伯爵夫人のありがたみ
伯爵が久々にデレます(^q^)
執事のはからいにより、食堂の準備はすべて整えられ、いますぐにでも食事が出来る状態だった。
伯爵とイリスが食堂に入ってまもなく、イザベラとシャーメイン、スピネルとアレクシアがやってきた。
レオルネはイリスに暴言を吐いたあと、父親に怒られるのを恐れて逃げ出したらしく、いまは使用人総出で探している最中だ。執事によると、もうすぐ見つかるだろうとのことだった。スピネルとアレクシアの娘であるアンジェリカは昼寝をしていたらしく、身支度を整えているところだ。いずれにせよ、少しの間待つ必要があった。
短気な伯爵は数分もすれば退屈したようで、ちょっとイライラした様子で何度も腕を組みなおしていた。
相変わらずだな、と誰もが苦笑しながらそれを見ていた。彼の飽き性は誰もが知るところで、付き合いの長い者にはそれが微笑ましくすら思えるのだ。
いつものようにそれを見ていると、なにか思い立ったようにイリスが立ち上がり、迷わずデカンタが用意されている台車に歩み寄っていく。
「閣下。お酒は召し上がりますか?」
まるで当然のことのように転がり出た言葉に、周りの人々は揃って凍りついた。
――私は目が悪くなったのかもしれない。
それは、伯爵夫妻を除く全員の総意だった。
灰色、深緑、青灰色。それぞれ色の違う瞳が交互に見つめているのは、ウェンデルとイリスだった。
誰もが、ウェンデルがイリスを咎めることを期待していたが、ウェンデルはむしろそれに頷き、何も言いはしなかったがイリスに給仕をすることを促していた。
さっきから穴があくほど見つめているというのに、本人たちは気がついておらず、変わらぬ調子で話を進めていた。
「葡萄酒はどちらをお召し上がりになりますか?」
台車に用意されている赤と白の葡萄酒がなみなみと注がれた二つのデカンタを気にしながら、イリスが問う。
ウェンデルは少し考えたあと、口を開く。
「今日は赤を」
「かしこまりました」
イリスは頷くと、あらかじめ用意してあるグラスを取って、自分から葡萄酒の入ったデカンタを持ち上げて注ぎ出した。
その様子に、イザベラはとうとう目を覆った。
……これはどう考えても、伯爵夫人のすることではない。
イザベラもシャーメインに酒をついでやることはあるが、二人きりでくつろいでいるときだけだ。それですら見つかれば「奥様にさせるわけにはいきません」といわれる。
基本的に、食事の給仕は使用人に頼むべきことだ。邸の女主人がするべき仕事ではない。
仕事のように聞くイリスと、それに対して何も言わず、当然のように受け入れているウェンデル。
結婚からまる一年が経過したというのに、伯爵夫妻の関係がいまだ〝仕事の関係〟であることに、みんな揃って唖然としたのだった。
イリスは振り返ったが、絶句しているのに気付かず、微笑を浮べてお酒をすすめてきた。
「シャーメイン様とスピネル様もお召し上がりになりますか?」
「……え、あ、いや」
皆が唖然としている中、突然、話を振られたシャーメインとスピネルは目に動揺を走らせた。
酒は飲みたいと思うが、イリスにそんなことをさせるわけにはいかない。
「結構です。ありがとう、イリス」
「僕もいまは遠慮します」
二人の心の声など気付きもしないイリスは、ちょっぴり残念そうな顔をする。
「そうですか……では、イザベラ様とアレクシア様は?」
「……私もいまは」
「ええ、遠慮いたしますわ……」
気まずい間をおいたあと、二人はサッと目を逸らした。
いつもと違う義姉弟夫妻の雰囲気をようやく感じ取ったイリスは首をかしげ、困ったように伯爵に視線をやる。しかし伯爵はなにもいわず、退屈そうに、緩く酒杯を回していただけだった。
待つのが嫌いな伯爵である。待つ相手が可愛い姪と甥だから何も言わないが、大人だったら今頃文句の一つや二つ、言い出しているところだ。
お酒も数分の時間稼ぎにしかならず、伯爵がまたもイライラしだしたのを見て、居心地の悪さを悟ったイリスは逃げる口実を考えた。
「……レオルネ様とアンジェリカ様はお水よりジュースのほうがよろしいかもしれませんね。いま、頼んでまいります」
そういって、食堂からそっと抜け出すイリス。パタンという音が、静か過ぎる食堂に響いた。
イリスが物言いたげな義姉弟夫妻と伯爵の緩和剤になっていたのは、恐らく間違いないだろう。
その証拠に、イリスがいなくなった途端、いままで黙ったままだったイザベラが話し出した。
「ウェンデル。いまお前は自分の奥方に何をさせた?」
ヒクリと頬を引きつらせながらいうイザベラ。彼女は代名詞しか使わなかったし、灰色の目は伯爵をうつしていなかったけれど、自分に言われているのだろうということはなんとなく予想がついた。ウェンデルはしばらくの間、考え込む。
「……給仕?」
「そうだよ、給仕だよ! イリスになんてことをさせているんだ、この馬鹿ッ!!」
侯爵夫人としての佇まい云々(うんぬん)すべてをかなぐり捨て、イザベラは弟に罵声を浴びせた。
頭の中は煮えたぎっていたが、心の隅っこの冷えている部分で、こんな風に弟を罵るのはいつぶりだろうかと考えた。
イザベラの怒声に対して、他の三人は咎めることもせず、ただ目を伏せるだけだった。――その言葉は、三人の心中によぎった言葉と間違いなく同じなのだ。
「やってもらって当然みたいな顔をするな! イリスはお前の奥方だぞ、伯爵夫人だぞ! いい大人のくせに『ありがとう』の一言もいえないのかお前は!」
もっともな言い分だ。よって口出しはしない。
いままでためこんできたものを爆発させたイザベラは、苛立たしげに指でテーブルを打った。
「全く……こっちはお前と結婚してくれただけでも頭が下がる思いなのに……さっき給仕してるのを見て開いた口が塞がらなかったわ!」
「口はちゃんと閉じていただろう。見ていた」
「揚げ足を取るな! お前はもっとイリスのありがたみを感じろ!」
言いたいことをすべて出し切ったのか、イザベラはハーハーと肩で息を切らせた。
顔を赤くして怒鳴りつけ、威嚇するように睨みつけてくる姉に対し、伯爵はうるさそうに顔を歪めている。なにを言っても効果がない、という感じだ。
イザベラの忠告ですら意に介さない伯爵にさすがに酷いと思ったのか、いつもは兄に対して深く突っ込まないことにしているスピネルまでイザベラを弁護しはじめた。
「兄上。あの扱いは酷すぎますよ」
「感心しませんね、ウェンデル。彼女はあなたの妻で、あなたは彼女の夫です。彼女はあなたを敬う義務があるし、あなたも彼女を敬う義務がある。どうしてそのように無碍に扱うのです」
実弟と温厚なシャーメインにまで責められ、ウェンデルは嘆息を漏らす。そして、まだ息を吐き終わるまでに「やれやれ」とわざとらしく肩を竦めた。
「他人の夫婦仲にまで口を突っ込むのか、君たちは。無粋な輩がここにもいるとは……失望したよ」
伯爵はうんざりした様子で、腕を組みなおす。
言ったあと、彼は形のいい唇を吊り上げて笑った。けれど、目は笑っていなかった。
久々に見る絶対零度の凍りつくような目に、自然と全員の体が強張る。
「いわせていただくがね、侯爵。彼女は確かに私の妻だが、それ以外にも秘書という役目がある。給金を払っている以上、彼女は私を公私共に支える義務がある。彼女はその役目を果たしただけだ。それが悪いことかね?」
「でも」
「言い訳なら結構」
伯爵は手を上げて、その先を制した。
「これ以上はなにもいわないことだ。私も親類を傷つけたくはないのでね」
釘をさされて、全員、何もいえなくなる。嫌な沈黙が、食堂に満ちていく。
そんな中、この食堂内で一番高い声が上がった。
「……お義兄様はそれでよろしいんですのね」
いままで一言も言葉を発しなかったアレクシアは真っ向からウェンデルを見据える。
「イリスが何処かへ逃げて誰かと幸せになっても、お義兄様はよろしいのですね?」
「誰かと幸せ? イリスが?」
伯爵は面白いことを聞いたかのように唇を緩ませた。けれどそれが笑みに変わる直前で、硬く引き結ばれる。眉間に不愉快そうにしわが寄ったとき、伯爵が不機嫌になったのは誰の目にも明らかだった。
「……レクシー。君はなにがいいたい」
途中で話を遮り、思わずイライラ声で問い返すと、アレクシアは青灰色の瞳を揺らし、うつむきがちになった。
鏡がなくても、額の中央にしわが寄っているのが感じられた。きっと深く刻まれているのであろう。
イライラ声で遮られて声の調子は多少、弱くなったが、アレクシアは自分の言いたいことをしっかりと口にした。
「お義兄様にはイリスしかいないのかもしれませんが、イリスは誰とでも幸せになれるんですよ。
彼女にはまだ、お義兄様のもとを逃げ出して、幸せになる権利があるんですよ」
そういって、さらにうつむいてしまう。口を閉ざしてしまった妻を、夫らしくスピネルが慰めるように、そのか細い背を撫でた。
ウェンデルは口を閉ざして黙りこくっていた。いま口を開けば、彼女を傷つける言葉を口にしてしまうことを予感していたからだ。
ウェンデルは無性にイライラしていた。理由はわからない。わかっているのは、イライラしているのは、アレクシアの見解が当たっているという証明に他ならないとのみ。
イリスが何処かに行くなんて、考えたこともなかった。他の誰かと幸せになるなんて、考えたくもない。しかも、その光景を安易に想像できる自分に腹が立った。ここに自分の分身がいれば、殴ってやりたいくらいだ。
不愉快な思いのせいか、喉が熱くなってきて、酷いことを言わないうちにと、ウェンデルは荒々しく立ち上がった。無意味に親類を傷つけることは、ウェンデルも望んでいないのだ。
「悪いが、私は失礼させてもらう」
「兄上? だって、夕食は……」
「一人でとる」
呼び止めようとした弟を無愛想に切り捨てると、ウェンデルは大股で食堂をあとにした。
それから数分。ウェンデルと入れ違うようにして、イリスが戻ってきた。
「お待たせしました。飲み物のほうは手配しておきました。それと途中で会いましたので、アンジェリカ様とレオルネ様をお連れしました」
イリスの右手には、手を繋いでもらってご機嫌な義弟夫妻の娘アンジェリカが、イリスの後ろには、膨れっ面のレオルネがいた。大人たちと目を合わせないように、そっぽを向いている。
イリスが手を離し、両親の元へ向かうよう促すとアンジェリカはニコニコして父母の元へ歩いていった。寝起きにもかかわらず、イリスに構ってもらっていたくご機嫌な様子だ。
「お父様、抱っこ」
「ははは、甘えん坊だなあ、アンジェは」
まだ甘えたな時期の娘を抱き上げてやると、アンジェリカはさらにニコニコしだす。
親子のふれあいというとても微笑ましい光景を目にしたあと、あることに気付き、イリスはキョロキョロとあたりを見渡した。
「閣下は何処へ?」
「さあ……大方、自室じゃないかな。一人で食べるそうだよ」
テーブルに行儀悪く肘をつくイザベラは、何故か気まずそうな顔をしている。隣に座るシャーメインも同じような顔をしていた。
そのことをちょっと不思議に思いながら、イリスは首を傾ける。しかし、いま優先するべきことでないと判断し、なにも聞かなかった。
「そうですか……少し、様子を見てまいります」
子供たちを親に引き渡すと、イリスは踵を返し部屋から出た。
(ええっと……階段を上がって右に曲がる……だったかしら)
覚えたての曖昧な記憶を辿りながら歩く。途中何度も間違いそうになりながら、それでも歩き続けた。
邸にしろ、別荘にしろ……伯爵の所有物はなにもかも大きくて、広い。外観に騙されてはいけないのだということを痛感する。
ようやく見慣れた家具が目に入ってきて、一度も迷子にならずに部屋についたことに安堵する。冬の乾いた空気と安堵したことにより弾んだ胸をおさめてから、ノッカーで扉を叩いた。
「閣下、失礼します」
伯爵との兼用であるからイリスの部屋でもあるのだが、いつでも主導権を握っているのは間違いなく伯爵だ。いつもの癖が抜けず、扉を叩いてお伺いをたててしまう。
何度か扉を叩いたが、あたりはシン…としていて、返事が返ってきた様子は無い。
「もしやいないのか」と思い、様子を見るために取っ手を捻った。
扉の奥を見て、イリスは脱力した。
「……閣下。返事はしてください……」
自分には返事をしろといちいち小うるさくいうくせに、この人は……。
伯爵は肘掛に腕を置いて、体重を預けるようにして座っていた。緑の瞳は焦点が合わず何処を見ているのかわからなくてなにか考え事をしているように見えたが、寛いでいることに変わりはない。
呆れた息を吐いたあと、イリスは伯爵に歩み寄る。
「お食事はここでとられるのですか?」
念のため確認に聞くと、「ああ」と返事が返ってくる。一応聞いてはいるようだが目を合わせない上に生返事のような響きがあり、少し不快な思いに駆られたが、無理矢理押し込めた。
「かしこまりました。いま頼んでまいりますね」
念押しするようにいってみても、伯爵から返答はない。さっきからなにやら考え込んでいるようで、飽きずに空を眺めている。
こんなに長時間、考え事をするのは珍しいと思う。物事を早く進めたい性質の伯爵は、可否の決断も早いのだ。よって、考え事をしてもその時間は極端に短い。
あまりにも口数が少なくて、一体、何があったのかと心配になってくる。もしや熱があるのだろうか。年明けまで働き尽くめだったし、疲れが一気に押し寄せたのかもしれない。一年と少し前のイリスのように。
そう思うと不安になってくる。本人は平気そうだが、もし熱があったりしたら病人を一人で置くのは忍びない。
「わたしも閣下とここで食事をとってもよろしいでしょうか」
「……は?」
眉を僅かに顰め、怪訝そうな顔をする伯爵。自分の耳よりも、イリスの口を疑っているようにジロジロ見てくる。
伯爵の反応を見た瞬間、馬鹿なことを言ったとすぐさま後悔した。彼は一人になりたかったのかもしれない。考え事が重大なものだとすれば、ますます申し訳なくなってきて、イリスは慌てて弁解した。
「お一人がよろしいなら、イザベラ様やスピネル様と一緒にとりますが……」
「………」
数瞬の間のあと、「好きにすればいい」という答えが返ってきた。返答したことに少しホッとすると、自然と頬が緩んだ。
「では運ばせます」
イリスは微笑んで、一旦部屋をあとにした。
通りがかった使用人を捕まえると、食堂に集まっている人達へ、夕食は自室でとることと謝罪の旨を伝え、そのあとに食事を運ぶように頼む。
頼んで部屋に戻り、先程から変に静かな伯爵と共に穏やかな沈黙を耐えていると、夕食を持って使用人がやってきた。先程支度が整ったばかりのようで、湯気が立っていて温かそうだ。今日は煮込み料理が主で、冬の寒さと旅の疲れにはありがたい調理法で料理されている。
鍋掴みで蓋を取り、ある程度の給仕をしてから、使用人たちは去っていく。
使用人たちが去ると、伯爵は銀食器を取って無言で食事を始めた。フォークでサラダをつつき、口に運びだす。
いつもはなにかしら喋ってくれるのに、妙に重たい沈黙にイリスはすっかり萎縮してしまった。あの形のいい唇からきつい言葉が出ないのは嬉しいことだけれど、いきなりそのときがくると拍子抜けしてしまう。伯爵を構成しているものの一つに『毒舌』が含まれていることを、改めて実感した瞬間であった。毒舌のない伯爵は、苺のないケーキのようなものだ。
黙って食事を続ける伯爵に合わせて食べながら、イリスはぼんやりとそんなことを考えた。
粗方、食事を終えるとベルを鳴らして食器を下げさせ、食後のお茶を持ってくるようにと指示する。使用人は礼儀正しく「かしこまりました」と頭を下げて、伯爵夫人の指示に従った。
食後のお茶を飲んで一息ついたとき、ウェンデルはようやく、まともにイリスの顔を見た。
砂糖の入ったお茶を喉に流して胃が落ち着いたのか、ホッとしたような表情を見せ、少し眠たそうにしている。出発のために今日はいつもより少し早起きだったし、無理もないかと納得した。
口を押さえて欠伸を噛み殺したイリスは、溢れた涙を乾かすためか、何度かパチパチと瞬きする。そのときに見えるトパーズ色の瞳は涙に濡れて、キラキラしていた。
――イザベラたちに口々に言われて、ウェンデルは少し、イザベラのいっていた『イリスのありがたみ』とやらについて考えてみることにした。
イリスがそばにいないと、妙に落ち着かないときがあるというのは、普段から感じている。
例えば彼女が一人で自分の使いとして外出しているとき。一人きりの仕事部屋が物足りなく感じる。例えば、娼館で夜を過ごそうと思ったとき。隣が物悲しく感じる。
普段、寝台を別にして眠っているイリスよりも床を共にする娼婦や愛人のほうがグッと距離が近いというのに、満たされない部分がある。愛人たちにしても同様で、共に過ごしてもやはり、隣に穴があるような空虚な気持ちになる。
イリスが性的になにかをしてくれるわけでも、かといって娼婦たちが言う甘い砂糖菓子のような言葉をくれるわけでもない。だが、イリスと共にいるときはその満たされない思いを感じることがないのだ。
そしてもう一つ、驚くことがある。それは、仕事時間を含める一緒にいる時間を、ここ一年、苦に思ったことがないということだ。
これは確かに、イリスに感謝しなくてはいけないと思う。前は途中で飽きて集中力が途切れるのもしょっちゅうだった。仕事の時間が苦でないということは、イリスがきちんと〝秘書〟として仕事をしているという証明に他ならない。
「………」
少し違う気がしたが、『イリスのありがたみ』とやらを再確認したところで立ち上がり、隣室に向かう。
適当な本を選んで居間に戻り偶然、目が合うと、やはり少し眠そうな顔で微笑む。
「本をお読みになるのですか? お茶を淹れなおしましょうか?」
イリスの視線の先にはポットがある。
丁度、もう一杯欲しいと思っていたところだったので、首を縦に振る。
イリスは柔らかく微笑んだあと、伯爵が先に長椅子に座るのを待ってから、空になったティーカップにお茶を注いだ。
そのまま立ち去ろうとするイリスの手をほとんど無意識で掴むと、イリスは目を丸くした。
「あの……?」
手首は細く、少し力を入れれば折れそうなほどで、心なしか血色が悪く感じられた。イリスは特別華奢というわけでもなくただ単に細いだけなのだろうが、考えていることが考えていることなため、「普段自分が苦労させているせいだろうか」と考えてしまう。
戸惑っているのも無視して隣に座らせると、立ち上がろうとするので髪を引っ張って牽制する。意味を解したのか、座りなおして大人しくする。掴んだ髪を引っ張ると、自然と顔が寄った。
先だけうねった麦色の髪。ありがちな色だが、嫌いではなかった。
手入れのされた絡まない髪を見ていると、イリスは不思議そうな目をする。
唇を取った髪の一房に近づければ、ますます不思議そうな顔になった。
「閣下?」
「なんだね」
「どうか……なさったん、ですか?」
どもりながら、イリスは深緑の瞳を見上げて視線を合わせた。目を見ればなにがあったかわかるだろうと期待した。が、伯爵の瞳は色が深すぎてよくわからず、逆に頭を混乱させる結果となった。
髪に触れられるのはまだいい。彼の暇潰しになるのにはもう慣れた。けれど、いつもと空気が違う気がする。それが、イリスを落ち着かせてくれなかった。
いつもと少し雰囲気が違う伯爵にソワソワしていると、ちょっと動きを止めたあと、大きな手がイリスの顎をとり、親指の腹で唇の下を優しく撫で擦った。
「触れるぞ。いいな?」
「? なににですか?」
顔を近づけると、聞き返す間も抵抗する間も与えず、唇を重ねる。
普段しないことを〝しよう〟と思いたったのは、魔が差したせいか。薄い色の唇に自分のそれを押し付け、葡萄酒の味を堪能するときと同じように、何度も離してはイリスの唇の柔らかさを味わう。
イリスはしばらく目玉が床に落ちるほど大きく開けて固まっていたが、唇のふれあいが五度目に達すると、困ったように眉尻を下げて頬をほんのり赤くさせた。いくら男に興味がない彼女でも、さすがに意識してしまうのだろう。
唾液で充分に唇が濡れたのを察すると、鼻先が触れる位置まで顔を離してベロリと濡れた唇を舐める。するとますます困ったような顔になり、最早途方にくれているように見えた。
クルクルと変わる表情に面白くなってきて、顎を上に向かせ、首筋を露にさせる。立襟のせいで僅かにしか肌の面積がなかったけれど、思ったよりも白くほっそりとした首に、好奇心で胸が疼いた。
顎の曲線に沿って首に唇を這わせると、くすぐったいのか肩が竦み、喉が上下する。
顔を離すと、顔の赤いイリスと視線が交差した。が、絡まった視線を切るようにして、ウェンデルは緑の目を瞼の奥に隠してしまう。
イリスが少なからず自分を意識したことで、満足感が胸に沸き上がった。
満足感たっぷりの溜息を吐き出したウェンデルは、目を伏せていたため、イリスがビクリと肩を竦ませたことに気付かなかった。
一方で、イリスはこれ以上ないほど動揺していた。口付けなんて、されたことがない(一年前の口付けは夢なので数えない)。それも一度じゃなくて、数え切れないほど。さすがに舌を入れてきたりはしなかったけれど。
(やっぱり今日の閣下はおかしいわ……)
自分が使用人に子供の飲み物を頼みにいった、あの数分の空白の間に一体何があったのだろう。
伯爵のいまの様子は、例えるなら――発情期に突入した、猫だ。
もしかすると、女を抱きたくなったのかもしれない。思えばここ数日の大雪の忙しさで女遊びをする暇もなかった。三日に一度の勢いで女を抱いていた彼には、禁欲は苦しいものだったに違いない。
あとで娼館を予約するか聞いておくか、と考えたがイリスはそれを後回しにし、一番気になったことを聞くためにゴクリと喉を鳴らした。
「か……閣下……?」
「ん……」
少し面倒くさそうな返事だったが、嫌そうではなくてホッとした。
「もしかして、お熱があるんですか?」
「んん……」
僅かに眉を寄せて首を横に振る。
……違う、といっているのは伝わるが、ちゃんと言葉で伝えて欲しい。この先も人の言葉を喋ってくれないとなると、イリスにわかるのは『はい』と『いいえ』の区別のみだ。それさえも、首を縦に振るなりなんなりしてくれないと判別できない。
だから、この要求は自然なものだと思う。
「ちゃんと人語を喋ってください……」
眉を下げると、伯爵は瞼を上げ、イリスにチラリと目配せした。
「君はやたらと言葉で伝えたがるな……人間とはどうして言葉で伝えたがるのだろうね。言葉がなければ戦争もない。そうは思わないかね?」
いきなりすごい持論を唱え始めた。残念ながら、イリスはそう思わない。だから、そんな期待のこもった目で見ないで欲しい。
「そういわれても……それでも、言葉は大切ですもの」
「……ふぅん」
伯爵は緑の目を猫のように細くする。だがその話に関してはそれ以上、何も言わなかった。けれど、その話とは別に変なことを聞いた。
「イリス」
「はい?」
「何処かに行く予定は?」
「? 何処に行くんですか?」
「ならいい」
何処かホッとしたような、満足そうな声でいって、伯爵は微笑んだ。
彼の中でこの話は終わったのだと察すると、イリスもそれ以上の詮索はやめることにした。鬱陶しがられるのがおちだ。
自分も読書をするか、と思って本を取りに行こうとすると、イリスは思い出したように足を止めた。
「ところで、閣下。今日は娼館に予約を入れますか?」
イリスの純粋な〝気遣い〟からきた提案に、伯爵の満足感で満たされた心は一気に冷えた。
「はぁ?」
最近、文章スランプです(汗
読み直して後悔……無意味に甘ったるくてすみません。でもこれで夫婦関係が……少しは変わるはず!
デレ伯爵はちょっと書きにくいです……普段と違いすぎるので(笑)
デレた伯爵になにか感想をいただけると嬉しいです(^^)