夢見心地に優しい手
後編です。Ⅱはこのお話で終了となります。
伯爵夫妻でははじめての濃い目(といえる?)甘があります。
最後の方に結婚式あります。題名を考える頭がなくてほんと申し訳ないです(´Д`;)ハワワ
今回の伯爵は比較的、優しいほうかと……ハッ、ネタバレ!!
ではでは、Ⅱ最終話、お付き合いくださいませ……(汗。
穏やかな暗闇から瞼を上げれば、ここ三ヶ月で見慣れた景色が視界いっぱいに飛びこんできた。
(あれは……天蓋……?)
天蓋は手を伸ばせば届きそうな位置にあるように見えた。
このときなにを思ったか、届くはずがないのに愚かにも手を伸ばし、それを掴もうとした。だがやはり、腕が重く、体を動かした途端、背中に寒気が走ったので断念した。
――寒い。
だというのに、体中何処もかしこも熱を帯び、背中が肩こりのような痛みを訴えている。
自分が体調を崩したことはすぐに思い出せたけれど、急に心細くなって目頭が熱くなる。
(お父様、お母様……)
二十にもなって情けないことに、思い出すのはここから少し離れた地にいる両親、そして兄弟のことだった。
とりわけて多いというわけではないが、収入の割に男爵家は子沢山だった。使用人を雇う余裕がなかったので、誰かが病床に伏せると率先して皆で病人の世話をしたものだ。
体調を崩したとき、目を覚ましてすぐ視界に入ってきたのは、家族の顔だった。学生寮にいた頃も、目を覚ましてすぐ視界に入れるのは心配そうな友人の顔。
思えば、生まれてこの方体調を崩して目を覚ましたとき、人がいないということはなかった気がする。そのせいだろうか。とても心細い。
我慢していたものが全て溢れ出しそうになって、涙を隠すように固く目を瞑る。
「イリス? 起きたのか?」
そのとき、いつもは毒ばかり紡ぎ出す甘い声が呼びかけた。
イリスは声の方向を向き、その意外な姿に思わず目を眇めて、怪訝そうに問いかけた。
「閣下……え?」
「起きたかね」
ホッとしたように唇と切れ長の目を緩められて、さらに目を丸くする。青天の霹靂にも程がある。あの伯爵が仕事以外で安堵するなんて。
しばらくボーッとしていたイリスだが、大事なことを思い出してハッとなる。
「お、仕事は……!?」
「いまやってる」
伯爵の手に掲げられているのは、分厚い紙束。見覚えがある。
視察から帰ったあと、すぐに目を通す必要があるその書類は、視察の前日にイリスが用意しておいたものだ。伯爵の脇にある箪笥の上には、万年筆が置いてある。
ここで仕事をしていたのか……と思うのと同時に、一人でなかったことにイリスはホッとする。
だがホッと出来たのは束の間のことだった。
ウェンデルは一旦書類を置き、綺麗に畳まれた女用の夜着を寝台の上に広げた。
ボーッとしている間に大きな手が毛布にもぐりこみ、無遠慮に夜着の裾をたくし上げようとする。どう考えても不埒な手つきに、イリスは動揺した。
「な、なに……!?」
ビックリしすぎてか、それとも疲弊しきっているからか、まともな声がでない。
目を白黒させるイリスに大して、伯爵は調子を崩さず、冷静な声で言い放った。
「着せ替える。汗をかいただろう?」
「自分で……」
せめてもと控えめに言い出してみる。しかし当然ながら、伯爵には無意味だった。
「いいから、ジッとしていろ。心配しなくても見ない。仮に見たとしても、色気のない体を見てすぐさま欲情するほど私は女に困っていない。さっさと体の力を抜きたまえ」
「………」
恐らく伯爵は『貞操の心配はするな』といいたいのだろうが、何気に酷い一言はイリスの胸に突き刺さった。今まで自分の体つきを気にしたことはなかったが、そんなにはっきり言わなくてもいいのではと自分を弁護したくなる。
イリスは全然よくないのだが、伯爵を止めることも出来ず諦めて力を抜いた。もとより、体が重くて上手く動かせない。大した抵抗にも出来ないだろう。美貌の伯爵が自分よりも容姿で劣る女に欲情するとも思えない。
体の力を抜けば、一気にネグリジェをたくし上げ、手際よく袖を抜いて頭から脱がされる。それを寝台の下に放り、新しい方のネグリジェを頭から被せる。
「これが……こうで……こうか?」
蔵書を見る限り、商売とは別に広範囲の学問にも通じているはずの伯爵だが、女性用の寝着の細部までは詳しくないらしい。脱がせるのは得意だが、着付けるのははじめての試みといった感じだ。
……ていうか何でここに閣下が?
何故か側にいる伯爵に驚き、お礼を言うことも忘れてボケッとしているイリスを見て、夜着を調え終えた伯爵はやれやれと息を吐いた。
「ただの風邪だそうだ」
厄介な病気でないことにまずは安心する。風邪なら、二、三日も眠ればすぐによくなる。
安心するイリスに、伯爵は深緑の瞳を向けた。
「……どうやら私はよほど君を疲れさせていたらしい。働かせすぎだと医師に叱られたよ。鉱夫にさえ労働基準なるものがあるというのに、それを忘れてここ二ヶ月以上、朝から晩まで働かせた上、視察前に大量の仕事を押し付けた私は真性の馬鹿だった。反省しよう」
「………」
いいながら、落としたネグリジェを拾い上げ、くしゃくしゃに丸めて寝台の上に放った伯爵。イリスは思考が止まった。
反省? 何語だ?
(あの閣下が? ……あの閣下が!?)
イリスは心の中で額を覆った。
……どうも、おかしい。現実にはありえないことが起きまくっている。なにより伯爵が謝罪してくるなんて。
あまりにも状況がおかしいので、イリスはクラクラした頭で結論付ける。
ああ、きっとこれは夢なのだと。だって、そうとしか思えない。というより、あの仕事人間の伯爵が自分の傍で心配そうにしていたこと自体、現実とは思えない。現実だったら今頃、氷柱がふってくる。
これは夢だ。きっとそうだ。イリスはそう思い込むことにした。だからこの先なにが起こっても、夢は夢。夢なのだ。現実ではないのだ。きっとそうだ。絶対そうだ。意識もはっきりしていないし。熱で幻を見ているのだ。
そんなことを思っていると、額に冷たいものがあたる。それがウェンデルの掌だと気付いた瞬間、つねられる、と体に力を込めて身構えた。夢の中でも嫌がらせをしてくるなんて、つくづく暇な人だ。
「……まだ熱いな」
当然か、と苦笑したあと、イリスの予想は外れ、手は頬に下りる。そして、イリスの赤みがかった頬を何度も何度も、まるで大切なものを撫でるように愛情を込めて撫でた。
これも、夢。その割には、現実的過ぎる気もするが。
体温を吸って温くなった手を離し、イリスの手に触れる。
思ったより大きな手が、ギュッと力を込めて握った。
「……なんだ。酷いことを言ったから、怒っているのか? なにか言ってはどうだね」
不安そうに揺れる深すぎる緑の瞳。それが子供のように見え、夢だということも忘れて、思わず唇が緩んだ。
『私の手を煩わせるな』といわれ、悲しくて情けなくて泣きそうになったけれど、別に怒ってはいない。
伯爵にも責任はあるだろうが、体調管理をきちんとしていなかった自分自身にも責任がある。
「私を責める言葉の一つや二つ、言ってみてはどうだね? 少しは気も晴れよう」
「別に……怒ってなんかいませんよ?」
重い口を動かすと、伯爵は大人しく耳を傾ける。
「悪口をいえないのは、そう言う性分ですから」
上手く口が動かず、声も出ず小さな声で言う。聞こえる自分の声は、まるでうわ言を言っているようだ。
また馬鹿にされるかな、と覚悟していたが、伯爵は不思議そうに目を瞬かせていた。
「そういう性分か」
「そういう性分です」
精一杯、強く繰り返すと、「苦労性だな。そういうところは嫌いじゃないが」という言葉が返り、伯爵は苦笑した。
藻色の瞳に浮かんだ不安そうな光が和らぐ。顔には、少しの不安と、ホッとしたような表情と、恋人を愛しむような感情が混ぜになって浮かんでいた。少なくとも、イリスの疲れ目にはそう見えた。
(相変わらず綺麗な顔だなあ……)
普段はあんな人でもこんな顔をするのかと妙に感慨に耽っていると、ウェンデルは握っていたイリスの手を離し、かわりに顔を近づけた。
これも夢なのよね?
疑わずにはいられないほど、近い距離だった。間近で藻色の瞳と目が合い、キョトンとする。
「閣下……? あ……んん」
唇に柔らかいものが当たる。
なにが起こったんだろう……と考えている間に、ぬるりとしたものが唇を割って入っていった。
目を白黒させていると、ぬるりとしたものがイリスの熱い舌を撫でる。その瞬間、先程から口内をまさぐる物体が伯爵の舌であることに気付いた。
学生のとき、女子には性教育の授業があったので、ある程度の閨房の知識は学んでいる。確か、あの苦手な教科書に『舌を絡ませる息をも許さぬ特別な口付け』というものが記されていたように思う。あれは確か、愛しい人にするものだと思っていたが……。
……やっぱり夢だ。イリスは安心した。
だが、夢とはいえ、この状況はいいものではない。息苦しいし、舌が舌に当たるというのは、想像しただけで少し吐き気を催す。
そう思ってはいても、おかしなことに、頭の何処かでは悦んでいた。自分を少しでも愛しく思ってくれているのだろうかと希望を抱き、そしてもっと欲しいとねだっている。
無意識に思うその感情を認めた瞬間、恐ろしくなったが、先程感じた寂しさが徐々に埋まり、心が安定していくのを感じた。
夢なら、少しくらい、縋ってもいいのだろうか。
いいだろうと勝手に自分で結論付ける。
恐る恐る首に両腕を回して、自分を求めてくる唇に唇を軽く押し付ける。はしたないという自覚はあったが、すぐに理性よりも寂しさが勝って、空白を埋めて心を安定させてくれる人を求めた。
ウェンデルは少し驚いたように舌を強張らせたが、それも一瞬のことで、さっきよりも荒く口内を暴いた。
イリスの腕よりも筋肉質な両腕が頭の両側につき、本格的に覆いかぶさってくる。体の半分を寝台に沈ませるような形になり、寝台が二人分の体重に軋んだ。一層強く唇を押し付けて貪ってくるので苦しかったが、苦ではなかった。
時折息を吸うために間隔をあけてくれたとき、伯爵の手はイリスの髪の手触りを確かめるように撫でる。
口付けに優しい仕草を加えたその時間は、夢でも「自分は愛されているのだ」と柄にもなく自惚れてしまった。
だがイリスが本調子ではないためか、思ったよりも口付けはすぐに中断された。少し不思議に思ったイリスだが、これは夢だと思い出す。
目が覚めたら現実のウェンデルとの差にガッカリしてしまうから、この中途半端な中止は無意識の中で自分が引いた境界線なのかもしれない。
夢の中なのに空気を求めて頬を上気させながら、涙がこぼれた目でウェンデルを見上げる。
夢の中の伯爵はとても優しい。イリスと同じく空気を求めて息を切らせているウェンデルは、指先でそっとこぼれた涙を拭った。
鼻先が触れ合うぐらいの距離で、憂いを含んだ甘い声が囁いた。
「……移させてやるから、早くよくなりたまえ」
移させてやるというのは、もしかして風邪のことだろうか。
そんなこと、しなくてもいいのに。イリスの代わりはいくらでもいるが、彼の代わりは何処にもいないのだ。
相変わらずの上からな物言いだったが、声は優しい。なにか柔らかいもので撫でられたときのように、甘い声が心地良かった。
彼に愛を囁かれたらこんな気持ちになるんだろうなあと考え、目を閉じる。
体調不面のものとはまた違った疲労がどっと押し寄せて来た。
そろそろ、夢から起きたほうがいい。こんな夢を見てしまうと、現実に期待を抱いてしまう。現実の彼はこんなに優しくないのだ。
瞼を下ろすと、ウェンデルは少し不満そうにした。
「イリス? もう眠るのか?」
問われて、力なく首を縦に振る。
伯爵はまだ不満そうだったが、体調のことを考えて諦めたらしく、最後に溜息を交えていった。
「……早くよくなれよ、イリス。よくなったらこき使ってやるからな」
何気に怖い最後の言葉が現実的だ。
すべてが台無しになり、イリスは心の中でガクッと肩を落とした。
***************
目を覚ますと、朝だった。
体は気だるいものの、意識は随分とはっきりしている。昨日とは大違いだ。
天蓋……夢の中で見た風景と同じだ。
まさか、と思って首を横にやり……イリスはすぐさま顔を別方向に向けた。夢の中の伯爵の余韻にまだ浸っていたい。現実の彼を見たくなかった。やはり、すべては夢オチだった。
「……やっと起きたか」
不機嫌さを隠そうともしない声。
隣にいたのは長い足を組んで眉間にシワを寄せている、イライラした様子の伯爵だった。
イリスは思わず体に力を入れて固まってしまった。
伯爵は眉間にしわを寄せた不機嫌な顔のまま、長い髪をぐしゃりとかきあげ、ぶっきらぼうに言い放った。
「起きたのなら、私はもう行く。婚儀も近い。充分に体を休ませて完治させるのだね。こき使ってやるから覚悟したまえ」
夢の中と同じことを言っている。
でも夢の中のほうが格段に優しくて、あまりの落差にイリスは失望を隠し切れなかった。期待しないと夢の中でも決めていたはずなのに、期待してしまった自分に溜息が出る。
背を向け、部屋から出て行ったウェンデルと入れ違いに、白衣姿の男性が入ってきた。年の頃は三十代後半だろうか。大きな鞄を持っているところを見て、イリスは彼が医者なのだと判断した。
彼は目を丸くしていたが、イリスが元気そうだということを確認してニッコリと笑った。
「おはようございます。入っても?」
「どうぞ」
微笑めば、医師も微笑み返して部屋に入ってくる。
医師に少し遅れて、使用人が入室した。使用人の持つトレイの上には、木製の深い椀が載っている。お茶に似た色の液体に青い実が浮かんでいて、漂ってくる匂いから察するに、これは薬湯のようだ。
「体温を下げさせる薬です」
「下げ、させる……?」
風邪を引いたときは汗をかいた方がいいといわれて、毛布でぐるぐる巻きにされていた覚えがある。だが、この医師の見解は違うらしい。
医師は人のよさそうな笑みをつくる。
「風邪のときは汗をかいたほうがいいと勘違いする医者は沢山いますが、本当は下げさせた方がいいんですよ。学会でも証明されています。熱冷ましの薬だと思ってください。さあ、どうぞ」
苦いのは苦手だが、これも体を治すためだ。仕方がない。椀に口をつけ、一息に飲み干す。喉に青い実が引っかかりそうになったが、なんとか押し込めた。
三口ほどで飲み干すと、すかさず医師が手を伸ばす。
「預かりましょう。……さっきもいいましたが、ただの風邪です。恐らく疲労から来たものなので、閣下をきつく叱っておきました。今度から少しは仕事が楽になるでしょう」
医師は請け負うが、現実味が沸かなかった。夢の中でも現実でも、「こき使ってやる」と言われてばかりだ。
「お手数をおかけします」
「いいえ。……それにしても、驚いたなあ」
は? と眉を上げてききかえせば、「いえね」と医者は嬉しそうな顔で言う。
「珍しく閣下がすごく心配そうなお顔をしていらしてねえ。あんな顔、閣下のお父上がお倒れになったとき以来ですよ。本当に、驚きました。小さな頃から閣下を知っておりましたが、国宝級に珍しい光景でしたねぇ」
「……はあ」
あの伯爵にも子供の頃があったのかとイリスは思った。突っ込みどころが違うような気もするが、彼の本性を知っている人なら誰もが思わずにはいられない当然の疑問だろう。
しかし、医師のいうとおり、伯爵も人の子であるから、当然、少年期というものもあったのだろう。
医師は他人のことなのに自分のことのように惚気てウキウキしながら言った。
「ずっと奥様……失礼。まだでしたね。イリス様についていらして、側で仕事をなさっておりましたよ。本当に、とても心配そうにしてらして」
「仕事……?」
聞き捨てならないことを聞いた気がする。イリスは眉間にしわを寄せた。
ぼんやりとしているが……夢の中でも、ウェンデルは仕事をしていた気がする。それからネグリジェを着せ替え、やたら熱っぽく口付けてきて、不満そうに「こき使ってやる」と言っていた。
ちらりと胸元に目をやる。
ネグリジェは偶然にも、同じ意匠のものだし、確証はない。しかし、これだけ熱が出ている割にはそれほどベタベタしていない気がする。
まさか、と思って、イリスは医師に聞いた。
「失礼ですが、ネグリジェは誰が着せ替えて?」
「ああ、それですか。女の使用人だと聞いています」
なんだか引っかかる言い方だ。
夢の中のウェンデルは現実だったのだろうか。それとも、本当に夢……?
意味がわからずウンウン唸るイリスを苦しんでいるのだと解したのか、「そろそろお休みになられては」と医師が促し、イリスもそれに従って寝台に再度身を横たえた。
やっぱり夢かという気持ちと、夢でよかったという相反する思いがある。色々恥ずかしいことをしたような気がするからだ。
あのときは、本当にどうかしていたとしか思えない。いくら夢の中だからといって、よりにもよって伯爵に救いを求めた自分に泣けてくる。自分の夢の中にもぐりこめるのなら、迷わず飛び込んであのときの自分に平手を食らわせてやりたい。
閨房の教本には、最後に貞淑な妻の心得として、「自分から求めないこと」、「夫君にいわれるまではしないこと」が記されてある。イリスも一応貴族の子女であるから、相手に口づけを求めるような、誘うようなことはするべきではない。
夢の内容が再び、頭の中によみがえり、顔が熱くなってくる。柄にもなくときめいている自分に、死にたくなった。
自分の精神状態が本気で危ぶまれてきたため、イリスは毛布を頭まで被り、「寝て起きたらなかったことにしよう」と決意したのだった。
***************
二日間、しっかりと休み、例によって精神も大分安定してきたところで、イリスは仕事に復帰した。
気になっていた鼻水だったが、医師に処方された薬を飲んで夜更かしをしないように心がければ二週間でほとんど完治し、万全の状態で婚儀に望むことが出来た。
邸の自室で出来立ての花嫁衣装を着てから化粧を施され、髪を纏め上げると、あとはベールを纏うのみになる。
その状態のイリスを見て、着替えを手伝ってくれた使用人たちは羨望の眼差しを向けた。
「奥様!! とっってもよくお似合いですよ!!」
署名するまでは奥様じゃないんだけど、と癖で言おうとしたが、夕方には奥様になるのだからと見逃すことにした。
そんなことを思いながら、悩ましげな黄色の瞳を使用人に向ける。
「そうですか? こういうのは、あなたたちのほうが似合うと思うけど……」
控え目に見ても着られているようにしか見えない。
「綺麗ですよー、イリス様ー。この場の誰よりも輝いていらっしゃいますー」
着付けの指示と出来栄えを見ることを兼ね、部屋の長椅子に座っているケイティが満面の笑みで声をかける。トバイアスは男性なので、入ることを許されなかったのだ。
……そりゃ、輝いているでしょうよ。ドレスが綺麗なんだもの。
トバイアスとケイティは約束どおり、いい仕事をしたようだ。意匠もさることながら、この間届けられた外出着と同じく、ケミストラの工場でつくられた布を最大限に活かしている。
ベールからドレスから長手袋まで、すべてに惜しげもなく使われた、浮き彫りの透かし布。今年になってイリスが工場につくるよう指示したもので、レースなどもケミストラに伝わる伝統的なレース編みのものを使っている。手袋は意匠の相談をしたときに決まったように、銀と真珠で出来た贅沢な釦がついていた。
内側に張られた外出着と同じ空色の生地は透かし布で覆われ、遠くから見ると透けて青みがかった白に見える。
実家の工場の布の値段は、イリスもよく知っている。結構お高めだったと記憶しているのだが……。
ドレスだけでも充分贅沢だというのに、更に大粒の真珠や宝石で飾り立てるというのだから、やっぱり金持ちはお金の使いどころが違うなあと実感した。
この日のために購入された宝石の中でも使用人たちの一番のお気に入りはトパーズをあしらったもので、イリスの瞳の色と同じだからとことあるごとに蜂蜜色の宝石で飾り立てた。
贅沢にも飾り立てられた自分が映る鏡を目にして、ますます悲しくなってくる。大きな目によって実年齢よりも幼く見える顔立ちと、紅をさした赤い唇が不釣合いに思える。
やっぱりどれだけ飾り立てても、自分の容姿に自信が持てない。伯爵の隣にいると尚更だ。
憂鬱な気分になっていると、遠慮がちに扉が叩かれた。
「失礼します。馬車のご用意が出来ました。閣下がお待ちです。お支度は……ああ、奥様。とてもお綺麗です」
飾り付けられたイリスを見て、エドウィンは破顔した。
使用人たちのみならず、エドウィンにまで奥様と呼ばれてしまったことを嘆く。当然ながら、無言ではエドウィンには通じない。彼はやっと『奥様』と呼ぶことが出来て嬉しそうだったので、最早なにもいうまいと口を噤んだ。
重い腰を上げると、使用人がいそいそとベールを頭に被せてくれて、本当の意味で準備が整う。
ドレスの裾を使用人のオーレリーに持ってもらって玄関の方に行くと、壁に背を預けて退屈そうに待つ伯爵がいた。
品のよい礼服を着て、つまらなそうに床を見つめている立ち姿さえ美しかった。いつも下ろしたままの髪を今日は後ろで一つに纏めていた。黒い服もよく似合うが、こういう恰好もよく似合っている。なんというか、凛々しい。白い手袋をはめていると、本物の紳士のようだ。……いや、本物の紳士なのだが。
ベールの霧がかかったような視界の奥から見上げると、独り言のように溜息を吐いた。
「……もう一生したくないな」
彼はようやく、自分の計画が浅はかであったことに気付いたようだ。
ウェンデルは壁にもたれかかるのをやめて真っ直ぐに立つと、ジッとイリスの姿を見下ろした。
途中で視線に耐えられなくなり、逸らそうとすれば、白い手袋をはめた手で顎をつかまれ、強引に上を向かされる。
ドレス、手袋、胸元、ドレスを飾る宝石、耳を飾る真珠の耳飾りまでじっくりと観察される。
最後に嫌でも暗い色の瞳と目が合ってしまう。顎を掴まれているため抗うことも出来ず、目を合わせ続けていると、彼は唇を吊り上げて、これ以上にないほど満足そうに笑った。
「まあ、悪くはない」
それは褒め言葉なのでしょうか。
心なしか満足そうだし、貶し言葉ではないのだろうと受け止める。最近、伯爵の表情と心を読み取れるようになってきたことに、イリスはいま気付いた。
彼はとてもわかりにくい。笑ったかと思えば皮肉めいたものだったり、苦笑していると思えば目は面白がっている。わかりやすいのは、不機嫌なときだとか、面倒くさそうだとか、お世辞にもいいとはいえない感情ばかり。
ベールの奥でそっと溜息を吐いていると、伯爵がなにかを押し付けてきた。
ちょっと迷惑そうに目をおろすと、そこには色とりどりの薔薇の花束があった。白、橙、ピンクといった女性に喜ばれそうな色で構成されている。
呆気に取られて目をパチクリさせる花嫁に呆れたような顔をしたあと、ウェンデルは言う。
「花嫁に花束は必須だろう?」
ああ、そういうことか。イリスは納得した。同時に、この日のために伯爵が用意してくれた贈り物なのかと、一瞬でも疑問に思った自分に恥ずかしく、そして情けなく、イリスは赤面した。
馬車は伯爵邸から真っ直ぐに聖堂へと向かった。
聖堂でイザベラとしばらくぶりの再会を果たし、そこではじめて、彼女の夫の侯爵と息子を紹介された。
彼女の旦那様は伯爵とは違って少し――いや、かなり優しそうな人で、あたたかい灰色の瞳が魅力的な人物だった。背も高く、物腰も柔らかで、これは若い頃さぞやもてただろうと思わせる紳士だ。
息子のほうは母親よりも父親によく似ていて、髪の色も瞳の色も同じだった。ただ、父親の落ち着いた雰囲気は欠片も見当たらず、歳相応で微笑ましかった。
そしてこの日初対面の伯爵の弟君は、思わず「本当に兄弟か」と疑ってしまうほど寛容で屈託なく笑う人だった。若干、人嫌いの気がある伯爵とは違って人懐っこく、イリスにもったいないほど友好的に接してくれた。
彼の奥方は穏やかでノホホンとしていて、巻いた金茶色の髪に薄い紫の服を着た貴婦人だった。常にニコニコしていて、イリスのことを好意的に見てくれているらしいことが伝わってきた。
娘のほうは年を越せば四歳になるらしく、母親に似た顔立ちの無邪気な子だった。この小さなご令嬢が、本日、イリスのドレスの裾を持ち、一緒に聖堂を歩いてくれるのだという。
イザベラの夫の侯爵と挨拶の言葉を交わしているときも、弟君が挨拶してくれているときも、伯爵は静かだった。
何もいわなかったが、苦々しい表情で交互に挨拶する二人を見ていたのが、イリスは不思議だった。自分の親類なのに、邪険に扱っている。彼はいつもこうなのだろうか?
幼い弟君の娘を置いて一同が聖堂の中に戻っていくと、イリスはそっと見えないように伯爵の袖を引っ張った。
「閣下。笑ってください」
そっと囁くと、彼は「は?」と額の中央にシワを寄せる。
何故そんなに驚かれなくていけないのか。このめでたい日に親類縁者にこの仏頂面ではさすがに失礼にあたると思い、笑顔を所望しただけである。
本当は緊張で笑うどころの話ではなかったが、お手本代わりに微笑んでみる。唇を吊り上げるだけで、少しは笑っているように見えるはずだ。
伯爵はしばらくイリスの顔をまじまじと見ていたが、そのうち唇に笑みを刻み、すぐに前を向いた。
「そろそろ行くか。……イリス、手を」
伯爵に促され、差し出された手に手を重ねる。
なんの躊躇いもなく手を重ねたことに少し驚いたのか、目を丸くしていたが、すぐに元の表情に戻り、聖堂の扉の前で一旦立ち止まった。
「イリス」
「は、はい?」
突然止まられて、ドレスの裾を踏みそうになる。長いドレスの裾を持ってくれていた伯爵の姪御も躓きそうになったようで、従者に助けられていた。
心配して後ろを見ようとすると、顎を掴んで上を向かされる。深い緑の瞳が、イリスを見下ろしていた。
「私の名前を言ってみろ。忘れたとはいわないな?」
「え……ウェンデル・アダーシャン伯爵閣下でしょう?」
なんでそんなことを聞くんだ、という意味をこめて首をかしげると、ウェンデルは笑みを深くさせた。
なんでそんなに上機嫌なのでしょう?
「これから先は夫婦になるのだから、私のことは閣下ではなく名前で呼べ。……ほら、言ってみたまえ」
なんの嫌がらせでしょうか、これは。
いきなり名前を呼べといわれても、心の準備が出来ていない。
しばらくの間、戸惑いを見せていたイリスだったが、ややあって小さな唇を動かす。
「ウェンデル様……?」
「そうだ。それでいい」
満足そうに笑われた。さっきまでは無表情で、イリスが笑っても少ししか笑い返してくれなかったくせに……相変わらず、彼の考えていることはわからない。
伯爵が目配せすると、待機していた従者が、扉を開く。
聖堂のステンドグラスに描かれている天使は、礼拝のときと変わらず、穏やかな笑みを称えていた。ああ、神様。本当に、わたしに幸せは訪れるのでしょうか? もし訪れるのなら、それはいつのことなのでしょうか?
自問自答をしながら、聖堂では儀式のときにだけ許された赤い絨毯を、賛美歌にあわせて一歩一歩踏む。すると、溢れんばかりの拍手が聖堂に響き渡った。
一通り形式どおりの言葉をあげると、神官は使い古されたノートを差し出した。
用意されたペンを取り、手袋にインクが飛ばないよう、慎重に自分の名を記す。
ペンを置いて、出来映えをみる。伯爵の流れるような文字の下に自分の丸みがかった字が並んでいて、これが現実なのだと思い知らさせる。
『ウェンデル・アダーシャン
イリス・ケミストラ』
ああ、神様。なんということでしょう。
わたしは本当に、伯爵と結婚してしまったようです。
Ⅱ終了です。
やーっと、Ⅱが終わりましたー……ダハー……疲れました。
次は年明け編です。ベラ姉夫妻、弟夫妻、甥っ子姪っ子登場予定です。
いつの間にかお気に入りが1500を突破し、評価もすごいことになっててビビりました。本当にありがとうございます。(*´▽`*)
皆様の応援にものすごーく励まされました! 次は第三章でお会いしましょう!(^^)