表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アダーシャン伯爵夫妻の日常  作者: 々 千早
Ⅰ 伯爵夫妻の日常
1/30

伯爵夫妻の割り切った関係

本来の路線に息抜き目的で戻ってみました。

いつまで続くかは疑問ですが、パソコンに書き溜めていったものを入れていきます。

この伯爵夫妻はわりと気に入っているので、長く続けていきたいです。

 北方でも比較的暖かい地――地名をアダーシャンというそこは、数百年前から伯爵家が治める歴史ある地である。


 アダーシャン伯爵と聞いて想像するのは、伯爵家の始祖である初代当主でも、伯爵家を軌道に乗せたその息子でも、山を開拓して田畑をつくることに熱心だった三代目でもなく、いま現在の当主である。


 噂によると、北方美人という美人の代名詞に違わぬ美丈夫であるという。


 彼は再来年の春に、三十歳になる。齢十九で父の死を目の当たりにし、二十歳で当主業を継いだ彼は、学業と執務を交互に継続させ、二十一のとき国でも名の知れた大学を出て、正式に当主として伯爵家に君臨した。


 貧民への炊き出しに、事業の拡大、そして職業斡旋所の設置。近々、新しい事業にも手を着けるという。彼のやることなすことほとんどが素晴らしいものばかりだ。


 襲爵から二年後には先代当主よりも有能だと言われた彼は、民に絶大な人気を誇っている。


 年に四度、視察に訪れ、あらゆる階級との会話に耳を傾ける彼は、市民たちの、いわば敬慕の対象だった。


 私生活の面ではよくない噂も聞くが、公私をしっかりと分けるよい領主であるし、美貌でも知られているため、「一度は抱かれてみたい」と市井の女たちはこぞって彼に思いをはせている。


 そんな伯爵の住まいは、領内の一番賑わっているところから少しそれた比較的静かな土地にある。


 数代前の当主の愛人宅として使われていた場所であるため母屋は平屋だったが、かつての当主の愛人が芸術に関心を寄せる人であったため、邸宅は本邸よりも垢抜けて美しく飾られていた。それでいて邪魔にならず、実用できるものばかりが揃っている。伯爵の権威を見せ付けることも出来るということで、現当主は先代に引き続きここに住むことに決めたらしい。


 平屋の母屋を曲がりくねった回廊をつづった奥に、伯爵の書斎はある。



 ***************



 書斎の窓辺の長椅子に腰掛け、気持ちよさそうに眠る淑女がいた。伯爵の書斎は日当たりが大変よいので、眠るにはちょうどよい温かさなのだ。


 毛先だけうねった長髪は背中の中心まで伸び、国内においてありがちな麦色をしている。日が弱い北方においてはよく見られる白い肌はまだ瑞々しく、肌のはりと同じく彼女は若かった。淡色の口紅を塗った桃色の唇が可愛らしい。


 恐らく、二十を一つ二つ越したくらいだろう。長くはないが睫毛はくるんと上を向いている。特別美人とはいえないが、空気を和ますような愛らしさがある。それは、薄い化粧を落としても変わらないだろう。元々白い肌に白粉をはたく必要は無く、彼女が化粧を施しているのは唇だけだ。その唇も、似た色の紅で彩られている。ほとんど素顔なのだ。


 白昼堂々と居眠りをしている彼女の膝には分厚い本が乗っており、風に頁を捲らせていた。


 彼女はどうやら、伯爵を待っている間に休憩をとることにしたらしく、趣味の読書の間に眠ってしまったらしい。


 昨晩の徹夜で、疲労が蓄積されていたこともある。彼女は自分で思っているよりも深い眠りの世界へと迷い込んでいた。――仕事部屋に帰ってきた、伯爵の足音にも気付かないほどに。


 今月、新しく仕入れた品の売り上げのことで商連に話をしに行った伯爵は、扉を開けて中を眺め、沈黙した。片手には高級な料紙を携えている。


 一歩足を踏み込んでおいて今更だが、扉に取り付けられている金具を使って、わざと扉を叩いてみる。コンコンといつも通りの音がしたが、それだけである。彼女は一向に目を覚まさない。


 伯爵はちょっと呆れながら、長椅子に近づいて目の前に立つ。しかしそれでも彼女は目を覚まさない。扉を叩く音で幾分か眠りが浅くなったかと期待していたが、眠りは一向に深いままで、いまだ伯爵に気付かない。


 立ったまま腕を組み、思わず不機嫌さを隠しもせず呟いた。


「……私の奥さんはいつまで惰眠を貪っているつもりかね」


「起きたまえ」と丸めた書類で頬を軽く小突かれ、伯爵夫人はやっと、睫毛を震わせて目を覚ました。


「あっ……お帰りなさい。早かったんですね?」


 まだぼんやりとした目をこする妻を見下ろし、伯爵は口を開いた。


「悪かったね。早めに切り上げてきたんだよ」


「そうなんですか? ……もしかして、書類に不備でもありましたか?」


 彼女は心中でタラリと冷や汗を流す。


 この仕事を命ぜられて、引き継ぎの期間も含めるなら今月で一年になる。私生活ならまだしも、仕事で失敗したら、伯爵になにをされるかわからない。加えて今日つかう書類は、昨日の徹夜の頭で仕上げたものばかりだ。


 しかし、伯爵は気に食わないというような表情を浮べて肩を竦めただけだった。


「ないとも。優秀な君に不備はまっっったく、まったく見当たらない。いくら探しても綻び一つない。優秀だよ、君は。本当に」


「………」


 何故だろう。褒められている気がしない。


 というか、仕事の時間にまで人の不備を探していたとは……暇人にも程があるだろう。そんな暇があるなら仕事すればいいのに。


 伯爵夫人は心の中で溜息をついた。実際に付いたら、彼にまた嫌味をいわれるに決まっているから、あくまで心の中でだけだ。


 伯爵夫人は本を閉じ、名残惜しげに日当たりのいい長椅子から立ち上がる。夫の脱ぎ散らかした外套とベストと上着を順に拾い上げ、慣れた手つきでクローゼットに掛けてゆく。学生寮での生活で身につけた技が、まさかこんなところでまで役立つとは思わなかった。


 伯爵夫人の実家は、一応は貴族である。実家はこの国のアダーシャンを含める北の地方バリスクのケミストラという地にある。だが……夫人は小領主の娘だが、いまでは爵位と工場とわずかな領地しか持っているものがない。


 バリスク地方を収める三公爵の一つシェーレン公爵家にも匹敵する財産を持つ指折りの領主アダーシャン伯爵と、小領主で爵位は男爵の夫人の実家は、身分も財産的な面でも釣り合いがとれていない。


 夫人の実家は家族が食うに困らない程度の収入はあったが、貴族にしては収入が乏しく、勤勉な兄妹たちが長年の夢であった大学に入るのにも、奨学金の申請の必要があるほどだった。


 夫人とその兄が通っていた大学は国内でも名が知れている大学であったため、優秀な成績さえ取れれば特待生として、奨学金がもらえる。しかもそのお金は、返さなくてもよいのだ。折角の才能が宝の持ち腐れにならないよう、国が取り計らっているのである。


 どちらにせよ、進学のお金に困っていた兄妹からすればこの上ない進学口だった。


 兄はすぐさま大学に入り、その一年後、夫人が入学した。双子の妹と弟は夫人よりも四つ年下なので、大学に入るには歳が足りなかった。


 兄妹の中でも抜けて優秀だった夫人は、大学を一年飛び級で卒業することを許され、二十歳のとき兄と共に卒業した。


 大学を卒業した夫人が国内の高位貴族でもある伯爵と出会ったのは、卒業から数ヵ月後――今から数えて約一年半前である。


 夫人は実家でのんびりと本を読みつつ工場と実家の立て直しに尽力し、バリバリ働いて結婚からは無縁の生活を送っていた。


 そんな、結婚から無縁の彼女がどうして結婚したか。……実をいうと、彼女にも理由はわからない。


 北方の指折りの領主であるアダーシャン伯爵が父に持ち込んだ大きな仕事が縁で二人は出会い、急遽、結婚が決まった。望まない結婚だったが、お互いに利用しあえることを条件に納得したのだった。


 政略結婚が珍しくない時代なので夫人も文句はいわず、求婚から三ヶ月後には伯爵の元へ嫁いだ。


 学業優先で仕方がなかったとはいえ、当時二十だった夫人は立派な嫁き遅れだ。家格もつりあっていない。しかし、伯爵があと数年もすれば三十になるということと、今まで数多の結婚話を蹴ってきた伯爵が受け入れた唯一の結婚話であったため、この結婚は思ったよりも円滑にことが運んだ。


 はじめ会ったときは、なんて美しい人だろうと思った。藻色の涼しげな切れ長の目に、光にあたると暗緑色にも見える波打つ黒の巻き毛はいまと寸分たがわぬ長さだった。


 北方では珍しくないが、彼の肌の白さは群を抜いて見え、まるで雪のようだった。触れば冷たいのではないかと一瞬疑ってしまったほどだ。


 『彫刻のように美しい人』。それが第一印象だった。


 そして第二に抱いた印象は、『この人が本当に彫刻だったらよかったのに』である。


「不機嫌ですね。どうかされましたか?」


 聞きたくないが、聞かないと『夫の機嫌を宥めようともしない出来の悪い妻』と遠回しに言われるだけなので、言われないうちに聞いておいたほうが心の傷も浅くて済む。


「ふむ。妻としては不出来な女でも、機嫌の悪さだけは察知できたようだね。感心なことだ。不機嫌の理由が知りたいかね?」


「……ええ、もちろん。知りたいです」


 思わず「知りたくない」と言いそうになった正直者な自分を押し込める。

 伯爵は長く伸ばした黒髪の巻き毛を鬱陶しげに肩の後ろに払いながら、いった。


「夫が帰ってきたというのに出迎えようとしない。もう一度聞くが、君は本当に私の妻か?」


「………」


 ……小姑か。


 夫人は溜息をつきたくなった。幸い、夫人と伯爵の生母との仲は上手くいっているのだが、彼が姑の役目を果たしている気がして疲れる。


 彼に抱いた褒められたものではない第二印象は、この性格のせいだ。


 彼は整った顔立ちに比例して甘い声をしているのだが、夫人に囁かれる言葉は愛の言葉ではなく、毒か揶揄ばかり。


 伯爵はどうやら美貌と引き換えに、人並みの性格を母の胎内に置いてきてしまったらしい。


「……それはそれは申し訳ありませんでした。惰眠を貪っていたわたくしをどうかお許しくださいな、閣下」


 棒読みかつ無表情で言い切る夫人。にもかかわらず、伯爵は満足そうに頷いて目を逸らした。

 夫人はそんな夫に呆れつつ、彼に背を向けて隣室へ行こうとした。


「イリス」


 名を呼ばれ、夫人は首を傾げる。


 伯爵は整った唇を吊り上げた。優雅な微笑みとは裏腹に、端正な唇から出るのは、やはり毒のある言葉。


「君は呼ばれたら返事をしろというごく当たり前のことを母上に教えてもらわなかったのかね?」


「……申し訳ありません。はい。なんでしょう、閣下」


 大体、その先の言葉は予想できていたので行動に移そうとしていたのだが、念のため聞いておく。


 伯爵は首元の(ボタン)を緩めながら不遜に言い放った。


「喉が渇いたんだが?」


「はい。今日は少し日照りが強いようですから、冷たいものでよろしいですよね? 朝から冷まして置いてありますが。今日は朝、ハーブティーを召し上がっていたので、アッサムにしました。ご不満ならダージリンも用意しておりますが? もし氷やミルクをご所望なら、いますぐ使用人に持ってこさせます」


 ニッコリと笑って注文をとる夫人――もとい、イリス。


 イリスだってこの十ヶ月、何もしてこなかったわけではない。これでも、はじめ受けた嫌味の七割は避けられるようになった。


 外見とのあまりの落差にはじめは愕然としたイリスだったが、すぐに彼の嫌味対策を思いついた。彼の行動をある程度予測することによって、嫌味を避ければよいのだ。


 何事も覚えが早いイリスは、公私関係なく彼の要望に答え続ける優秀な妻だった。彼には定まった補佐――つまり秘書はいないと婚前から聞いていたが、彼のこの性格のせいではなかろうかと思わずにはいられなかった。


 そのとき、何故彼がイリスを娶ろうと思ったのか理解できた。高位貴族アダーシャン伯爵が何を好き好んで、何の特にもならないような小領主の娘を娶った理由。


 自分の側に置く優秀な人材が欲しかったのである。


 聞いてみると、はじめはイリスの兄を秘書にと思っていたらしいが、そのとき兄は王都の研究所に就職が決まったばかりでイリスしか残っていなかったとのこと。大学を優秀な成績で卒業していたこともあり、イリスは不運にも彼に選ばれてしまった。


 偶然、自分の性別が女で、そして三十間近にもなって、私生活の面では遊び呆けてばかりで結婚しようともしない伯爵が嫁選びに辟易していたこともあり、「じゃあ嫁に取っちゃおう」さながらの軽いノリで娶られてしまったのが運のつき。


 彼の本性を知った瞬間、イリスの人生は終わったと思った。いくら年上の人で夫婦になったとしても、女性に対してこれはないだろうと。元から期待などしていなかったが、それでも僅かに心の隅にいたイリスの中の旦那様の肖像はガラガラと崩れ去った。


 なにより、妻であるのに給金を払ってもらっているため、文句が言えないのが悲しい。きっと伯爵は自分の私生活について黙らせる目的もあってイリスに給金を支払っているのだろう。


 はじめはありがたいと思った自分が馬鹿みたいだ。


 何も言わないので、イリスはあらかじめ用意しておいたグラスにアッサムの紅茶を注いで伯爵の仕事机まで持っていった。


「どうぞ」


「ああ」


 お礼とか、言えないのかしら。


 言えないんだろうなと早々に切り上げ、イリスはグラスから指を外した。そしてそのままの手で仕事机の上に放られた丸めた料紙を掴み、リボンを抜く。


 書類の管理も、秘書であるイリスの役目である。


「契約書ですか……ふむ。いつも通り書庫にアルファベット順において並べておきますね」


「イリス、次の仕事は?」


「ありませんよ。今日はこれでおしまいです」


「そう。では、イリス。娼館に行くから、予約を」


「……はあ。また、ですか?」


 妻の目の前でよくぞ『娼館』という言葉を出せたなと嫉妬する――のではなく、呆れる。


 伯爵に呆れさせられてばかりだが、この十ヶ月である程度の耐性はつけていたため、すぐに立ち直ることが出来た。


「わかりました。どの娼婦か、ご希望はおありですか? あったら名前をしたためます。道具の用意とか、媚薬とか、香油とか……閣下の愛用の品をお望みなら、こちらで用意してお届けしますが?」


 そんなものが本当にあるのかは知らないが、ちょっとした嫌がらせのつもりで淡々と返す。


 あくまでも真顔で〝仕事〟として義務的に片付け、なおかつ若い女性なら口にすることさえ憚る言葉をスラスラと言ってのけた妻に、今度は伯爵が呆れる番だった。


 グラスから口を離し、仕事の顔をしているイリスを、頬杖をついて見上げる。


「よくぞ真顔でいえたものだね、奥さん。夫の不貞を間近で見てなんとも思わないのかね」


 愚痴っぽく言う伯爵に、面倒だなとイリスは微かに眉根を寄せた。


「引き止めますか? あー、伯爵よ。いかないでください。その美しい巻き毛に指を通し、雪白の肌に指を滑らせてみたい。ですので、どうか今夜はわたしの部屋に。さすれば温かな寝台で、私の嫉妬で(たぎ)った心はほだされましょう。今夜あなたがいらっしゃらなかったら、私は珠のような涙で枕を濡らすでしょう。そうならないよう、どうか、伯爵。今夜はわたくしをあなたの腕の中でお慰めください」


「棒読みにも程があるだろう」


 恋の詩を引用して口にするが、言葉にまったく心のこもっていない妻にまたも呆れた伯爵。逆に、自分の気持ちが少しでもわかってくれたかな、とイリスの気分は少しだけ高揚する。


 これだけ美しい夫のそばにいても、イリスは奇特な女性で、若い女性にありがちな彼の腕に抱かれたいという願望を抱けなかった。初夜を迎えるよりも先に彼の本性を知ってしまったので、急速に萎えたのだ。十分すぎるほど知識はあるものの、元々性に関心もなかった。夫もイリスに関心がない。


 つまり、夫婦の営み、いまだなし。


 お互いに関心があるのは、色気のないことに仕事のことだけ。


 不仲の噂を立てられては厄介なため、公の場では仲良く振舞い、その甲斐あって伯爵夫妻の仲は円満だと思われがちだが、本当の伯爵夫妻の関係は実にこざっぱりとしたものであった。


「今日はいつになく反抗的なのだね、奥さん」


 長い足を組み、巻き毛を耳にかけながらいう夫の言葉に、イリスは書類の整理と、帳簿に書き記す手を止めて首をかしげた。


「そんなことありませんよ? 閣下の気のせいです」


「置いていったから、怒っているのかね」


「そんな風に見えますか?」


「見えないね」


「ですよね。まったく思っていませんから」


 本心をあっさり口にしたイリスは、書類整理を続ける。彼だって毎日毎日妻に嫌味を仕掛けるのだから、これぐらいは許されるだろう。その予想はあたり、彼はなにもいってこない。


 それが終わると次は決裁済みの書類を分けて纏める。これが終わっても、イリスの仕事はまだまだ山積みだ。


 このあと、夫との会談を申し出る手紙、〝アダーシャン伯爵夫妻〟への夜会、お茶会への招待状。それらすべてに目を通し、明日、夫の意見を聞く算段を付けるのだ。娼館への予約の文も書かなくてはいけない。


 てきぱきと仕事を続ける年下の妻の後ろ姿を眺めながら、伯爵はいった。


「君のそう言うざっぱりとしたところが付き合いやすくていいね。後腐れがなくていい」


「ありがとうございます。……あの、閣下?」


「なんだね」


 興味津々な伯爵の視線を受け、イリスは目を伏せフーッと息を吐いた。


「……邸に住む愛人たちから、最近夜の訪れが少ない。もっと平等に扱ってくれと苦情が来ております。それでこれは私の提案ですが、今夜は娼館に行くのをやめて、愛人たちとお過ごしになっては?」


「どうして。あれらは私の移り気な気質をよくわかっていてここに住んでいるのだろう? 文句があるなら出て行くがいいと伝えたまえ」


「わかりました。では彼女らにも文を」


「君は本当に私のことに関心がないのだね。不機嫌の理由はそのことか。彼女らになにかいわれたのかね?」


 あくまでも義務的に淡々と片付けるイリスに、伯爵は問う。

 イリスは言うか言うまいかと逡巡していたが、伯爵の視線に負けてコクリと頷いた。


「閣下が他の愛人、もしくは私に心変わりなされたのではないかと聞かれました」


「そんなこと、あるわけなかろう」


 真顔で言われた。しかし、イリスは傷つかない。自分の容姿がいかに平凡で、夫の容姿がいかに優れているかよく知っているからだ。


「ですからそういいました。水までかけられて、大変だったのですよ」


「ふむ。さっきから気になっていたが、額の傷はそれが原因か?」


 いうなり、白い指先が隠すように分けられた前髪をかきわけ、確かめるようにつ…と短い傷をなぞる。――しかし、優しいのはそこまでで、伯爵は無遠慮にグリグリと指先を押し付けてきた。


 鈍い痛みに眉をしかめるイリス。それを見上げ、面白そうに笑う伯爵。


 見ようによっては酷く親密に思えるのに、遠目にも二人の仲は何処か割り切っているように見えた。


 この性格極悪野郎。それに匹敵することを思いながら、イリスは恨めしげな目で椅子に座る伯爵を見下ろした。しかし、伯爵は楽しそうな笑顔を絶やさない。


「災難だったね、イリス。慰謝料代わりに今月の給金は多目に払おう」


「助かります。弟と妹の大学進学も間近なので」


「弟君と妹君も進学するのか。今回も奨学金かね。君の実家は本当に優秀な人材ばかりが揃っているのだね」


「お褒め頂き光栄ですわ」


 遠回しに『貧乏』といわれているとしても、家族を褒められたことに変わりはない。嫌味とわかっていて、イリスは目元を和ませて微笑んだ。


 対する伯爵は、いつまでも〝閣下〟とまるで他所の誰かに対するように呼ぶ夫人が気に食わない。伯爵はぶっきらぼうに、藻色の瞳を向けた。


「イリス。私の名は〝閣下〟ではないと何度言えばわかるのかね? 賢い子だと思っていたが、どうやらそれは学業のほうにしか発揮されないらしい。自分から私の名を呼ぼうという気にはならないのかね? 外面だけでも夫婦仲をよくするために一日一度は私の名を呼ぶようにと命じたはずだが?」


「そうでしたね。申し訳ありません、ウェンデル様」


 相変わらずの何処か割り切ったような態度で、伯爵の名を呼ぶ声も淡々としている。


 しかし、名前を呼ばれたことに幾分か機嫌をよくした伯爵は唇を吊り上げた。イリスは、ささやかながらも反抗的な自分が素直に命令に従ったことに機嫌をよくしたのだと解釈する。


 伯爵の名を呼んだあと、お愛想程度にふんわりと微笑み、イリスは背を向けて分けた資料を自分の仕事机に置いた。

 伯爵夫妻の仲はこんな風にざっぱりしてます。二人がお互いをいとしく思う日はいつの日か……私も楽しみです(笑)


※三月より文字数削減や調整のため、加筆修正はじめました。どうかご協力ください。<(_ _)>

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ