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アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅲ 伯爵夫妻の日常~年明け編~
11/30

伯爵夫妻の年明け旅行

私的な用事と新キャラたちがつかめず戸惑い、更新が遅れてしまいました(^‐^;)

Ⅲ、始動でございます。時間枠はⅠと同じです。ややこしいですが、楽しんでいただけるように頑張ります。

できれば甘い展開も入れたいなぁ(^^)


※お断り

Ⅲはお話の構造上、貴族の聖夜、年明けの過ごし方の記述が多々ありますが、実際の貴族の年明けとは違います。作者の想像の産物です。ファンタジーだと、十分理解したうえでお楽しみください。


それでは、どうぞ(^^)

 イリスはそっと、寒気除けにつけられた馬車のカーテンを捲って、外を見た。


 道には、誰もいない。それどころか開いている店すらなく、繁盛しているのは娼館くらいだろう。


 朝いちで看板があがるパン屋が開いていなければ当然、他の店が開いているわけがない。年が明けたばかりの今日、開いている店は、居酒屋くらいなものだ。


 珍しく雪を被ったパン屋の煙突を、目で追う。


「これぞ年明けって感じですね」


 通り過ぎてゆくパン屋の煙突を見ながら、イリスは静かに呟いた。


 この大陸において、年明けというものは〝聖夜〟ほど重要ではない。


 聖夜の教会では何処も神官により荘厳な礼拝が行われる。儀式のときにだけ許された赤い絨毯を敷き、平民の合唱団が賛美歌を歌い、それはそれは豪勢なものとなる。教会から帰ると、ご馳走を食べてこの一年を無事に過ごせたことを神と家族に感謝し、祝うのだ。それから一週間ほどして、追うように年明けがやってくる。


 聖夜の忙しさのためか、この大陸に置いて、年明けは聖夜ほど重要ではなく、荘厳に祝ったりはしない。せいぜい、午前に礼拝があるくらいだ。それさえ、聖夜ほど念入りなものではなく、普段とそう変わらない。


 年明けはいわゆる、聖夜の忙しさを忘れる休暇なのである。それ故、年明けはどの店も工場も、運営しないことが多い。たまに開いている店もあるが、それさえもすぐにしまってしまう。年明けは家の中で家族と(くつろ)ぐことがよしとされていて、客が少ないからである。


 ジッと外を見ている妻を、伯爵は「ハッ」と鼻で笑い飛ばす。


 彼の手には数枚の書類があり、利き手には万年筆。先ほどからガタガタ揺れる車内で、書類に目を通したかと思うと書き殴るようにして署名をしている。


「そんなことは言わなくても知っている」


 不機嫌極まりない声で伯爵――ウェンデルが言った。


 イリスは眉を下げて、困ったように溜息を吐く。新年早々、この調子だ。少しでも空気を和ませようとした自分の努力を察して欲しい。


「……閣下。仕事の苛立ちをわたしにぶつけないで下さい。仕方ないでしょう? 緊急の書類なんですから」


「緊急? なにをもって緊急だというのかね。こんなもの、一週間後に見ても差しさわりのないものばかりじゃないか。イリス、君にも出来る」


 それはつまり、率先してわたしにやれと暗に(ほの)めかしているのですか?


 バサッと苛立った仕草で、署名した書類を床に落とす。イリスはいそいそとそれを一枚ずつ拾い、アルファベット順に並べた。


 そんなに怒らないで欲しいものだ。とばっちりを受けながら、イリスは心の中で呟いた。


 すべてを拾い終え、封筒にしまって横に置く、あとで使用人に頼んで送らなくてはいけない。


「年明けにまで仕事を送ってくるとは、いまの商連の責任者はよほど空気が読めないと見受ける。国の商売を一手に引き受けている商連がこのざまでは、国の行く末が心配だよ」


「閣下、いいすぎですよ」


 さすがにこれ以上は聞くのが嫌なので、小声で(たしな)めると、伯爵は怪訝そうに眉を(ひそ)めた。


「私の言い分は理にかなっていると思うがね。私が本当に心配だといっているのは、重要書類とそうでない書類も分けられない、未熟な頭を持つ人間を、商連が好きに動かせていることだ。まあ近々、各部署で人事の見直しがあるだろうから何も言わないでおいてやるが」


「……はあ。そうですね」


 一番心配なのはあなたが堂々と伯爵をしていることなのですが、という言葉を、ゴクリと飲み干す。


 相槌を打つとようやく静かになったので、イリスも大人しく沈黙に身を任せた。別荘まで、あとどれくらいかかるのだろうか、と思いながら、座席にもたれかかる。


 年明け休暇は貴族も、平民と同じように家族で数日間の休暇を楽しむ。そして、それらは決まって別荘地へ向かう。


 イリスの家はそんな余裕が無かったので、年明けは家族みんなで料理をして沢山お菓子を焼き、本を読み、チェスをして、時折、母がピアノを弾いたり……と、室内で出来る精一杯の娯楽を楽しんだものだ。


 だが、イリスの実家とは経済力から家格から、なにからなにまで違う伯爵である。当然、別荘をいくつか所有している。彼が伯爵を継いだ頃に不要な別荘は親類や他貴族に賃貸していたようだが、今回の別荘は彼自身が気に入って購入したものらしい。


 シェーレン公爵領は北方では珍しく雪の害が少ない。アダーシャンも北方では暖かいほうであるが、雪の害がまったくない王都寄りのシェーレンとは歴然とした差がある。


 そのため、シェーレン公爵領で冬の(いこ)いの場として別荘を買い求める貴族は多い。伯爵も購入に難儀したのだろうかと思ったが、その予想は呆気なく外れた。伯爵はシェーレン公爵家に伝手を持つ友人がいるのだ。彼に話をつけてもらったとのこと。そうして購入した別荘に呼ばれているのは、伯爵の姉弟夫妻と、甥と姪という、伯爵の近親者だけである。


 聖夜が過ぎたあと――正確には年越しの五日前――アダーシャンには雪が降り、今年はじめての大雪と相成った。


 雪が降ることは予測できても大雪になるか、いつやむかまでは予測できない。雪は一日中降り続け、翌日にはやんだものの、道にはかなり雪が積もっていた。

当然、雪かきというものが必要なわけで、伯爵は道路整備の問題で聖夜明けの数日間忙しくするはめになり、そしてずっと不機嫌だった。やっと一息つけたかと思えば、年明け早々、商連からの書類。イライラしている伯爵は、別荘での安らぎの時間にさぞかし、期待をかけているに違いない。


 おまけに、アダーシャンでちょっとした渋滞に巻き込まれてしまった。皆考えることは同じで、別荘に向かう途中の、貴族の馬車で道が混みあっていた。大雪による雪の害の名残がまだあることを承知の上で出発していたので、伯爵はなにもいわなかったが。


「関所で足止めをくらってしまいましたから……イザベラ様たちはもう着いていらっしゃるかもしれませんね」


 イザベラの嫁ぎ先である侯爵領はアダーシャンよりもシェーレンの別荘に近い。弟君は王都に住んでいるので、もしかするとイザベラたちよりももっと早く到着しているかもしれない。


「仕方がないとはいえ……遅れるというのは、少し申し訳ないですね」


 独り言のように言うと、膝の上に頬杖をついていた伯爵がいった。


「我々が早く着こうが遅く着こうが、あの二人は気にしないと思うがね。子供たちは子供同士で遊びだすし、親同士も好きなだけ話が出来て退屈しない。それに、あの二人は私と違って気が長い」


「………」


 確かにそうだ。イザベラは手のかかる弟(勿論、伯爵のことだ)の世話を見ていたからか、伯爵に比べて心が広く気が長いほうで、弟君はのんびりと物事を進めるのが性に合っているらしい。


 伯爵はどちらかというとせっかちなほうだ。イリスもてきぱきと物事を進めたいほうであるので、仕事の上での相性はとてもいいのだろうが。


「……ところで、イリス」


 腕を組んだ伯爵は、斜めを見ながら口を開いた。突然やってきた暇に耐えられなくて口を開いた、という感じだ。


「聞くのを忘れていたが、孤児院に聖夜の贈り物の菓子はちゃんと届いていたかね? 報告を聞いていないんだが?」


 唐突に一週間前の出来事を聞いてきた伯爵に、イリスは仕事の顔で頷く。


「届いておりますよ。お礼状も来ておりました」


「ならいいが」


 ……ちゃんと報告しましたよ。人の話を聞いていなかったのか、この人は。しかも、届いたお礼状のことまで忘れている。目を通していたのを、しっかりと見届けた覚えがあるのだが。


 イリスは内心で呆れ、思わず眉が垂れてしまった。忙しくて聞く暇がなかったというのならまだ納得できるが、イリスが伯爵にその報告をしていたのは就寝前、彼が本を読んでいたときである。


 本を優先して聞いていなかったのだろう。思えばあのときの返事もいい加減なものだった。


 呆れられているというのに気にも留めない伯爵は、ちょっと黙り込んでから、また口を開いた。


「年明けの舞踏会の誘いは?」


「全部断りました。閣下が断れと申されましたので。文も早くに送ってあります。……あの、本当に断ってもよかったんですよね?」


「あちらが是非にと呼びかけているのだから、私に拒否権がある。……まったく、酔狂な輩もいるものだよ。聖夜のあとはゆっくりと寛ぐものだと決まっている。常識のわからないやつらと年明けにまで付き合う必要性を、私は感じないね」


「………」


 伯爵は落ちてきた髪を後ろに払いながら、決め付けたようにいう。


 どうにかしてその端正な唇を黙らせられないだろうかと、恐れ多くも考えてしまい、イリスは目を伏せた。


 時折伯爵がつぶやく言葉に相槌を打ち続けていると、少しずつだが別荘に近づいていく。


 別荘はアダーシャンの邸よりも小さかったが、民家に比べれば天と地ほどの差だ。外観は小さな宮殿、といった感じで、普段住んでいる邸とは違って二階建てだった。


 暖色の煉瓦で彩られた屋根は雪が薄くしか積もっておらず、シェーレンがいかに雪の害が少ないかということを見せ付けている。


 それほど寒くないことを嬉しく思い、イリスの心は浮き足立った。それがたとえ他人の所有物であっても、普段、仕事以外で外出の機会がないイリスにとって、お泊りというのは楽しみ以外の何者でも無い。心が浮上するのも仕方がないといえよう。


「イリス」


 ここから見えるといってもまだ小さい別荘に早くも釘付けになっていたイリスは、気恥ずかしさを押し込めて伯爵のほうを向いた。


 今年で二十二になるというのに、子供のようにワクワクしている自分に一気に恥ずかしくなる。頬が赤いのは寒さのせいだと思ってくれればいいのだが。


「は、はい」


「一つ言っておくが」


 裏返ったイリスの声とは違い、ウェンデルは冷静な声を出す。声の調子とは裏腹に、熱く真剣な眼差しが、イリスに突き刺さった。


「別荘には遊びに行くのではなく、休みに行く。――そのことを、忘れないように」


 自分の邪魔をするな。うるさくするな。最低限、話しかけるな。呼びかけるな。


 声には出していないけれど、イリスにはそういわれているように感じられた。


 イリスはギュッと唇を噛んで、物言いたいのを堪える。イリスが言っても、伯爵は聞く耳を持たないだろう。


 どうやらここでも、秘書としての力量を求められているらしい。確かに、主人が快適に過ごすための環境作りをするのは、秘書の仕事。けれど、片や仕事、片や休暇だ。イリスは公私共に補助する〝秘書〟としてではなく、単に〝奥方〟として楽しむために別荘に連れて行ってもらえるのだと期待していたのだが、伯爵はそういうつもりではないらしい。


「……はい。かしこまりました」


 ……つまり、ただで寛げると思うなと。いくら休暇でも心配りはしろと。


 イリスの浮き足立った心は一気に萎んだ。





 別荘に着くと、ようやく馬車から降りることが許された。長時間揺れ、座ったままだったのでお尻が痺れて立つのに苦労したが、なんとか通常通りに振舞うことが出来た。


 雪の害が少ないとはいえ北の地方の一部には変わりなく、外は冷え切っていたため、出迎えてくれた執事が「どうぞ中へ」と促した。


 この別荘に来ること自体がはじめてのイリスに執事が最初に教えたのは、自分の名前だった。


「アンソニーと申します、奥様」


 慇懃に頭を下げながら自己紹介をする執事に、イリスは少し緊張しながらも微笑んだ。


「はじめまして、イリスと申します。しばらくお世話になります。……確か、エドウィン様のご子息でしたね」


「はい。父がいつもお世話になっております」


 お世話になっているというか、お世話されているほうなのだが。


 決まっている言葉だとわかってはいても奇妙に感じ、イリスは苦笑した。


 執事と挨拶を交わしているうちも、伯爵は待ってくれない。外套を使用人に預けたあと、イリスが見たときにはいつのまにか自分勝手に階段を上がっていた。


 今日は外出着で、慣れない長い裾だから、階段を上がるときはゆっくり歩いて欲しいものだが……彼に言ってもおそらく、効果は期待できないだろう。


「部屋の用意は?」


「出来ております。ですが、まずは居間に顔を出されるがよろしいかと。イザベラ様やスピネル様がおいでです」


「スピネルも来ているのか。思ったより早かったな」


 あまり抑揚のない声でいいながら、手摺(てすり)に手を滑らせる伯爵。


 予想通り、イザベラ夫妻はすでに到着していたようだ。それどころか、義弟夫妻も到着しているらしい。


 姉と弟の話を聞いた途端、伯爵は足を止めた。やっと追いついたアンソニーは、先程の話の続きを言う。


「それと、大奥様はおいでにならないそうです」


 アンソニーから〝お母上〟の話を聞いた瞬間、伯爵はやれやれと嘆息した。


「旅行だろう。父が死んでから未亡人仲間と共にあちこちをウロウロしている」


「そのように仰っていました。……それと、ヴァルザー様ですが、つくのは夕食を過ぎてからになるかもしれないと文が」


「……。……なら別に来なくてもいいといってやれ」


 伯爵は一瞬の空白を置いてから、溜息混じりにいった。


 執事は冗談のつもりで受け止めているようだが、イリスには結構本気で言っているように聞こえた。


 イリスは溜息を吐く。それが伯爵に対してのものか、それとも、慣れないドレスの長い裾のせいかは、わからないということにしておいた。少し考えればわかるだろうが、知らないほうが楽な日もある。


 伯爵は真っ先に用意された部屋に向かうつもりだったらしいが、アンソニーの進言に従うつもりらしく、階段を折り返して居間に向かった。


 はじめてみた別荘の内装はやはり、伯爵邸とは少し違っていて、イリスの興味を引いた。白磁の花瓶に黒檀の小テーブル。花柄の壁に取り付けてある燭台は人が通るたびに蝋燭の火が揺れ、そこかしこにガラスや貝を埋め込んだモザイク絵画がかかっている。外観も内装もクリフォード様式で彩られた伯爵邸とは雰囲気も違う。同じ伯爵の持ち物だというのに、不思議なものだ、と思う。


「お待たせして申し訳ありません。道がこんでおりまして、遅くなりました」


 広々とした居間に入るなり、伯爵に代わって遅れたことを謝罪する。が、伯爵の言うとおりイザベラも弟君も特に気にしていないようで、笑顔で出迎えてくれた。


「久しぶりですね、お二方」


 真っ先に挨拶しようとしたイザベラを押しのけて挨拶したのは、彼女の夫の侯爵だ。先を越されたイザベラは、軽く夫を睨んでいる。だというのに、侯爵は何処か楽しそうだ。彼はイザベラを怒らせるのが好きらしい。


 イザベラはたまに息子を連れて遊び帰りに邸によることがあるのでさほど懐かしく思わなかったが、シャーメインには滅多に会えない。最後に会ったのは、昨年の夏だったような気がする。


「お久しぶりです。シャーメイン様、イザベラ様。お待たせして申し訳ありませんでした」


「いや、心配するほど待たされてない。そっちは数日前、雪が降ったんだって? 心配していた」


「はい。そのせいで年末が忙しくて」


 言って、チラリとまだ少し不機嫌な伯爵に目をやる。意味を解したイザベラは、「相変わらずだな」といいつつ、苦笑した。


「ご苦労様。ゆっくり休んで旅と日頃の疲れを取るといい。そのための年明けなのだからね」


 といい、イリスに椅子を勧めてくれる。


 イリスは笑顔になり、ありがたく腰を下ろした。


 遅れたというのに、みんな申し訳ないくらいに温かく迎えてくれた。その中でも一番笑顔だったのは義弟夫妻で、二人を見ていると無意識にこちらもニコニコしてしまう。


「ご無沙汰しております、義姉上」


 弟君が挨拶してくれる。相変わらず気持ちのいい爽やかな笑顔だ。彼の方が年上なのに、人懐っこいせいかあまり年の差を感じない。

「本当にこの人の弟か」と、思わず見比べてしまう。襟足にかかる程度に切られた黒髪の巻き毛に白い肌、深緑の瞳。容姿は似ているのだが、纏う雰囲気がまったく違うのだ。雰囲気だけでなく、実際、弟君のほうが付き合いやすい。


「お久しぶりです、スピネル様。アレクシア様」


「ふふ、お久しぶりね、イリス」


 弟君の奥方の笑顔は本当に和む。無条件にニコニコしてくれる彼女を見ていると、世界が一気に平和になりそうだ。


「みんなでお茶でも飲もうと思っていたところなの。お二人の分もティーカップを持ってこさせるわね」


「はい。ありがとうございます」


 お礼を言うと、彼女はふんわりと、幸せそうに微笑んだ。その笑顔が思わせるのは、カスミソウのような清楚な花々。これほど純白が似合う人はいないだろう。縦巻きにした金茶色の髪は左右を肩に流し、あとは後頭部で一つに纏めている。紫とピンクの薄い中間色のドレスを纏い、水色のショールを羽織っている。


 アレクシアのほうが年上なので、年上に敬語を使う癖がどうしても抜けないイリスは、彼女に敬語を使ってしまう。戸籍上、アレクシアは義妹にあたるのに、義姉ではなく義妹がため口なのは、考えてみれば変な感じだ。だが、そちらのほうが親しい感じがして嬉しいので、イリスは何も言わないことにしていた。


「失礼いたします」


 アレクシアがティーカップの用意を頼もうと立とうとしたとき、使用人が数人居間に入ってきた。トレイの上にはイリスと伯爵の分のティーカップが載っており、使用人の察しのよさと躾のよさに感心させられる。アンソニーはエドウィンに負けないくらい優秀なようだ。


「父上っ、父上!」


 暖かいお茶が注がれたティーカップが全員に行き渡った頃、扉から黄色の頭をした男の子が飛び込んでくる。


 落ち着きのない歳相応の様が微笑ましい。しかし、父のシャーメインと母のイザベラは溜息をつきたそうな顔をしている。


「人前で騒ぐのは感心いたしませんね、レオルネ」


 言い聞かせるような口調で、シャーメインが窘める。対するイザベラはとうとう肩で溜息を吐き、独り言のように呟く。


「まったくいつまで経っても落ち着きのない子だ。……レオルネ。叔父上に挨拶は?」


 母にいわれてようやく、叔父がいることに気付いたらしく、突然もじもじしだした。多感なお年頃というやつだろう。

 イザベラは呆れているが、子供が好きなイリスからすれば、なにもかもが歳相応で微笑ましい。まだ七歳なのだ。


「……ご無沙汰しております、叔父上」


 緊張で何もいえなかったレオルネだが、しばらくして小さな子供に似合わない堅苦しい言葉をなんとか紡ぎ出す。


 伯爵は重たそうな睫毛を上げてジッとレオルネを観察するように見下ろすと、少し微笑み、レオルネの頭をポンポンと叩く。


「また背が伸びたな」


 そう一言声をかけると、レオルネは恥ずかしそうに顔を赤くした。


 子供向けの言葉が思いつかなかったのだろうか。大人に対するときは饒舌(じょうぜつ)なのに、子供相手だと途端に無口になる。もしかして、慣れない子供相手に伯爵も緊張しているのだろうか? もしそうだとしたら笑える。


 伯爵に対してかなり失礼な思考を封じたイリスは、微笑を顔に浮かべ、自らレオルネに声をかけた。


「お久しぶりです、レオルネ様」


 途端、レオルネの体が強張った。


(あれ?)


 さっきまで伯爵に頭を撫でられて嬉しそうにし、大分緊張がほぐれてきたと思ったのに、また肩に力が入っている。


「レオルネ様?」


 また緊張させてしまったのだろうかと不安に思って顔を覗き込もうとすると、レオルネは顔を一層赤くして睨みつけてくる。


 小さな子供が睨んできてもあまり怖くはないけれど、イリスは困惑してしまった。


(怒らせるようなことをいったかしら?)


 咄嗟に自分の言動を振り返ってみるが、レオルネを怒らせるような言葉は一つもない気がする。


「僕は……」


 意味がわからず目をパチクリさせていたが、本当の衝撃はまだ待っていた。


「お前のことを認めたことは一度もないっ!!」


「え」


「僕に気安く声をかけるな!!」


 幼い少年特有の甲高い声がイリスにぶつけられる。一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「レオルネ!」


 呆けたように身動きが出来ず、それどころか何も考えられなかったが、突如聞こえた怒声に、自分に向けられたものではないとわかっていても怯んでしまった。


「その口の利き方はなんです! 恥を知りなさい!」


 シャーメインが怒った顔で睨みつけると、レオルネは肩を竦め、顔面蒼白で脱兎のごとく逃げてしまった。子供はすばしっこい。


 逃げ出した息子を捕まえるのは至難の業らしく、シャーメインは溜息を吐き、困った顔をした。


「申し訳ありません、イリス。口が悪い子で……」


「いえ、大丈夫ですよ。子供はそう言うものですから」


 そう微笑んで答えたものの、イリスは内心でかなり衝撃を受けていた。


 なにか自分は悪いことをしただろうか。声をかけたのが悪いことだったのだろうか。イザベラと一緒に邸を訪れたとき、レオルネはいつもイリスを避けるように消えていた。いつもはすぐに帰ってしまうから諦めていたけれど、この別荘での滞在期間の間に、仲良くなれることを期待して、声をかけたというのに……。


(……あら?)


 なにか大変なことを見落としていた気がする。


 すべてを順序だてて整理して、何度も反芻する。そうすると、導き出される結論は一つしかなかった。


(……もしかしてわたし、嫌われてる?)


 イリスはいま気付いた。



 ***************



 伯爵夫妻が案内されたのは、広い部屋だった。扉を開けるとまずは居間があり、右側の壁にまた一つ扉がある。その先は寝室で、ご丁寧に、寝台は二つ用意されていた。


 アンソニーはなにもいわなかったから、恐らく、二人でこの部屋を使えということなのだろう。


 寝室にはすでに荷物が運び込まれており、居間でくつろいでいるうちに、ドレスはすべてクローゼットにかけてブラウスとスカートは箪笥にしまってくれたようで、箱の中身は空だった。


 寝室の衝立(ついたて)の裏で、外出着から普段着のブラウスとスカートに着替え、胸でリボンを結び、衝立から出る。伯爵はすでに着替え終わったようで、数分も前に寝室からいなくなっていた。


 居間へと続く扉を開ければ、いつもの黒絹のシャツにズボンの楽ないでたちで、ガウンを着込んだ伯爵がいた。居間の長椅子で本を読んでいる。


「……随分と、嫌われたものですねぇ」


 先程のことを思い出して自嘲したあと、一人掛けの椅子に腰かける。

 伯爵は分厚い本の奥から、目をやった。


「まだ気にしているのかね?」


「……そりゃあ、まあ。気にしますよ。子供は好きなので……ハァ」


 思わず溜息が零れた。


 暴言ならまだ許せたが、自分を根本から嫌う言葉にはただならぬ衝撃を受けた。まだ胸が痛い。


 落ち込むイリスに対して、伯爵はちょっと不思議そうな顔をする。


「随分な落ち込みようだね」


「そうですか?」


「私には随分と沈んでいるように見えるがね。……だが、子供とは総じてああいうものだろう」


 伯爵は呟いた。


「気にしていてもしょうがない。大人とは違うし、言ってもなかなか聞かない。それに、レオルネは少し気難しいところがある。結婚も突然のことでイザベラ以外には当日まで紹介していなかったし、突然出来た叔母という存在を受け入れられないだけだろう」


 そう言って、伯爵はまた本に目を戻した。最後に「だから気にするな」という言葉が暗に伝わってきたのは、イリスの気のせいだろうか?


(もしかして、慰めてくれたのかしら?)


 イリスはちょっとだけ目をパチパチさせる。まじまじと伯爵を見るが、彼はもう、こちらには目もくれず、本を読み込んでいるらしかった。


 珍しいこともあるものだ、と思う。伯爵に慰められたことなんて、今日がはじめてではないだろうか。明日は氷柱がふるかもしれない。


「そんなに酷い顔をしていたかしら?」


 頬に手を当てて心の中で思ったことを口に出すと、伯爵は本に目を落としたまま口を動かす。


「私に比べれば、まあそうだな」


 独り言なのに返された。それも悲しいくらい平然と、何気にきつい言葉を。


 イリスは溜息を禁じ得なかった。


 意味の捉え方がちがう。


(わたしにならなにをいってもいいと思ってるのかしら?)


 自分の容姿は充分承知しているから今更なんとも思わないけれど、他の女性――例えばマリーシュカを含む愛人たち――にも、同じことを言っているのだろうかと不安になってくる。


「……閣下。それは比べる対象が間違っています」


 そう言い返したとき、部屋の扉が軽く叩かれ、「お夕食の準備が整いました」と、冷静な声で、執事が外から伯爵夫妻に声をかけた。

文章に出しております、聖夜という言葉は、クリスマスのことです。意味がわからなかった方、申し訳ありません。

次も頑張りますので、応援よろしくお願いいたします。

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