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恋、物理で飛んでます。

作者: なかすあき
掲載日:2026/02/03

~ギャルは恋を隠す~


 教室の朝は、だいたい騒がしい。

 恋と課題とTikTok、「誰が誰と付き合ったら映えるか」みたいな話で、空気がパンパンに膨らんでる。

 まあ高校一年生だったら、そんなもんだ。


「ねえ見て、このふたり昨日の帰り道、並んで歩いてたんだって!」


 差し出されたスマホの画面には、隣のクラスの男の子と女の子。

 女子の輪の中心で、私は肘をついて、いかにも余裕そうに笑った。


「めっちゃお似合いじゃね?」


 言った瞬間、みんなが「わかる~!」って同じ音量で返してくる。

 こういうところは、私の得意分野だ。

 相づち、笑い、ちょい毒、ちょい褒め。場を回す。空気を作る。ギャルという名の司会者。


「ルナはどうなの~? 恋とかしてんの?」


 来た。定番の質問。

 私は即答する。考える前に、口が動く。


「え、恋? なにそれ。恋とか余裕っしょ」


 拍手みたいな笑いが起きる。私も笑う。

 笑顔はちゃんと“いつもの顔”になってる……はず。


 その瞬間、視線だけが、勝手に教室の端へ滑った。


 窓際。二列目。

 ひとりで本を読んでいる男子。

 背中はまっすぐ。動きは静か。メガネの奥の目だけが、ページの上をゆっくり歩いている。


 三坂ユウ。


 彼は、声を張らない。前に出ない。目立たない。

 なのに、私は毎朝、最初に彼を見つけてしまう。


(……見つけるなよ、私)


 心の中でツッコむ。

 でも、目は勝手に見てしまう。見たいって言ってるみたいに。


 ギャルが地味男子好きとか、ネタにされるだけ。


 その一文が、脳内の電光掲示板にピカピカ流れる。

「ウケる~」「意外すぎ」「どうしたルナ、キャラ迷子?」

 言われる未来が、もう見える。予知夢じゃない。経験だ。


 私は視線を慌てて戻して、聞いてなかった友達の話に大げさにうなずいた。


「え、まじ? やば。尊いじゃん」


 言葉は軽い。笑いは軽い。

 でも胸の奥だけ、鉛みたいに重い。


 話しかけられない。


 今日も。

 たぶん、話しかけたら終わる。

 すぐにみんなにバレちゃうから。


 だから私は、彼の方を見ない。


 小さく息を吸って、短く吐いた。ため息の形にならないように。

 教室のざわめきに溶けるくらいの、薄いやつ。


 よし。いつも通り、うまくやる。


 そう思った、そのとき。

 私の胸が、きゅっと、変なふうに痛んだ。


~初射出、コツン事件~


 胸の奥の違和感は、気のせいにできるサイズじゃなかった。


 きゅっ。

 心臓を指でつままれたみたいに、息が一瞬、詰まる。


(なに、今の……)


 私は笑顔のまま、視線をユウに向けた。

 ちょうどそのとき。


 コロン。


 乾いた音がして、消しゴムが床に落ちた。

 ユウの机の下から、ころころと転がって、私の靴の先で止まる。

 周りの子たちは気づいていない。


「あっ」


 ユウが身をかがめたと同時に、私も消しゴムに手を伸ばしていた。

 距離が、近い。教室の空気が急に薄くなる。


(だめ、近づいたら……って、なんで!?)


 私は消しゴムを拾い上げた。

 指先に、やけに軽いゴムの感触。


「はい、三坂くん」


 渡そうと顔を上げた瞬間。


 胸が、もう一度きゅっと鳴った。


 今度は、痛いとかじゃなくて、“開く”感じ。

 胸の真ん中に、見えないファスナーがあって、勝手にジジッと下がるみたいな。


 そして。


 ぽんっ。


 私の胸元から、ピンク色の“何か”が出た。


 いや、何かじゃない。

 はっきり形がある。

 丸っこくて、つやつやしてて、あまりにも分かりやすい。


 ハート。


(……え?)


 思考が止まるより先に、ハートは動いた。

 ふわっと浮いて、次の瞬間、意思を持ったみたいに一直線に飛ぶ。


 ビューン。


 ユウの額に、コツン。


 音は可愛い。

 でも当たった瞬間、ユウの眉間がきゅっと寄った。痛いらしい。ちゃんと痛いらしい。


 ユウは手で額を押さえたまま、きょろきょろと周りを見回す。


「……え? いま、誰かに叩かれた?」


 言い方が、あまりにも真面目で、周りにいた子たちが一拍、静かになった。


「え、なに?」「今の見た?」「ピンク飛んだよね」


 ざわざわ。

 誰かが笑いをこらえきれず、ぷっと吹いた。


「ピンク色のなにかが飛んでた」

「ハートっぽかったけど」

「え、誰の?」「風船?」「いや、ハートだって」


 みんなが思い思いに口を開く中で、私はしゃがんだ姿勢のまま固まっていた。


(私から、出た……?)


 私の目は捉えていた。

 私の胸から生まれたハートが、ユウに向かって飛んで、ぶつかったのを。


 ユウはまだ、きょろきょろしていた。

 犯人探しみたいな目で、でも怒ってはいない。困ってる。


「……なんか大きい虫がいるみたいだから、気をつけてね」


 私に向けて、そう言った。

 心配のトーン。

 しかも、私が怪訝な顔だったのを気にしてくれたと思うと、胸がまた変なふうに締まった。


(虫じゃない。虫じゃなくて、恋です。って何言ってんの私)


 喉まで出かけた声を、私は飲み込んだ。

 代わりに、口の端を引きつらせて笑う。ギャルの必殺技、“とりあえず笑う”。


「えっ、今のなに? ウケるんですけど……」


 小声。震え声。

 自分でも気づくくらい、声が薄い。


 その瞬間、胸の奥が、また、きゅっと鳴った。


(やめて)


 祈るより早く。


 ぽんっ。


 二つ目のハートが、生まれた。


~病名:ハトビョー(真顔)~


 病院の診察室は、白すぎて落ち着かなかった。

 壁もカーテンも机も、ぜんぶ「清潔です!」って顔をしている。

 そのくせ私の胸だけは、さっきから落ち着いていて、教室でのピンク色の何かを吐き出す気配もない。


「では、症状について確認しますね」


 白衣の医師は、カルテをめくりながら言った。

 声が低くて、無駄に丁寧。怖い。


「本人は“胸のあたりがきゅっとした”感覚があり、その直後に……」


 医師は一瞬だけ目を上げる。

 私の顔を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。


「……ハートが出た」


「出ました」


 私が即答すると、医師は「うんうん」とうなずきながら、カルテになにやら書き込んでいる。


 さっきまで、必死に症状なのかはわからないけどを伝えていたんだけど、肝心のハートはぜんぜん現れなかった。

 だから、頭がおかしくなったギャルが来たと思われている可能性もある。


 カルテを書き終わった医師は、咳払いひとつして、淡々と言った。


「突発性ハート射出症候群です。通称、ハトビョー」


「……は?」


 声が、勝手に裏返った。


「はと……びょう?」


 頭の中で鳩が歩き回る。

 クルッ、クルッ、首を振りながら。かわいい。いや、かわいくない。


「え、先生、それ……ふざけてます?」


「ふざけていませんよ」


 真顔で言われた。

 真顔で言われると、こっちが悪い気がしてくるの、なんなの。


 医師は机の上に、図が印刷された紙を置いた。

 どこかで見たことあるような、人間の体の図。

 ただし、胸のところだけが赤い丸で囲まれていて、その横にでかでかと書いてある。


【好意→可視化→射出】


「え、図まである……」


 私が引き気味に言うと、医師はさらに真面目な顔で続ける。


「症例数は非常に少ないですが、報告はあります。特徴は三つ」


 指を一本、立てる。


「まず、見えること。あなたにしか見えない幻覚ではありません。周囲にも視認されます」


 確かに、みんなにも見えてた……。


 指が二本目。


「次に、標的が固定されること。一般的には、本人が抱いている“好意の対象”に向かって飛びます」


 私は、息が止まった。

 喉が乾いていく。


(好意の対象)


 その単語の圧が強すぎて、心臓が背中側に引っ込む。


 三本目の指。


「そして、当たると痛い。強度は個人差がありますが、物理的な衝撃を伴うことが多いです」


「痛いって、どれくらい……?」


「軽い打撲程度から、場合によっては危険なケースも」


 “危険”の言い方が、ニュース番組みたいだった。

 私は椅子の背もたれに、じわじわ沈んだ。


「……治せるんですか?」


 医師は言葉を選ぶ間もなく、さらっと言った。


「治療法は確立されていません」


「えっ……」


 軽く言わないでほしい。

 こっちは人生がピンクに包まれそうなんですけど。


 医師は机の上にペンを置き、今度は、少しだけ声のトーンを落とした。

 やけに優しい言い方になって、逆に怖い。


「ただ、覚えておいてください」


 医師は、まるで詩みたいに言葉を紡ぐ。


「想いは外に出ます。抑えると、なおさら」


「……抑えると、なおさら」


 私はおうむ返しした。

 頭では分かってないのに、言葉だけが重い。


 医師は、最後に釘を刺すように言う。


「感情が強くなるほど、出力が上がる可能性があります。興奮、焦り、恐怖、そして……」


 言いかけて、医師は一瞬止まった。

 私の顔を見て、たぶん察したんだと思う。


「……好き、など」


 診察室の空気が、白いのに甘いピンクになった気がした。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 病院を出ると、空がやけに青い。

 さっきまでの白い世界が嘘みたいだ。


 でも私の中は、青でも白でもなく、ピンクだった。


(抑えると、なおさら)


(感情が強くなるほど、出力が上がる)


(そして……標的が固定される)


 全部が、ひとつの顔に繋がる。


 三坂ユウ。


 本を読んでいた横顔。

 困ったみたいにきょろきょろした目。

「気をつけてね」って言った声。


 もし、このままハートが増えて。

 もし、強くなって。

 もし、当たりどころが悪くて。


「あの人が、ケガしたら……」


 思わず、口から声が漏れだす。

 言った瞬間、胸がきゅっと鳴りそうになって、私は反射で胸を押さえた。


(抑えると、なおさら、って言われたばっかじゃん……)


 泣きたいのに笑いが出そうで、私は変な顔のまま歩き出した。


~恋バレ推理と当たり判定ゼロ男~


 昼休みの教室は、朝よりうるさい。

 朝はまだ「眠い」が混ざるけど、昼は違う。みんな元気が余ってる。余った元気が、誰かの恋に投げつけられる。


 そして今日は、その投げつけ先が私だった。


「ルナ、病院どうだったの!?」


 私が席に戻った瞬間、女子たちが半円を作った。

 みんなに心配してもらえるのは嬉しいけど、今はちょっと困るかも。


「え、ちょ、なにその顔。まじでヤバい系?」


「ヤバくない、ヤバくない。ちょっと……ちょっとだけヤバい……?」


 どうやってごまかせばいいか、それしか考えてなくて語彙力がなくなっていた。


「で? 病名なに?」


 本気で心配している顔に囲まれて、正直に言うしかなくなる。

 できるだけ明るく、できるだけ軽く。


「突発性ハート射出症候群。通称、ハトビョー……らしいよ」


 一瞬、教室が静かになった。

 みんなの頭の中で、鳩が一斉に歩き始めた音がした気がする。


「……ハトビョー?」

「かわいくない!?」「いや、かわいいのが逆に怖い」「病名ってそんなノリでつくの?」


 ツッコミの波が来る。私は笑って受け流す。受け流さないと死ぬ。


 女の子のひとりが、腕を組んで目を細めた。


「ねえ、それってさ」


 あっ、この“ねえ”の感じ、やばい。

 ラブ推理が始まる合図。


「そのハトビョーって、好きな人いるってことじゃない?」


「ち、ちがうよぉ!」


 否定の声が、うっすら裏返った。

 だって、医師の声が脳内で再生される。

 “一般的には好意の対象に向かって飛びます”。


 私は必死で笑顔を作った。


「原因も不明だってお医者さん言ってたし。ほら、未知の病気? こわっ、みたいな?」


 言い訳を重ねた、その瞬間。


 ぽんっ。


 胸の奥が鳴って、ピンク色のハートが一つ、ふわっと生まれた。


(うわっ、出てこないで!)


 祈る間もなく、ハートは教室を横切る。


 ビューン。


 窓際の席。

 三坂ユウの側頭部に、コツン。


 ユウは本を閉じて、ゆっくり顔を上げた。

 困ったように眉を寄せ、きょろきょろしてつぶやく。


「……え? また?」


 教室のみんなが「うわ~」って声にならない声を出したのがわかる。


「今の見た?」「ルナの否定と同時に飛んだ」「否定がトリガーになってる?」


 私は笑った。笑うしかない。

 ギャルはピンチでも笑う。そういう生き物。


「いや、ほら、ね。病気だから。たまたまだから」


 たまたま、って言った瞬間。


 ぽんっ、ぽんっ。


 二つ、三つ。

 小ハートが量産されて、同じコースでユウへ向かう。


「これは、ち、ちがうってば!」


「違うって言うほど飛ぶんだけど」

「これ、否定すると増えるタイプの呪いじゃないか?」


 教室は完全に実況席になった。


「さあ出ました、ルナの否定! ハートが追加で生成されます!」

「追尾性能えぐいぞ!」


 今度はユウの額に、コツン、コツン。

 メガネが少しずれて、ユウは直しながら困った顔で笑った。

 怒ってないのが、逆に苦しい。


 さっき推理を始めた子が、確信の目になっている。


「やっぱりさ。ルナ、誰か好きなんでしょ」


「違……うっ」


 言いかけた、そのとき。


 教室のドアがバン、と開いた。


「いいなぁ、ルナのハート!」


 入ってきたのはお調子者の男子だった。

 スポーツバッグを肩にかけ、勢いだけで生きているタイプ。空気を読まない才能がある。


 男子はニヤニヤしながら、ハートが飛んでいく進路上に飛び出した。

 そして胸を張った。いや、張りすぎだ。


「俺も受けたい! ほら、ここ! ここで受け止める!」


「やめろ! なんかキモいし!」


 私が叫ぶより早く、ハートは男子に向かって、その突き出した胸に……ぶつからない。


 ピンクの物体は、男子の胸元をすり抜けた。


(え?)


 教室の時間が一瞬止まる。

 お調子者の男子だけは、キメ顔のままフリーズする。


 そして次の瞬間。


 ハートは、まっすぐユウの額へ。


 コツン。


「……えっ、俺をすり抜けたんだけど?」


 ぽかんと呆けた表情がおもしろかったのか、教室が爆発した。

 笑いが波みたいに押し寄せて、机が揺れる。


「透明人間かよ!」

「お前、当たり判定ゼロ!」

「眼中にないってことじゃないのか!」


 男子は当たらなかったはずの胸を押さえたまま、傷ついた顔を作った。


「え、ちょ、ひどくない? 俺、存在してるよ?」


 近くにいた女子がニヤニヤしながら言う。


「存在はしてるけど、ルナのハートには認識されてないんでしょ」


「泣いていい?」


 勝手に泣けばいい。

 私は、気が気じゃない。

 どうしてユウにだけぶつかったのか、みんな理解してしまったんじゃないだろうか。


 そんなことを考えていると、ユウが額を押さえながら、小さな声でつぶやいた。


「……僕なんかが、ターゲット?」


 その言い方が、妙に胸に刺さってしまって、私は一瞬、息が止まった。


(僕なんか、って言わないで)


 でも、言えない。

 言ったら終わるから。


 私は慌てて、いつもの“ルナ”に戻る。

 軽く、雑に、冗談っぽく。


「ちょ、やめてよ! なんか、そういうの! たまたまだから! 病気だから!」


 言いながら、内心は足元が抜けそうだった。


(たまたまじゃない。病気のせいってことにしたいだけ)


 ギャルが地味男子好きとか、ネタにされるだけ。

 笑われて、噂されて、勝手に消費されて終わる。


 だから私は、笑う。笑ってごまかす。

 ごまかせてないのに。


「ルナ、顔赤いよー?」

「ねえ今、ピンク増えてない?」


 飛んでいくハートの後ろで、私は必死に笑った。

 たぶん、今日の私は、世界でいちばん、かっこ悪いギャルだった。


~絆創膏が増える午後~


 放課後の廊下は、昼休みの教室と別世界だった。

 人が引いて、音が引いて、夕方の光だけが残る。窓の外の校庭から、どこか遠くで部活の掛け声が聞こえるくらい。


 私は保健室の前で、立ち止まったまま動けなかった。

 ドアの横の掲示板に貼られた『けがをしたら先生に言いましょう』が、今日だけやけに刺さる。


(……私が、けがをさせてる)


 ドアが開いて、ユウが出てきた。

 いつものメガネはそのまま。でも、右の眉の上に小さな絆創膏。頬にも、もう一枚。

 そしてメガネのブリッジには、白い医療用テープがちょこんと貼られていた。


(……かわいい)


 いや、かわいいって思ってる場合じゃない。


 ユウは私を見つけると、ちょっと困った顔で笑った。


「待ってたの?」


「……うん」


 声が、思ったより小さくなった。

 教室の“ルナ”の声じゃない。私の声だ。


 ユウは額の絆創膏を触ってから、軽く肩をすくめた。


「大丈夫。これ、意外と慣れるから」


 慣れないでほしい。


 私はバッグから、買ったばかりの絆創膏を取り出した。

 キャラクターものじゃない。シンプルな肌色。真面目なやつ。

 どうしていいか分からなくて、とりあえず真面目になった結果だ。


「これ……ごめん。私の、せいだから」


 ユウは「ありがとう」と言いそうな口の形から、言葉を飲み込んだ。

 たぶん、私の顔が必死すぎたんだろう。


 私は絆創膏の箱を差し出す。

 ユウも、手を伸ばす。


 指先が、ちょん、と触れた。


 その瞬間。

 胸の奥が、きゅっと鳴った。


(あっ、やめて!)


 思ったのに、やっぱり間に合わない。

 というか、よく考えたら当たり前じゃん?

 私が、三坂ユウとふたりっきりで、ドキドキしないわけないじゃんってバカなの、私!?


 ぽんっ。


 そんな風に自分のバカ加減に逆ギレしてたら、今までより少し大きいハートが、私の胸元から生まれた。

 手のひらサイズじゃない。両手で包めそうなサイズ。

 見た目はふわふわしてそうなのに、空気を切る速度が速い。


 ユウの目が大きくなる。


「え、ちょっ……!」


 ハートはまっすぐ飛んで、ユウの胸元に――ゴン。


 鈍い音。

 そんな音をさせたくせに、ふわっと跳ね返ったハートは宙に消えていった。


 ユウは一歩、後ろに下がって、壁に手をついた。メガネがずれて、テープがきらっと光る。


「……っ、今の、ちょっと強かったね」


 笑おうとして、笑いきれない顔。

 それが、私の胸をさらにきゅっと締めた。


(だから、やめてって……!)


 私は思わずユウに近づきかけて、途中で止まった。


 近づいたら、また出る。

 出たら、また当たる。


 手が宙で迷子になる。謝りたいのに触れない。

 この状況、最悪すぎる。


「……ごめん」


 声が震えた。ギャルの声じゃない。

 私は、ユウの目をちゃんと見るのがこわくて、伏し目がちに言う。


「近づかない方がいい。私、やばいよね」


 言った瞬間、廊下の空気が冷たく感じた。

 “距離を取る”って言葉は、実際に距離を作るんだ。残酷なくらいに。


 ユウは、メガネを直した。

 テープがずれて、ちょっと斜めになって、それが妙に情けなくて、胸が痛い。


 小さく息を吐いて、私を見るユウ。

 怒ってない。笑ってもいない。静かな目。


「大丈夫」


 その一言が、私を少しだけ救って、少しだけ刺した。

 救われると、甘えてしまいそうになる。刺さると、離れたくなる。


 そのとき。


 ぽんっ。


 ハートが、また出た。

 今度は小さめ。でも速い。

 まるで「大丈夫」に反応してしまったみたいに。


「……っ」


 ユウは避けようとして、間に合わない。

 ハートはユウの肩のあたりにコツン、と当たった。


 ユウは「痛っ」と小さく言って、苦笑した。


「……でも、痛いのは痛いね」


 言い方が、責めじゃなくて事実確認みたいで、余計に刺さる。


 私は唇を噛んだ。

 謝りたいのに、謝ったらまた出そうで。

 好きって言えないのに、好きが勝手に飛んでいって。


(これ、私の気持ちが、あの人を殴ってるみたいじゃん)


 そんなこと思った瞬間、胸がまたきゅっとした。

 私は慌てて胸を押さえた。


 ユウがそれを見て、少しだけ眉を下げた。


「……柊さんの方が痛そう」


 その言葉に、呼吸が止まりそうになった。

 柊さんって名字で呼ぶのは、うちのクラスではユウだけだ。

 ほかの人には「名前で呼んでよ」って軽く言えるのに、ついぞ言えないまま。


(やめてよ。優しくしないで)


 優しくされると、好きが増える。

 増えたら、また当たる。


 私の中で、ひとつ結論が固まっていく。


 守るために、離れる。


 その選択肢だけが、やけに現実的に見えた。


~好き禁止作戦、全滅~


 翌日。

 私は朝から決めていた。


 恋、禁止。


 好きも禁止。

 ドキドキも禁止。

 さらにはユウを視界に入れるのも禁止!


(抑えると、なおさら)


 医師の声が頭の中で反響する。

 お医者さんの言うことだからか、すごく心に刺さってる。


 教室に入ると、もう噂は熟成していた。

 昨日の「すり抜け事件」のせいで、クラスのテンションは朝から昼休みみたいになっている。


「ルナ、おはよー! 今日も飛ばすの?」


「飛ばさないよ!」


「否定した! はい、飛ぶー!」


 飛ばない。飛ばさない。飛ぶな。


 私は席に着いて、ユウを見ないようにした。

 見ない。見ない。見ないんだから。


 ……その時点でもう意識してるんだよね。最悪。


 ぽんっ。


 机の下で、小さなハートが生まれた気配がして、私は膝をぎゅっと閉じた。


(出るなってば!)


 ハートは、机の隙間からぴょこっと顔を出し、ためらいゼロでユウの方へ飛び出した。


「ぃっ……!」


 横からぶつけられて、ユウが軽くうめく。

 いつものメガネの真ん中には、例の白いテープ。

 あれを見るだけで、胸がきゅっとなる。


 私は立ち上がった。


(このままじゃ、ダメだ!)


 教室に入ってからの三分間で、好き禁止とか無理だと気づいた。

 もっと直接的に、守るために動かないと。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


「三坂くん、ちょっと来て」


 私の声が真剣すぎて、周りが静かになる。

 近くにいた子がニヤニヤして言った。


「なに? 告白?」


「違う!」


 そう言った瞬間、ハートがもう一個、生まれた。


(もう、あとにして!)


 私はユウの腕を引いて、体育倉庫へ直行した。

 そこから持ち出したのは、胸当てっぽい防具。剣道部とかが使う、そんなやつ。


「これ着て」


 ユウは防具を持ったまま、困ったように固まっていた。


「えっと、僕がこれ着るの?」


「いいから!」


 “いいから”の勢いだけで、ユウの困惑を押し流す。

 私はユウの胸元にそれを当てて、ベルトを締めようとした。


 顔が近くなって、ちょっと見上げるだけで目が合っちゃうかも。

 そう思うと、胸がきゅっとしてしまう。


 ぽんっ。


(あ、出ちゃった)


 ハートは防具に向かって飛んだ。

 当たった。ゴン。

 防具とともに、ユウの体も後ろに倒れこんだ。


「ぐぇ……」


「えっ、なんで、防具越しなのに?」


「……防具って“無敵”じゃないんだね」


 悲しそうにつぶやくユウ。

 よく考えたら、当たり前だった。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 防具が役に立たないなら、次。

 私はポケットからサングラスを取り出した。


 なぜ持っているのか?

 ギャルだから。ギャルのポケットは異次元だから。


 サングラスをかける。

 視界が一気に暗くなった。夜の教室、新鮮だな。


「よし。見ない。目を合わせない。意識しない」


 隣の席の子が言った。


「それ、一番意識してるやつでしょ」


 うるさい。


 私は顔ごとそらして、ユウに背中を向けた。

 絶対に、ユウの方を見ない。

 心の中でも見ない。たぶん。


 ぽんっ。


(出るな)


 ぽんっ。


(増えるな)


 ハートが、私の肩越しに飛び出していく。

 見えてはないけど、たぶんユウのいるところに。


 ハートは迷わない。

 曲がる。避ける。追尾する。

 まるで「お前が見てなくても、俺は見てる」って言うみたいに。


「見てないのに!?」


 私は思わず振り向いて叫んだ。


 隣の子が即答する。


「逆に意識してるからじゃん!」


 教室が笑いで揺れる。

 ユウの方では、コツン、コツンと命中音が続く。


 ユウは痛がるというより、困っている。


「今日は、昨日よりも多いなぁ……」


 多くなってる。私の焦りが燃料だから。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 最後の手段。

 私は机に突っ伏して、目を閉じた。


 見ないとかじゃなくて、もう無心。

 私は石。私は空。私は無。

 恋などない。ハートなどない。世界は無。


「ルナ、どうしたの? 寝た?」


「寝てない。無心してる」


「無心って声に出してやるもんなの?」


 うるさい!


 私はさらに力を入れて無心をした。

 脳内を真っ白にする。

 ユウのことを考えない。

 ユウのメガネも。ユウのテープも。ユウの声も。


(……気をつけてね)


 なんか、心をからっぽにしたからこそ、クリアに声が聞こえてくる。


(思い出しちゃだめ!)


 胸が、きゅっと鳴る。


 ぽんっ。


 目を閉じてても分かる。出た。


 ぽんっ、ぽんっ。


 増える。

 無心をしようとするほど、心が暴れる。

 抑えようとするほど、想いが外に出る。


 私は机に顔を押しつけたまま、唇を噛んだ。


(もう無理だ……)


 そのとき、口が勝手に言った。


「……好き、なんだよ」


 声は小さい。

 でも静かな教室では、ちゃんと音になってしまうサイズ。


 びっくりして起き上がった私は、自分の口を両手で押さえた。


 手のひらの中で、熱い息が跳ねる。

 心臓が、ばくん、と大きく鳴る。


(今の、誰かに聞こえた?)


 ゆっくり周りを見ると、みんなが固まっていた。

 数瞬ののち、ざわつきが戻る。


「今、言った?」

「え、言ったよね?」

「ルナが……好きって……」


 私は、世界が終わるのを見た。

 そして、終わりの合図みたいに、胸の奥がきゅっと鳴った。


 ぽんっ。


 今日いちばん大きくて、今日いちばんまっすぐなハートが、ユウへ向かって飛んでいった。


~空席と、静かな胸~


 次の日の朝。

 教室の空気が、妙に普通だった。


 昨日まであれだけ騒いでいたのに、今日は「おはよー」の声がちゃんと「おはよー」になっている。

 誰も、ピンク色の何かを警戒していない。

 誰も、私の胸元を実況しようとしていない。


 私は席に座って、机の上に両手を置いた。

 指先が落ち着かなくて、ネイルを触りそうになるのをこらえる。


(今日は、ハート出ないかもしれない……)


 胸の奥に耳を当てるみたいに、感覚を探る。

 きゅっともしない。

 ぽんっともならない。


 静かすぎて、逆にイヤだな。


 チャイムが鳴って、担任が入ってきた。

 出席を取り始める。いつも通りの声。いつも通りの流れ。


「……三坂」


 その名前が出た瞬間、私は背筋が勝手に伸びた。

 自分でも笑えるくらい反射だ。


 担任は名簿に目を落としたまま、淡々と言った。


「三坂は、欠席だ」


 空席。

 窓際の二列目。ユウの席だけが、ぽっかり空いている。

 昨日までそこにいたのに。

 昨日までそこに、私のハートが当たり続けていたのに。


(……休みなんだ)


 胸が、ふっと軽くなる。


 ほっとしていいはずだった。

「当たらない」「飛ばない」「痛くない」

 全部、いいことのはずなのに。


 私の胸の奥は、軽くなった分だけ、スカスカした。


(変なの)


 私は自分にツッコミを入れる。


(昨日まで“飛ぶな!”って思ってたのに、今は“飛ばない”のが寂しいって、何それ)


 机の角を見つめて、目を逸らす。

 目を逸らしたって、空席は消えない。


 隣の席の子が、顔を覗き込んできた。


「ルナ、今日静かじゃん。どした?」


「え? いやぁ、別に」


 女の子の「別に」は、だいたい別にじゃない。


 他の子も寄ってきて、眉を上げる。


「三坂くん休みだってね……ルナ、なんか元気なくない?」


 元気がない、って言われたくなかった。

 言われた瞬間、自分でも“そうなんだ”って認めるみたいだから。


 私は笑おうとした。

 いつものみたいに、軽く。雑に。冗談っぽく。


 でも口角が上がらなかった。

 顔の筋肉が、昨日の「好き」で固まったままみたいに動かない。


「だってさぁ……たぶんだけど、私のせい、だし……」


 言い終わる前に、言葉が消えた。

 途切れたまま、空気に落ちる。


 ユウが欠席するのは、高校に入学してから一度も見たことがなかった。

 ひょろっとしてるけど、病弱ってわけじゃないんだよね。


 隣の子が、私を元気づけるように言う。


「まあまあ、たまたま休みになっただけかもしれないじゃん?」


「うーん……」


 さすがに、私のせいじゃないなんて楽観的には考えられない。

 それとも、私は“私のせい”であってほしいと思ってる?


 わかんない。でも、そんな風に考える自分に腹も立つ。


「それよりもさ、ハトビョーだっけ? あれ、今日飛んでないね?」


 寄ってきた子にそう聞かれて、私は自分の胸元を見下ろした。


 ……何も出てない。

 ピンク色の何かも。コツンの音も。教室の笑いも。


 静かだ。


 私は小さくうなずいた。


「うん……飛んでない」


 その子は私を励ますためか、妙に嬉しそうに言った。


「じゃあ治ったんじゃない?」


 違う。

 治ってない。

 治ってたら、こんなに胸が痛くない。


 私は笑ってごまかしながら、ユウの空席を見た。


 見ようとしたつもりじゃない。

 目が勝手に、そこに行く。


 空席の上に差す朝の光が、やけにきれいで、やけに意地悪だった。


(会わなければ、飛ばない)


 昨日まで「正解」だったはずの答えが、今日は「罰」みたいに重い。


 私は机の下で、指をぎゅっと握った。

 爪が手のひらに食い込んで、痛い。

 でもその痛さが、変に安心する。


(私、ほんとに……)


 口には出せない言葉が、喉の奥で膨らんだ。

 出したら、終わる言葉。


 でも、終わってほしくないって思ってる自分がいる。


 私はまた、空席を見た。

 見てしまった。


 見ないようにしても、見てしまう。


 空席がそこにあるだけで、私の中の“好き”は止まらない。

 ただ外に出る場所がなくて、胸の内側で、じわじわと膨らんでいく。


 静かすぎる午前が、いちばんうるさかった。


~ムキムキ帰還、受け止め宣言~


 ユウが欠席してから、三日が経った。


 私の胸は静かなままなのに、心はずっと騒がしかった。

 飛ばないハートは、胸の内側でだけ増えていく。

 見えないくせに、重い。最悪の荷物。


 その次の日の朝、私は浮かない気持ちで通学路を歩いていた。

 友達の話には相づちを打っているのに、視線は何度も周りを探してしまう。


「ルナ、今日の帰りどっか寄ってく?」


「んー……帰り、うーん……」


 返事が曖昧になった、そのとき。

 校門の前に、人影があった。


「……」


 空気が一瞬、止まる。


 そこにいたのは、ユウだった。

 メガネはそのまま。髪もそのまま。表情もそのまま。

 なのに、何かが決定的に違う。


 胸板。


 いや、胸板っていうか、厚み。

 シャツのボタンが、今までより“前に”ある。

 肩の位置が高い。背中がまっすぐ。

 そして腕。腕が……なんか、がっしりしてる。


(え、誰……?)


 私の脳が一瞬だけ処理落ちした。


 前を歩いていた男子が、声を張った。


「おい三坂! お前、でかくなってね!?」


 ユウは小さく頷く。


「……うん。ちょっとだけ」


 ちょっとだけ、の規模じゃない。

 ちょっとだけで、制服が“威圧感”は持たない。


 いっしょに歩いていた友達が目を丸くする。


「三日で? 何があったの。プロテイン?」


 男子は勝手に感動している。


「努力って三日で見えるんだな……!」


 違う方向に人生学ぶな。


 私は、声が出なかった。

 出なかったというより、出したら壊れそうだった。


 ユウがこちらを見た。

 目が合った。

 その瞬間。


 胸の奥が、きゅっと鳴った。


(あっ……)


 ぽんっ。


 久しぶりに、ピンクが生まれる感覚。

 懐かしくて、怖くて、泣きそうになる。


 小さなハートが、ふわっと私の胸元から浮いた。

 そして、迷いなくユウへ向かって飛ぶ。


 ビューン。


「危ない!」


 誰かが叫んだ。

 校門付近にいたみんなが、条件反射で身構える。

 女子は手を口に当て、男子はなぜか自分に飛んでくると思ってるかのように構える。


 ハートは、いつも通り追尾する。

 一直線に見えて、ほんの少しだけカーブして、ユウの胸元へ。


 ゴン。


 直撃、鈍い音。

 でも、ユウの体は揺れない。びくともしなかった。


 受け止めた。

 本当に、受け止めたんだ。

 胸が動かない。足が動かない。姿勢が崩れない。


 みんなが驚いて、同時に息を吸った。

 私も同じように、吸ったまま止まっていた。


 ユウは胸元を軽くさすっただけで、静かに言った。


「大丈夫」


 その一言だけで、私の喉が熱くなった。


(大丈夫じゃないよ)


 言えない。言ったらまた飛ぶ。

 なのに、ユウは一歩前に出た。

 私との間に、自分から立った。


「気にしなくていいよ」


 声が、前より少しだけ強い。

 でも、相変わらず静かで、優しい。


「僕が大丈夫にするから」


 その言葉は、盾みたいだった。

 かっこつけた盾じゃない。

 誰かを守るための、ちゃんと重い盾。


 私の胸が、ぎゅっと締まった。


(なんで、そんなこと言うの)


(なんで、そんな顔するの)


(なんで、そんなに……)


 ぽんっ。


 今度のハートは、さっきより大きかった。

 大きいのに、形がきれいで、つやつやしていて、腹が立つくらい可愛い。


「ルナ、それは危ないんじゃ……!」


 誰かの声が聞こえた。

 私だって、止められるなら、止めてるよ。

 でも私は今、恋を止められるタイプの人間じゃない。


 ユウは逃げなかった。

 目をそらさなかった。

 むしろ、少しだけ笑った。


 その笑い方が、ずるい。


 ハートが飛ぶ。

 ユウの胸元へ。


 ズドン!


 また受け止めた。

 足が動かない。


 近くにいた男子が感極まって叫ぶ。


「受け止めた! 受け止めたぞ! 何それ主人公かよ!」


 女子は、うんうんと頷いている。


「主人公だわ……」


 私は、笑いたいのに泣きたくて、泣きたいのに笑いたくて、顔がぐちゃぐちゃになった。

 ギャルの顔じゃない。余裕なんてない。もうどうでもいい。


 ユウが、少しだけ眉を下げる。


「……柊さん、大丈夫?」


 やめて。

 そんな言い方したら、もっと出る。


 私は涙をこぼしそうになりながら、笑ってしまった。


「泣かないし……。ていうか、なにそれ。ムキムキになって戻ってくるとか……ズルくない?」


 ユウは、少しだけ視線を逸らした。

 照れたみたいに。


「……鍛えたんだ」


 短い言葉。

 でも、意味が重すぎて、胸がまたきゅっとなる。


(私のために?)


 思った瞬間、答え合わせみたいに、胸の奥が鳴った。

 でも、それは今までと違う鳴り方だった。


 きゅっ、じゃない。

 ぎゅう、でもない。

 もっと大きい。もっと深い。

 体の中心から、何かが開く音。


(……やだっ)


 ぽんっ。


 出た。


 でも、それは“ぽん”じゃなかった。

 “どん”に近い。

 空気が揺れて、私の中から知らない感情があふれ出した。


~直径100mハート、来襲~


 止まらない。


 私の中で開いた“何か”は、もうハートってサイズじゃなかった。

 恋心のくせに、重量がある。しかも制御不能。最悪。


 ぬるり、と視界の端が暗くなる。


「……え?」


 嫌な予感がして、私は空を見上げた。


 校門の上。

 朝の透き通った空に、巨大な影が浮かんでいる。


 ピンク色の――ハート。


 大きすぎて、最初は脳がバグる。

 近い、って錯覚する。

 でも違う。近くない。遠い。空のはるか上方から近づいてる。こっちに向かってる。


「なに、あれ……」


 誰かの声が、落ちた。


 登校中の生徒も、校門前の人も、全員が見上げたまま固まっていた。

 さっきまでの「おはよー」が、全部消える。

 聞こえるのは、自分の心臓の音だけだ。


 私は声が出なかった。

 出なかったけど、口が勝手に動いた。


「やだ……」


 喉が震えて、やっと言葉になる。


「やだ……止められない……!」


 言った瞬間だった。

 巨大なハートが、ぐん、と傾いた。


 まるで「止められないなら、行くね」とでも言うみたいに。

 恋のくせに、あまりに積極的で怖い。


「逃げて!」

「無理だって!」

「やばっ……!」


 ざわめきが、朝の空気に散る。

 でもすぐに、音が薄くなる。

 想像できないほど危険なものが近づくと、周りの声って、急に“他人事”みたいに聞こえる。


 ユウが、私を見る。


 その目が焦っている。

 でも逃げていない。

 逃げないのが、ずるい。ほんとに、かっこいい。


 ユウは制服の袖をまくった。

 三日で作った腕が、朝日に妙に健康的に光る。

 こんな状況で、なんでそんな“頼もしさ”出すの。


 ユウは深く息を吸って、構えた。

 両足を開いて、地面を踏む。

 胸を張る。背中を伸ばす。


「受け止めてみせる……!」


 声が少しだけ震えていた。

 それでも言っちゃうんだ、この人は。


(無理だよ……!)


 言いたい。

 でも言えない。言ったら“好き”が増える。増えたらもっと来る。

 私は自分の舌を噛みそうになった。


 巨大なハートが、校門を覆う。

 影がユウの足元に落ちる。

 光が、消える。


 空気が鳴る。

 風が巻く。

 ハートが近づくほど、音が“重く”なる。


 ――当たる。


 そう思った、その瞬間。

 視界がピンクでいっぱいになった。


~ピンクドームで本音だだ漏れ~


 ――当たった。


 悲鳴が出るより早く、世界が終わる気配がした。


 でも。


 ドン、という衝撃が来ない。


 代わりに、ぶわっ、と空気が膨らむ音がした。

 爆発みたいなのに熱くない。怖いのに甘い。

 綿菓子みたいな匂いがする。なんかヘンな感じ。


 次の瞬間には、空が消えていた。


 正確には、空はある。

 でも“外”が見えない。

 空の代わりに、ピンク色の天井がある。


 巨大なハートはユウに当たる寸前で、爆ぜたのだ。

 爆ぜて、広がって、薄い膜みたいになって――ここら一帯、たぶん学校全体を包んでいる。


 ドーム。


 ピンクのドームが、私たちを閉じ込めていた。


「……なに、これ」


 自分が発した声が妙に近く聞こえる。

 音がこもっている。耳の内側みたいな静けさだ。


 私は息を呑んで、ユウを見る。


 ユウは立っていた。

 倒れてると思ったのに、立ってる。

 メガネも無事。胸も無事。ムキムキも無事。

 でも、顔は少し青い。


 怖かったんだと思う。

 怖かったのに、逃げなかった。


 その事実だけで胸の奥がきゅっと鳴りそうになって、私は慌てて胸を押さえた。


(抑えると、なおさら)


 やめて。今それ思い出さないで。


「え、待って……これ、学校ごと包んでるよね?」


 隣の友達が呆然とした顔で言った。

 その声が震えているのに、私はなぜか、ちょっとだけ安心する。私だけじゃない。


 少し離れたところで、男子が叫ぶ。


「俺たち、今、ピンクの中にいる! なんか恥ずかしい!」


 ……恥ずかしい、は余計だろ。

 でも、たしかに恥ずかしい。だって、これって私が原因なんだよね……?


 校門に立っていた先生。

 生徒のみんなが慌てているのを見て、ひとつ咳払い、いつもの調子で言った。


「静かに。落ち着いて――」


 その次の瞬間。


「――なんだよこれ、青春じゃねえか、甘ずっぺぇな!」


 先生は自分で言って、自分で固まった。


「……えっ?」


 先生は口を押さえた。

 でも、もう遅い。

 言っていた。


 周りがざわざわする。


「先生、いま、何て……?」

「今のって、先生の本音じゃない……?」


 先生の顔が赤くなる。

 怒ってるんじゃない。恥ずかしがってる。

 その人間っぽさが、ちょっとかわいい。


 別のクラスメイトの女子が、小さく言った。


「やば……」


 その女子は、続けて言ってしまった。


「……地味眼鏡イケメンマッチョ、萌え」


 その子は両手で口を塞いだ。

 でも、塞いでも遅い。言ったものは戻らない。

 っていうか、いまのってユウのこと?


 近くにいた男子が、なぜか胸を張って言う。


「俺だって、脱いだら腹筋割れてて――」


 次の瞬間、口が裏切る。


「――は嘘だけど、がんばって筋トレしなきゃ! 俺も君に萌えられたい!」


 男子はその場で崩れ落ちた。

 萌え女子は顔を赤くする。


「うわああ! なにを言ってるんだ、俺は!」


 友達が震える声で言った。


「このドーム……ヤバい。思ってることが、そのまま口から出る」


 私は背筋が凍った。


 思ってることが、そのまま。


 つまり。


(私の“思ってること”は……)


 私は口を開けないように、唇をぎゅっと噛んだ。


 抑えると、なおさら。


 喉の奥で言葉が膨らむ。

 内側から押してくる。吐き出せ、って言ってる。


 私は必死で笑おうとした。

 ごまかそうとした。ギャルの必殺技、“とりあえず笑う”。


「え、なにこれ、ウケ――」


 ウケる、と言おうとしたのに、口が勝手に続けた。


「――ウケるわけない。怖い。ユウが死んだらどうしようって、ずっと思ってた」


 私は、固まった。


 やばい。

 言っちゃった。言葉で。

 しかも、心の中では名前で呼んでたってバレちゃったかも。


 周りが一斉に私を見る。

 私は両手で口を塞いだ。

 でも遅い。口って、思ってるより裏切り者だ。


「ち、ちが……」


 言い訳しようとしたら、さらに出そうで、私は首を振った。

 揺れた髪にピンクの光が反射して、場に合いすぎて、余計に腹が立つ。


 そのとき、ユウが私を見る。


 まっすぐ。静かに。


「柊さん」


 名前を呼ばれただけで胸の奥がきゅっと鳴った。

 鳴ったら、また言葉が出そうで怖い。


 私は目だけで「今はやめて」と訴えた。

 でもユウは、少し眉を下げて言った。


「……さっき、怖かった?」


 優しすぎる。

 優しさは燃料。

 私の中で“好き”が勝手に点火する。


 喉が勝手に動く。

 言葉が勝手に滑り出る。


「違う、べつに――」


 言いかけた瞬間、口が裏切った。


「……好き」


 短い一言なのに、世界が止まる。


 ドームの中の空気も、止まったみたいに静かになる。

 先生も、友達も、男子も女子も、全員が固まっている。


「……え」

「今、ルナ……」

「好きって……」


 私は口を押さえたまま、目だけで泣きそうになった。

 最悪。私の口が私を裏切った。


 でも。


 ユウは笑わなかった。

 煽らなかった。

「やっぱり」って言わなかった。


 ユウはただ、少し息を吐いて、静かに言った。


「聞こえた。……ありがとう」


 ありがとう、って。

 好きって言われて、ありがとうって。


 胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。

 でもその痛みは、ぜんぜん怖いものではなかった。


 私は、口を押さえていた手を、ゆっくり下ろした。

 もう逃げない。逃げるほど増えるんだ。それなら、言っちゃうほうがお得、でしょ?


「……ねえ」


 声が震える。

 でも、言う。


「ギャルとか、関係ないって言ってくれる……?」


 ユウはまっすぐ私を見て、答えた。


「関係ない」


 即答だった。

 迷いがない。


 その一言で、喉の奥の重たい塊が少しだけ溶けた。


 私は息を吸って、ちゃんと、自分の言葉で言った。


「……好き。ずっと」


 言った瞬間。


 ドームの色が、薄くなった。


 ピンクが透明になっていく。

 膜が水みたいにほどけて、朝の空が戻ってくる。

 冷たい朝の風が入ってきて、甘い匂いが少しずつ消えていく。

 音が外へ抜ける。


 最後に、ドームがシャボン玉みたいに消えると、みんなが一斉に息を吸った。


「うわ、なんか戻ったぞ!」


 さっきの男子が叫ぶ。


「こういうのって、さっきまでの記憶忘れるとかじゃないのかよ!!」


 先生が、急に教師に戻った顔で言う。


「……全員、教室へ! もうすぐチャイム鳴るぞ!」


 世界が終わりかけたのに、一時間目は来る。

 現実は、強いな。いいじゃん。


 みんながざわざわと散っていく中、ユウが私のそばに残った。

 朝の光の中で、メガネのテープがまだ白く光っている。新しいの買ってないんだ。


 私はそれを見て、また胸がきゅっとした。

 でも今度は、ハートが飛ばない。飛ばさなくていい。


 ユウが少しだけ笑う。


「これからは、飛ばさなくていい」


 私は鼻をすすって、笑って返した。


「……言えばいいってこと?」


「うん。言って」


 私は腕を組んで、ギャルっぽく言う。

 最後くらい、キャラを取り戻したい。


「言ったね? ギャルは毎日言うからね?」


 ユウは、ちょっとだけ目を逸らして、耳まで赤くなった。


「……それは、覚悟いるね」


「でしょ」


 今度はちゃんと笑えた。

 恋は外に飛んでいかなくても、ちゃんと届く。

 それを、やっと知ったんだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また機会があれば、お会いできることを楽しみにしております。

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