!?」


 ガッカリした素振りを見せると、慌てて早口でまくし立てる。

 歳相応の態度に、イリスは笑い出したいのを堪えて普通に微笑んだ。


「では、これからわたしのことは名前で呼んでください。名前で呼ばないと返事をしませんよ?」


 悪戯っぽくいえば、小さな子供の口が意味不明な開閉を繰り返した。

 しばしの間、口をパクパクさせて絶句していたレオルネだったが、顔を真っ赤にしてイリスから目を逸らした。


「し、仕方ない……感謝しろよ、イリス!」


 なにに対して感謝すればいいのかわからなかったが、「はい」とだけ答えておく。

 するとレオルネは上機嫌になり、はじめてイリスに笑顔を見せてくれた。



 ***************



「いい光景ですねぇ」


 向かい側の部屋を窓から見ながら、夫が上機嫌に呟く。


 長椅子で読書に耽っていたイザベラは本を読むのをやめ、夫の視線の先を振り返る。向かい側の窓からは麦色の髪とちらほらと金色の頭が見え、なにやら二人で楽しげに会話している。叔母と甥らしく仲睦まじく過ごす様子に、昨日のわだかまりは感じられない。


 見ていて幸せな気分になるその光景に、イザベラも思わず笑顔で頷いた。


「ああ。レオルネがよく懐いている。あの気難し屋が」


「二人で仲良くなにをしているんでしょうね」


「宿題だろう。家庭教師から山ほど出されていたからな……。ほら、イリスが何か教えてる」


「ああ、本当だ」


 なにかを指差して穏やかに話していたイリスが口を閉ざすと、途端にレオルネがうずくまるようにして手を動かす。

 元気が有り余るせいか、最近扱いに困っていた息子が大人しいことに密かな感動を覚える。


「イリスは本当に優秀だな」


 常々思っていたことを思わず口にすると、シャーメインも微かに笑みを零した。


「いっそ、ウェンデルの秘書を辞めてレオルネの家庭教師になってくれませんかね」


「ああ、そうだな。それがいい」


 妙案に思えてきて、イザベラはクスクス笑いを漏らした。人使いの荒いウェンデルのことである。そうやすやすとイリスを渡してくれるとは思えないから、口にするだけにしておく。


 イザベラは冗談としてとらえたようだが、シャーメインは結構本気で口にしていた。幸い、一人息子はイリスを気に入ったようだし、イリスの言うことなら聞きそうだ。

 イリスが家庭教師になってレオルネに良識を教えるようになれば、少しは落ち着くようになるかもしれない。


「もう一人欲しくありませんか? 次はベラにそっくりな女の子がいい」


 愛妻の腰に片腕に巻きつけ、空いた手で癖のある赤銅色の髪を弄る。


 イザベラとて、馬鹿ではない。シャーメインのいっていることの意味くらい、わからないわけではない。


 ごく自然な流れで子作りの話をされ、サッと顔を赤くさせたイザベラを、いつも通り『可愛らしい』と思い、あまりの愛らしさに口付けようとしたその瞬間、


「お取り込み中、失礼するが」


 そのまま顔を引き寄せて唇をあわせようとしたとき、不機嫌そうな声が割って入った。

 比較的穏やかな気性の人ばかりが集まった別荘内で、こんな風に不機嫌な声を出す者など、一人しかいない。

 いつの間にか開いていた扉から吹き込む冷えた空気は、シャーメインの心も雰囲気も冷ややかにさせた。


「……扉くらい叩きなさい、ウェンデル。まだ寝てなかったんですか」


 邪魔をされて怒鳴りつけたい気持ちをなんとか押さえつけて、冷静な声を出すよう努める。が、声と表情が一致していない。


 侯爵の言葉に何か言い返そうとするものの、男勝りの姉をドン引きする溺愛する侯爵に勝てる気がせず、眉を寄せるだけにとどめる。


「寝つきが悪くてね。そうか。邪魔をしてすまなかった。清純派で知られるウィルフォング侯爵が、真昼間から堂々と、二人目を視野に入れて妻と睦みあおうとしているとは思わなかったのでね」


 唾でも吐きたげにいわれて、シャーメインはわずかに眉を寄せる。一方、腰を抱き寄せられていたイザベラは顔を真っ赤にさせて、夫からすぐに逃げられるだけの距離をとった。

 イザベラが距離をとったことに不満を覚えたシャーメインは、舌打ちをしないのが不思議なぐらい苛立った目つきでウェンデルを睨みつけた。


「相変わらず、無粋な人ですね。少しは空気を読んだらどうなんです」


「うちの姉を攫ってモノにしてから結婚した不道徳者だからな。常に目を光らせておかないと、次はなにをしでかすかわからん。それと悪いが、私にとって空気とは読むものではなく、吸って吐くものだ。人間が生命活動を繰り返すのに必要なものでもある」


 小難しいことを織り交ぜているため非常にわかりにくいが、要するに屁理屈をこねているウェンデルに、イザベラはやれやれと溜息を吐いた。

 夫ほどいちゃつきたい欲があったわけではないが、久々に子供抜きで楽しめる夫婦の穏やかな時間を侵害されて、イザベラも少し不機嫌になる。

 侯爵夫妻から非難がましい視線を受け、ウェンデルは鼻を鳴らした。


「不満なのはお互い様だ。君たちの息子を少しイリスから離さないか?」


「……はっ?」


 侯爵夫妻は一瞬、我が耳を疑った。


「息子というと、レオルネですか?」


「……それ以外に息子がいるなら私は君を殺しているよ、侯爵」


 当たり前のことを間抜け面で聞き返す侯爵に、ウェンデルは辛辣な言葉を返す。

 シャーメインに続いて、イザベラも目を丸くさせた。

 いま、『イリスから離さないか?』といわれたような気がするのだが、気のせいだろうか。


「……なんだ? 二人して人の顔をジロジロと」


 自分と血縁があるとは思えないほど整った顔の額の中心にシワが寄せられる。どうやら、不愉快な思いをさせてしまったようだ。


「あれは私の秘書だ。君たちの息子の家庭教師ではない。以上。私の話は終わりだ。これからまた一眠りする」


 一方的に苦情を言いつけると、相変わらずの高慢な態度で鼻を鳴らす。そして、もうこれ以上用はないといわんばかりに、巻き毛を翻したのだった。


「……なんなんだ。いまのは」


 ウェンデルが去った方角を見ながら、イザベラはやや憤慨したような様子で腕を組みなおす。ウェンデルの高慢な態度にも腹が立つが、それはいつものことなので、今更どうとも思わない。あの男と家族になってしまった手前、仕方のないことだ。

 シャーメインのほうはベラほど憤慨していなかったが、彼の言い分にムッときていた。


「本当に。なにがあって心変わりしたのか。あれほどイリスを無下に扱っていたくせに、今更所有権を主張してくるとは一体、何様ですかね?」


「間違いなく俺様だ。あいつはああいう星の下に生まれてきたんだ……ああ、なんて勝手なやつなんだ! イリスは玩具じゃないんだぞ」


「同感です。でも、ベラ? 僕は驚きましたよ」


「は? 驚いたって、なにに?」


 イザベラはシャーメインに、胡乱な目を向ける。

 シャーメインはしばし躊躇した様子を見せたが、ややあって考えながら呟いた。


「僕の目には、ウェンデルがイリスをレオルネに取られて嫉妬したようにうつるのですが」


 夫が嫉妬、という言葉を口にした途端、イザベラは消化不良を起こしたときのように顔を歪めた。


「……そんなわけないだろ」


 仕事以外では人にも物事にも常に無頓着な、唯我独尊のウェンデルが嫉妬。これほど似合わない言葉もあるまい。

 否定した瞬間、シャーメインも苦い顔をした。


「……ですよね。僕が馬鹿でした。きっと疲れてるんですね」


「そうかもしれないな。……どうだ。気晴らしに、家族で芝居でも見に行こうか」


 その場しのぎで口にしてみただけなのだが、案外妙案に思えた。年明けだし、何処の劇場も人でいっぱいかもしれないが、夕方近くならいい席が手に入るかもしれない。


「午後から出かけて、夕方まで買い物でもするか。年明けの翌日なら何処の店も開いているだろうし……イリスも連れて行こうか。きっと喜ぶ」


 芝居の間は、レオルネも静かだ。負担がかかることは少ないだろう。レオルネもイリスの言うことなら聞くだろうし、働き尽くめで滅多に外に出る機会を持たないイリスは喜ぶはずだ。彼女も観劇は好きだといっていたし、きっと喜ぶだろう。


「いいですね。早速、誰かを使わせて席を確保させましょう」


 ワクワクしながらも素早く計画を立てるイザベラに背を向けると、シャーメインは使用人を呼ぶべくベルを鳴らしたのだった。

お気に入り件数2000突破! 評価5000突破! 皆様、本当にありがとうございます。恐縮です。

次の伯爵はきっと嫉妬してくれるはず……。

これからも頑張ります(^q^)嫉妬してる伯爵に、なにか感想ください(笑)

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