恋、物理で飛んでます。
~ギャルは恋を隠す~
教室の朝は、だいたい騒がしい。
恋と課題とTikTok、「誰が誰と付き合ったら映えるか」みたいな話で、空気がパンパンに膨らんでる。
まあ高校一年生だったら、そんなもんだ。
「ねえ見て、このふたり昨日の帰り道、並んで歩いてたんだって!」
差し出されたスマホの画面には、隣のクラスの男の子と女の子。
女子の輪の中心で、私は肘をついて、いかにも余裕そうに笑った。
「めっちゃお似合いじゃね?」
言った瞬間、みんなが「わかる~!」って同じ音量で返してくる。
こういうところは、私の得意分野だ。
相づち、笑い、ちょい毒、ちょい褒め。場を回す。空気を作る。ギャルという名の司会者。
「ルナはどうなの~? 恋とかしてんの?」
来た。定番の質問。
私は即答する。考える前に、口が動く。
「え、恋? なにそれ。恋とか余裕っしょ」
拍手みたいな笑いが起きる。私も笑う。
笑顔はちゃんと“いつもの顔”になってる……はず。
その瞬間、視線だけが、勝手に教室の端へ滑った。
窓際。二列目。
ひとりで本を読んでいる男子。
背中はまっすぐ。動きは静か。メガネの奥の目だけが、ページの上をゆっくり歩いている。
三坂ユウ。
彼は、声を張らない。前に出ない。目立たない。
なのに、私は毎朝、最初に彼を見つけてしまう。
(……見つけるなよ、私)
心の中でツッコむ。
でも、目は勝手に見てしまう。見たいって言ってるみたいに。
ギャルが地味男子好きとか、ネタにされるだけ。
その一文が、脳内の電光掲示板にピカピカ流れる。
「ウケる~」「意外すぎ」「どうしたルナ、キャラ迷子?」
言われる未来が、もう見える。予知夢じゃない。経験だ。
私は視線を慌てて戻して、聞いてなかった友達の話に大げさにうなずいた。
「え、まじ? やば。尊いじゃん」
言葉は軽い。笑いは軽い。
でも胸の奥だけ、鉛みたいに重い。
話しかけられない。
今日も。
たぶん、話しかけたら終わる。
すぐにみんなにバレちゃうから。
だから私は、彼の方を見ない。
小さく息を吸って、短く吐いた。ため息の形にならないように。
教室のざわめきに溶けるくらいの、薄いやつ。
よし。いつも通り、うまくやる。
そう思った、そのとき。
私の胸が、きゅっと、変なふうに痛んだ。
~初射出、コツン事件~
胸の奥の違和感は、気のせいにできるサイズじゃなかった。
きゅっ。
心臓を指でつままれたみたいに、息が一瞬、詰まる。
(なに、今の……)
私は笑顔のまま、視線をユウに向けた。
ちょうどそのとき。
コロン。
乾いた音がして、消しゴムが床に落ちた。
ユウの机の下から、ころころと転がって、私の靴の先で止まる。
周りの子たちは気づいていない。
「あっ」
ユウが身をかがめたと同時に、私も消しゴムに手を伸ばしていた。
距離が、近い。教室の空気が急に薄くなる。
(だめ、近づいたら……って、なんで!?)
私は消しゴムを拾い上げた。
指先に、やけに軽いゴムの感触。
「はい、三坂くん」
渡そうと顔を上げた瞬間。
胸が、もう一度きゅっと鳴った。
今度は、痛いとかじゃなくて、“開く”感じ。
胸の真ん中に、見えないファスナーがあって、勝手にジジッと下がるみたいな。
そして。
ぽんっ。
私の胸元から、ピンク色の“何か”が出た。
いや、何かじゃない。
はっきり形がある。
丸っこくて、つやつやしてて、あまりにも分かりやすい。
ハート。
(……え?)
思考が止まるより先に、ハートは動いた。
ふわっと浮いて、次の瞬間、意思を持ったみたいに一直線に飛ぶ。
ビューン。
ユウの額に、コツン。
音は可愛い。
でも当たった瞬間、ユウの眉間がきゅっと寄った。痛いらしい。ちゃんと痛いらしい。
ユウは手で額を押さえたまま、きょろきょろと周りを見回す。
「……え? いま、誰かに叩かれた?」
言い方が、あまりにも真面目で、周りにいた子たちが一拍、静かになった。
「え、なに?」「今の見た?」「ピンク飛んだよね」
ざわざわ。
誰かが笑いをこらえきれず、ぷっと吹いた。
「ピンク色のなにかが飛んでた」
「ハートっぽかったけど」
「え、誰の?」「風船?」「いや、ハートだって」
みんなが思い思いに口を開く中で、私はしゃがんだ姿勢のまま固まっていた。
(私から、出た……?)
私の目は捉えていた。
私の胸から生まれたハートが、ユウに向かって飛んで、ぶつかったのを。
ユウはまだ、きょろきょろしていた。
犯人探しみたいな目で、でも怒ってはいない。困ってる。
「……なんか大きい虫がいるみたいだから、気をつけてね」
私に向けて、そう言った。
心配のトーン。
しかも、私が怪訝な顔だったのを気にしてくれたと思うと、胸がまた変なふうに締まった。
(虫じゃない。虫じゃなくて、恋です。って何言ってんの私)
喉まで出かけた声を、私は飲み込んだ。
代わりに、口の端を引きつらせて笑う。ギャルの必殺技、“とりあえず笑う”。
「えっ、今のなに? ウケるんですけど……」
小声。震え声。
自分でも気づくくらい、声が薄い。
その瞬間、胸の奥が、また、きゅっと鳴った。
(やめて)
祈るより早く。
ぽんっ。
二つ目のハートが、生まれた。
~病名:ハトビョー(真顔)~
病院の診察室は、白すぎて落ち着かなかった。
壁もカーテンも机も、ぜんぶ「清潔です!」って顔をしている。
そのくせ私の胸だけは、さっきから落ち着いていて、教室でのピンク色の何かを吐き出す気配もない。
「では、症状について確認しますね」
白衣の医師は、カルテをめくりながら言った。
声が低くて、無駄に丁寧。怖い。
「本人は“胸のあたりがきゅっとした”感覚があり、その直後に……」
医師は一瞬だけ目を上げる。
私の顔を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……ハートが出た」
「出ました」
私が即答すると、医師は「うんうん」とうなずきながら、カルテになにやら書き込んでいる。
さっきまで、必死に症状を伝えていたんだけど、肝心のハートはぜんぜん現れなかった。
だから、頭がおかしくなったギャルが来たと思われている可能性もある。
カルテを書き終わった医師は、咳払いひとつして、淡々と言った。
「突発性ハート射出症候群です。通称、ハトビョー」
「……は?」
声が、勝手に裏返った。
「はと……びょう?」
頭の中で鳩が歩き回る。
クルッ、クルッ、首を振りながら。かわいい。いや、かわいくない。
「え、先生、それ……ふざけてます?」
「ふざけていませんよ」
真顔で言われた。
真顔で言われると、こっちが悪い気がしてくるの、なんなの。
医師は机の上に、図が印刷された紙を置いた。
どこかで見たことあるような、人間の体の図。
ただし、胸のところだけが赤い丸で囲まれていて、その横にでかでかと書いてある。
【好意→可視化→射出】
「え、図まである……」
私が引き気味に言うと、医師はさらに真面目な顔で続ける。
「症例数は非常に少ないですが、報告はあります。特徴は三つ」
指を一本、立てる。
「まず、見えること。あなたにしか見えない幻覚ではありません。周囲にも視認されます」
確かに、みんなにも見えてた……。
指が二本目。
「次に、標的が固定されること。一般的には、本人が抱いている“好意の対象”に向かって飛びます」
私は、息が止まった。
喉が乾いていく。
(好意の対象)
その単語の圧が強すぎて、心臓が背中側に引っ込む。
三本目の指。
「そして、当たると痛い。強度は個人差がありますが、物理的な衝撃を伴うことが多いです」
「痛いって、どれくらい……?」
「軽い打撲程度から、場合によっては危険なケースも」
“危険”の言い方が、ニュース番組みたいだった。
私は椅子の背もたれに、じわじわ沈んだ。
「……治せるんですか?」
医師は言葉を選ぶ間もなく、さらっと言った。
「治療法は確立されていません」
「えっ……」
軽く言わないでほしい。
こっちは人生がピンクに包まれそうなんですけど。
医師は机の上にペンを置き、今度は、少しだけ声のトーンを落とした。
やけに優しい言い方になって、逆に怖い。
「ただ、覚えておいてください」
医師は、まるで詩みたいに言葉を紡ぐ。
「想いは外に出ます。抑えると、なおさら」
「……抑えると、なおさら」
私はおうむ返しした。
頭では分かってないのに、言葉だけが重い。
医師は、最後に釘を刺すように言う。
「感情が強くなるほど、出力が上がる可能性があります。興奮、焦り、恐怖、そして……」
言いかけて、医師は一瞬止まった。
私の顔を見て、たぶん察したんだと思う。
「……好き、など」
診察室の空気が、白いのに甘いピンクになった気がした。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
病院を出ると、空がやけに青い。
さっきまでの白い世界が嘘みたいだ。
でも私の中は、青でも白でもなく、ピンクだった。
(抑えると、なおさら)
(感情が強くなるほど、出力が上がる)
(そして……標的が固定される)
全部が、ひとつの顔に繋がる。
三坂ユウ。
本を読んでいた横顔。
困ったみたいにきょろきょろした目。
「気をつけてね」って言った声。
もし、このままハートが増えて。
もし、強くなって。
もし、当たりどころが悪くて。
「あの人が、ケガしたら……」
思わず、口から声が漏れだす。
言った瞬間、胸がきゅっと鳴りそうになって、私は反射で胸を押さえた。
(抑えると、なおさら、って言われたばっかじゃん……)
泣きたいのに笑いが出そうで、私は変な顔のまま歩き出した。
~恋バレ推理と当たり判定ゼロ男~
昼休みの教室は、朝よりうるさい。
朝はまだ「眠い」が混ざるけど、昼は違う。みんな元気が余ってる。余った元気が、誰かの恋に投げつけられる。
そして今日は、その投げつけ先が私だった。
「ルナ、病院どうだったの!?」
私が席に戻った瞬間、女子たちが半円を作った。
みんなに心配してもらえるのは嬉しいけど、今はちょっと困るかも。
「え、ちょ、なにその顔。まじでヤバい系?」
「ヤバくない、ヤバくない。ちょっと……ちょっとだけヤバい……?」
どうやってごまかせばいいか、それしか考えてなくて語彙力がなくなっていた。
「で? 病名なに?」
本気で心配している顔に囲まれて、正直に言うしかなくなる。
できるだけ明るく、できるだけ軽く。
「突発性ハート射出症候群。通称、ハトビョー……らしいよ」
一瞬、教室が静かになった。
みんなの頭の中で、鳩が一斉に歩き始めた音がした気がする。
「……ハトビョー?」
「かわいくない!?」「いや、かわいいのが逆に怖い」「病名ってそんなノリでつくの?」
ツッコミの波が来る。私は笑って受け流す。受け流さないと死ぬ。
女の子のひとりが、腕を組んで目を細めた。
「ねえ、それってさ」
あっ、この“ねえ”の感じ、やばい。
ラブ推理が始まる合図。
「そのハトビョーって、好きな人いるってことじゃない?」
「ち、ちがうよぉ!」
否定の声が、うっすら裏返った。
だって、医師の声が脳内で再生される。
“一般的には好意の対象に向かって飛びます”。
私は必死で笑顔を作った。
「原因も不明だってお医者さん言ってたし。ほら、未知の病気? こわっ、みたいな?」
言い訳を重ねた、その瞬間。
ぽんっ。
胸の奥が鳴って、ピンク色のハートが一つ、ふわっと生まれた。
(うわっ、出てこないで!)
祈る間もなく、ハートは教室を横切る。
ビューン。
窓際の席。
三坂ユウの側頭部に、コツン。
ユウは本を閉じて、ゆっくり顔を上げた。
困ったように眉を寄せ、きょろきょろしてつぶやく。
「……え? また?」
教室のみんなが「うわ~」って声にならない声を出したのがわかる。
「今の見た?」「ルナの否定と同時に飛んだ」「否定がトリガーになってる?」
私は笑った。笑うしかない。
ギャルはピンチでも笑う。そういう生き物。
「いや、ほら、ね。病気だから。たまたまだから」
たまたま、って言った瞬間。
ぽんっ、ぽんっ。
二つ、三つ。
小ハートが量産されて、同じコースでユウへ向かう。
「これは、ち、ちがうってば!」
「違うって言うほど飛ぶんだけど」
「これ、否定すると増えるタイプの呪いじゃないか?」
教室は完全に実況席になった。
「さあ出ました、ルナの否定! ハートが追加で生成されます!」
「追尾性能えぐいぞ!」
今度はユウの額に、コツン、コツン。
メガネが少しずれて、ユウは直しながら困った顔で笑った。
怒ってないのが、逆に苦しい。
さっき推理を始めた子が、確信の目になっている。
「やっぱりさ。ルナ、誰か好きなんでしょ」
「違……うっ」
言いかけた、そのとき。
教室のドアがバン、と開いた。
「いいなぁ、ルナのハート!」
入ってきたのはお調子者の男子だった。
スポーツバッグを肩にかけ、勢いだけで生きているタイプ。空気を読まない才能がある。
男子はニヤニヤしながら、ハートが飛んでいく進路上に飛び出した。
そして胸を張った。いや、張りすぎだ。
「俺も受けたい! ほら、ここ! ここで受け止める!」
「やめろ! なんかキモいし!」
私が叫ぶより早く、ハートは男子に向かって、その突き出した胸に……ぶつからない。
ピンクの物体は、男子の胸元をすり抜けた。
(え?)
教室の時間が一瞬止まる。
お調子者の男子だけは、キメ顔のままフリーズする。
そして次の瞬間。
ハートは、まっすぐユウの額へ。
コツン。
「……えっ、俺をすり抜けたんだけど?」
ぽかんと呆けた表情がおもしろかったのか、教室が爆発した。
笑いが波みたいに押し寄せて、机が揺れる。
「透明人間かよ!」
「お前、当たり判定ゼロ!」
「眼中にないってことじゃないのか!」
男子は当たらなかったはずの胸を押さえたまま、傷ついた顔を作った。
「え、ちょ、ひどくない? 俺、存在してるよ?」
近くにいた女子がニヤニヤしながら言う。
「存在はしてるけど、ルナのハートには認識されてないんでしょ」
「泣いていい?」
勝手に泣けばいい。
私は、気が気じゃない。
どうしてユウにだけぶつかったのか、みんな理解してしまったんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、ユウが額を押さえながら、小さな声でつぶやいた。
「……僕なんかが、ターゲット?」
その言い方が、妙に胸に刺さってしまって、私は一瞬、息が止まった。
(僕なんか、って言わないで)
でも、言えない。
言ったら終わるから。
私は慌てて、いつもの“ルナ”に戻る。
軽く、雑に、冗談っぽく。
「ちょ、やめてよ! なんか、そういうの! たまたまだから! 病気だから!」
言いながら、内心は足元が抜けそうだった。
(たまたまじゃない。病気のせいってことにしたいだけ)
ギャルが地味男子好きとか、ネタにされるだけ。
笑われて、噂されて、勝手に消費されて終わる。
だから私は、笑う。笑ってごまかす。
ごまかせてないのに。
「ルナ、顔赤いよー?」
「ねえ今、ピンク増えてない?」
飛んでいくハートの後ろで、私は必死に笑った。
たぶん、今日の私は、世界でいちばん、かっこ悪いギャルだった。
~絆創膏が増える午後~
放課後の廊下は、昼休みの教室と別世界だった。
人が引いて、音が引いて、夕方の光だけが残る。窓の外の校庭から、どこか遠くで部活の掛け声が聞こえるくらい。
私は保健室の前で、立ち止まったまま動けなかった。
ドアの横の掲示板に貼られた『けがをしたら先生に言いましょう』が、今日だけやけに刺さる。
(……私が、けがをさせてる)
ドアが開いて、ユウが出てきた。
いつものメガネはそのまま。でも、右の眉の上に小さな絆創膏。頬にも、もう一枚。
そしてメガネのブリッジには、白い医療用テープがちょこんと貼られていた。
(……かわいい)
いや、かわいいって思ってる場合じゃない。
ユウは私を見つけると、ちょっと困った顔で笑った。
「待ってたの?」
「……うん」
声が、思ったより小さくなった。
教室の“ルナ”の声じゃない。私の声だ。
ユウは額の絆創膏を触ってから、軽く肩をすくめた。
「大丈夫。これ、意外と慣れるから」
慣れないでほしい。
私はバッグから、買ったばかりの絆創膏を取り出した。
キャラクターものじゃない。シンプルな肌色。真面目なやつ。
どうしていいか分からなくて、とりあえず真面目になった結果だ。
「これ……ごめん。私の、せいだから」
ユウは「ありがとう」と言いそうな口の形から、言葉を飲み込んだ。
たぶん、私の顔が必死すぎたんだろう。
私は絆創膏の箱を差し出す。
ユウも、手を伸ばす。
指先が、ちょん、と触れた。
その瞬間。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
(あっ、やめて!)
思ったのに、やっぱり間に合わない。
というか、よく考えたら当たり前じゃん?
私が、三坂ユウとふたりっきりで、ドキドキしないわけないじゃんってバカなの、私!?
ぽんっ。
そんな風に自分のバカ加減に逆ギレしてたら、今までより少し大きいハートが、私の胸元から生まれた。
手のひらサイズじゃない。両手で包めそうなサイズ。
見た目はふわふわしてそうなのに、空気を切る速度が速い。
ユウの目が大きくなる。
「え、ちょっ……!」
ハートはまっすぐ飛んで、ユウの胸元に――ゴン。
鈍い音。
そんな音をさせたくせに、ふわっと跳ね返ったハートは宙に消えていった。
ユウは一歩、後ろに下がって、壁に手をついた。メガネがずれて、テープがきらっと光る。
「……っ、今の、ちょっと強かったね」
笑おうとして、笑いきれない顔。
それが、私の胸をさらにきゅっと締めた。
(だから、やめてって……!)
私は思わずユウに近づきかけて、途中で止まった。
近づいたら、また出る。
出たら、また当たる。
手が宙で迷子になる。謝りたいのに触れない。
この状況、最悪すぎる。
「……ごめん」
声が震えた。ギャルの声じゃない。
私は、ユウの目をちゃんと見るのがこわくて、伏し目がちに言う。
「近づかない方がいい。私、やばいよね」
言った瞬間、廊下の空気が冷たく感じた。
“距離を取る”って言葉は、実際に距離を作るんだ。残酷なくらいに。
ユウは、メガネを直した。
テープがずれて、ちょっと斜めになって、それが妙に情けなくて、胸が痛い。
小さく息を吐いて、私を見るユウ。
怒ってない。笑ってもいない。静かな目。
「大丈夫」
その一言が、私を少しだけ救って、少しだけ刺した。
救われると、甘えてしまいそうになる。刺さると、離れたくなる。
そのとき。
ぽんっ。
ハートが、また出た。
今度は小さめ。でも速い。
まるで「大丈夫」に反応してしまったみたいに。
「……っ」
ユウは避けようとして、間に合わない。
ハートはユウの肩のあたりにコツン、と当たった。
ユウは「痛っ」と小さく言って、苦笑した。
「……でも、痛いのは痛いね」
言い方が、責めじゃなくて事実確認みたいで、余計に刺さる。
私は唇を噛んだ。
謝りたいのに、謝ったらまた出そうで。
好きって言えないのに、好きが勝手に飛んでいって。
(これ、私の気持ちが、あの人を殴ってるみたいじゃん)
そんなこと思った瞬間、胸がまたきゅっとした。
私は慌てて胸を押さえた。
ユウがそれを見て、少しだけ眉を下げた。
「……柊さんの方が痛そう」
その言葉に、呼吸が止まりそうになった。
柊さんって名字で呼ぶのは、うちのクラスではユウだけだ。
ほかの人には「名前で呼んでよ」って軽く言えるのに、ついぞ言えないまま。
(やめてよ。優しくしないで)
優しくされると、好きが増える。
増えたら、また当たる。
私の中で、ひとつ結論が固まっていく。
守るために、離れる。
その選択肢だけが、やけに現実的に見えた。
~好き禁止作戦、全滅~
翌日。
私は朝から決めていた。
恋、禁止。
好きも禁止。
ドキドキも禁止。
さらにはユウを視界に入れるのも禁止!
(抑えると、なおさら)
医師の声が頭の中で反響する。
お医者さんの言うことだからか、すごく心に刺さってる。
教室に入ると、もう噂は熟成していた。
昨日の「すり抜け事件」のせいで、クラスのテンションは朝から昼休みみたいになっている。
「ルナ、おはよー! 今日も飛ばすの?」
「飛ばさないよ!」
「否定した! はい、飛ぶー!」
飛ばない。飛ばさない。飛ぶな。
私は席に着いて、ユウを見ないようにした。
見ない。見ない。見ないんだから。
……その時点でもう意識してるんだよね。最悪。
ぽんっ。
机の下で、小さなハートが生まれた気配がして、私は膝をぎゅっと閉じた。
(出るなってば!)
ハートは、机の隙間からぴょこっと顔を出し、ためらいゼロでユウの方へ飛び出した。
「ぃっ……!」
横からぶつけられて、ユウが軽くうめく。
いつものメガネの真ん中には、例の白いテープ。
あれを見るだけで、胸がきゅっとなる。
私は立ち上がった。
(このままじゃ、ダメだ!)
教室に入ってからの三分間で、好き禁止とか無理だと気づいた。
もっと直接的に、守るために動かないと。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
「三坂くん、ちょっと来て」
私の声が真剣すぎて、周りが静かになる。
近くにいた子がニヤニヤして言った。
「なに? 告白?」
「違う!」
そう言った瞬間、ハートがもう一個、生まれた。
(もう、あとにして!)
私はユウの腕を引いて、体育倉庫へ直行した。
そこから持ち出したのは、胸当てっぽい防具。剣道部とかが使う、そんなやつ。
「これ着て」
ユウは防具を持ったまま、困ったように固まっていた。
「えっと、僕がこれ着るの?」
「いいから!」
“いいから”の勢いだけで、ユウの困惑を押し流す。
私はユウの胸元にそれを当てて、ベルトを締めようとした。
顔が近くなって、ちょっと見上げるだけで目が合っちゃうかも。
そう思うと、胸がきゅっとしてしまう。
ぽんっ。
(あ、出ちゃった)
ハートは防具に向かって飛んだ。
当たった。ゴン。
防具とともに、ユウの体も後ろに倒れこんだ。
「ぐぇ……」
「えっ、なんで、防具越しなのに?」
「……防具って“無敵”じゃないんだね」
悲しそうにつぶやくユウ。
よく考えたら、当たり前だった。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
防具が役に立たないなら、次。
私はポケットからサングラスを取り出した。
なぜ持っているのか?
ギャルだから。ギャルのポケットは異次元だから。
サングラスをかける。
視界が一気に暗くなった。夜の教室、新鮮だな。
「よし。見ない。目を合わせない。意識しない」
隣の席の子が言った。
「それ、一番意識してるやつでしょ」
うるさい。
私は顔ごとそらして、ユウに背中を向けた。
絶対に、ユウの方を見ない。
心の中でも見ない。たぶん。
ぽんっ。
(出るな)
ぽんっ。
(増えるな)
ハートが、私の肩越しに飛び出していく。
見えてはないけど、たぶんユウのいるところに。
ハートは迷わない。
曲がる。避ける。追尾する。
まるで「お前が見てなくても、俺は見てる」って言うみたいに。
「見てないのに!?」
私は思わず振り向いて叫んだ。
隣の子が即答する。
「逆に意識してるからじゃん!」
教室が笑いで揺れる。
ユウの方では、コツン、コツンと命中音が続く。
ユウは痛がるというより、困っている。
「今日は、昨日よりも多いなぁ……」
多くなってる。私の焦りが燃料だから。
*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+
最後の手段。
私は机に突っ伏して、目を閉じた。
見ないとかじゃなくて、もう無心。
私は石。私は空。私は無。
恋などない。ハートなどない。世界は無。
「ルナ、どうしたの? 寝た?」
「寝てない。無心してる」
「無心って声に出してやるもんなの?」
うるさい!
私はさらに力を入れて無心をした。
脳内を真っ白にする。
ユウのことを考えない。
ユウのメガネも。ユウのテープも。ユウの声も。
(……気をつけてね)
なんか、心をからっぽにしたからこそ、クリアに声が聞こえてくる。
(思い出しちゃだめ!)
胸が、きゅっと鳴る。
ぽんっ。
目を閉じてても分かる。出た。
ぽんっ、ぽんっ。
増える。
無心をしようとするほど、心が暴れる。
抑えようとするほど、想いが外に出る。
私は机に顔を押しつけたまま、唇を噛んだ。
(もう無理だ……)
そのとき、口が勝手に言った。
「……好き、なんだよ」
声は小さい。
でも静かな教室では、ちゃんと音になってしまうサイズ。
びっくりして起き上がった私は、自分の口を両手で押さえた。
手のひらの中で、熱い息が跳ねる。
心臓が、ばくん、と大きく鳴る。
(今の、誰かに聞こえた?)
ゆっくり周りを見ると、みんなが固まっていた。
数瞬ののち、ざわつきが戻る。
「今、言った?」
「え、言ったよね?」
「ルナが……好きって……」
私は、世界が終わるのを見た。
そして、終わりの合図みたいに、胸の奥がきゅっと鳴った。
ぽんっ。
今日いちばん大きくて、今日いちばんまっすぐなハートが、ユウへ向かって飛んでいった。
~空席と、静かな胸~
次の日の朝。
教室の空気が、妙に普通だった。
昨日まであれだけ騒いでいたのに、今日は「おはよー」の声がちゃんと「おはよー」になっている。
誰も、ピンク色の何かを警戒していない。
誰も、私の胸元を実況しようとしていない。
私は席に座って、机の上に両手を置いた。
指先が落ち着かなくて、ネイルを触りそうになるのをこらえる。
(今日は、ハート出ないかもしれない……)
胸の奥に耳を当てるみたいに、感覚を探る。
きゅっともしない。
ぽんっともならない。
静かすぎて、逆にイヤだな。
チャイムが鳴って、担任が入ってきた。
出席を取り始める。いつも通りの声。いつも通りの流れ。
「……三坂」
その名前が出た瞬間、私は背筋が勝手に伸びた。
自分でも笑えるくらい反射だ。
担任は名簿に目を落としたまま、淡々と言った。
「三坂は、欠席だ」
空席。
窓際の二列目。ユウの席だけが、ぽっかり空いている。
昨日までそこにいたのに。
昨日までそこに、私のハートが当たり続けていたのに。
(……休みなんだ)
胸が、ふっと軽くなる。
ほっとしていいはずだった。
「当たらない」「飛ばない」「痛くない」
全部、いいことのはずなのに。
私の胸の奥は、軽くなった分だけ、スカスカした。
(変なの)
私は自分にツッコミを入れる。
(昨日まで“飛ぶな!”って思ってたのに、今は“飛ばない”のが寂しいって、何それ)
机の角を見つめて、目を逸らす。
目を逸らしたって、空席は消えない。
隣の席の子が、顔を覗き込んできた。
「ルナ、今日静かじゃん。どした?」
「え? いやぁ、別に」
女の子の「別に」は、だいたい別にじゃない。
他の子も寄ってきて、眉を上げる。
「三坂くん休みだってね……ルナ、なんか元気なくない?」
元気がない、って言われたくなかった。
言われた瞬間、自分でも“そうなんだ”って認めるみたいだから。
私は笑おうとした。
いつものみたいに、軽く。雑に。冗談っぽく。
でも口角が上がらなかった。
顔の筋肉が、昨日の「好き」で固まったままみたいに動かない。
「だってさぁ……たぶんだけど、私のせい、だし……」
言い終わる前に、言葉が消えた。
途切れたまま、空気に落ちる。
ユウが欠席するのは、高校に入学してから一度も見たことがなかった。
ひょろっとしてるけど、病弱ってわけじゃないんだよね。
隣の子が、私を元気づけるように言う。
「まあまあ、たまたま休みになっただけかもしれないじゃん?」
「うーん……」
さすがに、私のせいじゃないなんて楽観的には考えられない。
それとも、私は“私のせい”であってほしいと思ってる?
わかんない。でも、そんな風に考える自分に腹も立つ。
「それよりもさ、ハトビョーだっけ? あれ、今日飛んでないね?」
寄ってきた子にそう聞かれて、私は自分の胸元を見下ろした。
……何も出てない。
ピンク色の何かも。コツンの音も。教室の笑いも。
静かだ。
私は小さくうなずいた。
「うん……飛んでない」
その子は私を励ますためか、妙に嬉しそうに言った。
「じゃあ治ったんじゃない?」
違う。
治ってない。
治ってたら、こんなに胸が痛くない。
私は笑ってごまかしながら、ユウの空席を見た。
見ようとしたつもりじゃない。
目が勝手に、そこに行く。
空席の上に差す朝の光が、やけにきれいで、やけに意地悪だった。
(会わなければ、飛ばない)
昨日まで「正解」だったはずの答えが、今日は「罰」みたいに重い。
私は机の下で、指をぎゅっと握った。
爪が手のひらに食い込んで、痛い。
でもその痛さが、変に安心する。
(私、ほんとに……)
口には出せない言葉が、喉の奥で膨らんだ。
出したら、終わる言葉。
でも、終わってほしくないって思ってる自分がいる。
私はまた、空席を見た。
見てしまった。
見ないようにしても、見てしまう。
空席がそこにあるだけで、私の中の“好き”は止まらない。
ただ外に出る場所がなくて、胸の内側で、じわじわと膨らんでいく。
静かすぎる午前が、いちばんうるさかった。
~ムキムキ帰還、受け止め宣言~
ユウが欠席してから、三日が経った。
私の胸は静かなままなのに、心はずっと騒がしかった。
飛ばないハートは、胸の内側でだけ増えていく。
見えないくせに、重い。最悪の荷物。
その次の日の朝、私は浮かない気持ちで通学路を歩いていた。
友達の話には相づちを打っているのに、視線は何度も周りを探してしまう。
「ルナ、今日の帰りどっか寄ってく?」
「んー……帰り、うーん……」
返事が曖昧になった、そのとき。
校門の前に、人影があった。
「……」
空気が一瞬、止まる。
そこにいたのは、ユウだった。
メガネはそのまま。髪もそのまま。表情もそのまま。
なのに、何かが決定的に違う。
胸板。
いや、胸板っていうか、厚み。
シャツのボタンが、今までより“前に”ある。
肩の位置が高い。背中がまっすぐ。
そして腕。腕が……なんか、がっしりしてる。
(え、誰……?)
私の脳が一瞬だけ処理落ちした。
前を歩いていた男子が、声を張った。
「おい三坂! お前、でかくなってね!?」
ユウは小さく頷く。
「……うん。ちょっとだけ」
ちょっとだけ、の規模じゃない。
ちょっとだけで、制服が“威圧感”は持たない。
いっしょに歩いていた友達が目を丸くする。
「三日で? 何があったの。プロテイン?」
男子は勝手に感動している。
「努力って三日で見えるんだな……!」
違う方向に人生学ぶな。
私は、声が出なかった。
出なかったというより、出したら壊れそうだった。
ユウがこちらを見た。
目が合った。
その瞬間。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
(あっ……)
ぽんっ。
久しぶりに、ピンクが生まれる感覚。
懐かしくて、怖くて、泣きそうになる。
小さなハートが、ふわっと私の胸元から浮いた。
そして、迷いなくユウへ向かって飛ぶ。
ビューン。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
校門付近にいたみんなが、条件反射で身構える。
女子は手を口に当て、男子はなぜか自分に飛んでくると思ってるかのように構える。
ハートは、いつも通り追尾する。
一直線に見えて、ほんの少しだけカーブして、ユウの胸元へ。
ゴン。
直撃、鈍い音。
でも、ユウの体は揺れない。びくともしなかった。
受け止めた。
本当に、受け止めたんだ。
胸が動かない。足が動かない。姿勢が崩れない。
みんなが驚いて、同時に息を吸った。
私も同じように、吸ったまま止まっていた。
ユウは胸元を軽くさすっただけで、静かに言った。
「大丈夫」
その一言だけで、私の喉が熱くなった。
(大丈夫じゃないよ)
言えない。言ったらまた飛ぶ。
なのに、ユウは一歩前に出た。
私との間に、自分から立った。
「気にしなくていいよ」
声が、前より少しだけ強い。
でも、相変わらず静かで、優しい。
「僕が大丈夫にするから」
その言葉は、盾みたいだった。
かっこつけた盾じゃない。
誰かを守るための、ちゃんと重い盾。
私の胸が、ぎゅっと締まった。
(なんで、そんなこと言うの)
(なんで、そんな顔するの)
(なんで、そんなに……)
ぽんっ。
今度のハートは、さっきより大きかった。
大きいのに、形がきれいで、つやつやしていて、腹が立つくらい可愛い。
「ルナ、それは危ないんじゃ……!」
誰かの声が聞こえた。
私だって、止められるなら、止めてるよ。
でも私は今、恋を止められるタイプの人間じゃない。
ユウは逃げなかった。
目をそらさなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
その笑い方が、ずるい。
ハートが飛ぶ。
ユウの胸元へ。
ズドン!
また受け止めた。
足が動かない。
近くにいた男子が感極まって叫ぶ。
「受け止めた! 受け止めたぞ! 何それ主人公かよ!」
女子は、うんうんと頷いている。
「主人公だわ……」
私は、笑いたいのに泣きたくて、泣きたいのに笑いたくて、顔がぐちゃぐちゃになった。
ギャルの顔じゃない。余裕なんてない。もうどうでもいい。
ユウが、少しだけ眉を下げる。
「……柊さん、大丈夫?」
やめて。
そんな言い方したら、もっと出る。
私は涙をこぼしそうになりながら、笑ってしまった。
「泣かないし……。ていうか、なにそれ。ムキムキになって戻ってくるとか……ズルくない?」
ユウは、少しだけ視線を逸らした。
照れたみたいに。
「……鍛えたんだ」
短い言葉。
でも、意味が重すぎて、胸がまたきゅっとなる。
(私のために?)
思った瞬間、答え合わせみたいに、胸の奥が鳴った。
でも、それは今までと違う鳴り方だった。
きゅっ、じゃない。
ぎゅう、でもない。
もっと大きい。もっと深い。
体の中心から、何かが開く音。
(……やだっ)
ぽんっ。
出た。
でも、それは“ぽん”じゃなかった。
“どん”に近い。
空気が揺れて、私の中から知らない感情があふれ出した。
~直径100mハート、来襲~
止まらない。
私の中で開いた“何か”は、もうハートってサイズじゃなかった。
恋心のくせに、重量がある。しかも制御不能。最悪。
ぬるり、と視界の端が暗くなる。
「……え?」
嫌な予感がして、私は空を見上げた。
校門の上。
朝の透き通った空に、巨大な影が浮かんでいる。
ピンク色の――ハート。
大きすぎて、最初は脳がバグる。
近い、って錯覚する。
でも違う。近くない。遠い。空のはるか上方から近づいてる。こっちに向かってる。
「なに、あれ……」
誰かの声が、落ちた。
登校中の生徒も、校門前の人も、全員が見上げたまま固まっていた。
さっきまでの「おはよー」が、全部消える。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけだ。
私は声が出なかった。
出なかったけど、口が勝手に動いた。
「やだ……」
喉が震えて、やっと言葉になる。
「やだ……止められない……!」
言った瞬間だった。
巨大なハートが、ぐん、と傾いた。
まるで「止められないなら、行くね」とでも言うみたいに。
恋のくせに、あまりに積極的で怖い。
「逃げて!」
「無理だって!」
「やばっ……!」
ざわめきが、朝の空気に散る。
でもすぐに、音が薄くなる。
想像できないほど危険なものが近づくと、周りの声って、急に“他人事”みたいに聞こえる。
ユウが、私を見る。
その目が焦っている。
でも逃げていない。
逃げないのが、ずるい。ほんとに、かっこいい。
ユウは制服の袖をまくった。
三日で作った腕が、朝日に妙に健康的に光る。
こんな状況で、なんでそんな“頼もしさ”出すの。
ユウは深く息を吸って、構えた。
両足を開いて、地面を踏む。
胸を張る。背中を伸ばす。
「受け止めてみせる……!」
声が少しだけ震えていた。
それでも言っちゃうんだ、この人は。
(無理だよ……!)
言いたい。
でも言えない。言ったら“好き”が増える。増えたらもっと来る。
私は自分の舌を噛みそうになった。
巨大なハートが、校門を覆う。
影がユウの足元に落ちる。
光が、消える。
空気が鳴る。
風が巻く。
ハートが近づくほど、音が“重く”なる。
――当たる。
そう思った、その瞬間。
視界がピンクでいっぱいになった。
~ピンクドームで本音だだ漏れ~
――当たった。
悲鳴が出るより早く、世界が終わる気配がした。
でも。
ドン、という衝撃が来ない。
代わりに、ぶわっ、と空気が膨らむ音がした。
爆発みたいなのに熱くない。怖いのに甘い。
綿菓子みたいな匂いがする。なんかヘンな感じ。
次の瞬間には、空が消えていた。
正確には、空はある。
でも“外”が見えない。
空の代わりに、ピンク色の天井がある。
巨大なハートはユウに当たる寸前で、爆ぜたのだ。
爆ぜて、広がって、薄い膜みたいになって――ここら一帯、たぶん学校全体を包んでいる。
ドーム。
ピンクのドームが、私たちを閉じ込めていた。
「……なに、これ」
自分が発した声が妙に近く聞こえる。
音がこもっている。耳の内側みたいな静けさだ。
私は息を呑んで、ユウを見る。
ユウは立っていた。
倒れてると思ったのに、立ってる。
メガネも無事。胸も無事。ムキムキも無事。
でも、顔は少し青い。
怖かったんだと思う。
怖かったのに、逃げなかった。
その事実だけで胸の奥がきゅっと鳴りそうになって、私は慌てて胸を押さえた。
(抑えると、なおさら)
やめて。今それ思い出さないで。
「え、待って……これ、学校ごと包んでるよね?」
隣の友達が呆然とした顔で言った。
その声が震えているのに、私はなぜか、ちょっとだけ安心する。私だけじゃない。
少し離れたところで、男子が叫ぶ。
「俺たち、今、ピンクの中にいる! なんか恥ずかしい!」
……恥ずかしい、は余計だろ。
でも、たしかに恥ずかしい。だって、これって私が原因なんだよね……?
校門に立っていた先生。
生徒のみんなが慌てているのを見て、ひとつ咳払い、いつもの調子で言った。
「静かに。落ち着いて――」
その次の瞬間。
「――なんだよこれ、青春じゃねえか、甘ずっぺぇな!」
先生は自分で言って、自分で固まった。
「……えっ?」
先生は口を押さえた。
でも、もう遅い。
言っていた。
周りがざわざわする。
「先生、いま、何て……?」
「今のって、先生の本音じゃない……?」
先生の顔が赤くなる。
怒ってるんじゃない。恥ずかしがってる。
その人間っぽさが、ちょっとかわいい。
別のクラスメイトの女子が、小さく言った。
「やば……」
その女子は、続けて言ってしまった。
「……地味眼鏡イケメンマッチョ、萌え」
その子は両手で口を塞いだ。
でも、塞いでも遅い。言ったものは戻らない。
っていうか、いまのってユウのこと?
近くにいた男子が、なぜか胸を張って言う。
「俺だって、脱いだら腹筋割れてて――」
次の瞬間、口が裏切る。
「――は嘘だけど、がんばって筋トレしなきゃ! 俺も君に萌えられたい!」
男子はその場で崩れ落ちた。
萌え女子は顔を赤くする。
「うわああ! なにを言ってるんだ、俺は!」
友達が震える声で言った。
「このドーム……ヤバい。思ってることが、そのまま口から出る」
私は背筋が凍った。
思ってることが、そのまま。
つまり。
(私の“思ってること”は……)
私は口を開けないように、唇をぎゅっと噛んだ。
抑えると、なおさら。
喉の奥で言葉が膨らむ。
内側から押してくる。吐き出せ、って言ってる。
私は必死で笑おうとした。
ごまかそうとした。ギャルの必殺技、“とりあえず笑う”。
「え、なにこれ、ウケ――」
ウケる、と言おうとしたのに、口が勝手に続けた。
「――ウケるわけない。怖い。ユウが死んだらどうしようって、ずっと思ってた」
私は、固まった。
やばい。
言っちゃった。言葉で。
しかも、心の中では名前で呼んでたってバレちゃったかも。
周りが一斉に私を見る。
私は両手で口を塞いだ。
でも遅い。口って、思ってるより裏切り者だ。
「ち、ちが……」
言い訳しようとしたら、さらに出そうで、私は首を振った。
揺れた髪にピンクの光が反射して、場に合いすぎて、余計に腹が立つ。
そのとき、ユウが私を見る。
まっすぐ。静かに。
「柊さん」
名前を呼ばれただけで胸の奥がきゅっと鳴った。
鳴ったら、また言葉が出そうで怖い。
私は目だけで「今はやめて」と訴えた。
でもユウは、少し眉を下げて言った。
「……さっき、怖かった?」
優しすぎる。
優しさは燃料。
私の中で“好き”が勝手に点火する。
喉が勝手に動く。
言葉が勝手に滑り出る。
「違う、べつに――」
言いかけた瞬間、口が裏切った。
「……好き」
短い一言なのに、世界が止まる。
ドームの中の空気も、止まったみたいに静かになる。
先生も、友達も、男子も女子も、全員が固まっている。
「……え」
「今、ルナ……」
「好きって……」
私は口を押さえたまま、目だけで泣きそうになった。
最悪。私の口が私を裏切った。
でも。
ユウは笑わなかった。
煽らなかった。
「やっぱり」って言わなかった。
ユウはただ、少し息を吐いて、静かに言った。
「聞こえた。……ありがとう」
ありがとう、って。
好きって言われて、ありがとうって。
胸の奥が、ぎゅっと痛くなる。
でもその痛みは、ぜんぜん怖いものではなかった。
私は、口を押さえていた手を、ゆっくり下ろした。
もう逃げない。逃げるほど増えるんだ。それなら、言っちゃうほうがお得、でしょ?
「……ねえ」
声が震える。
でも、言う。
「ギャルとか、関係ないって言ってくれる……?」
ユウはまっすぐ私を見て、答えた。
「関係ない」
即答だった。
迷いがない。
その一言で、喉の奥の重たい塊が少しだけ溶けた。
私は息を吸って、ちゃんと、自分の言葉で言った。
「……好き。ずっと」
言った瞬間。
ドームの色が、薄くなった。
ピンクが透明になっていく。
膜が水みたいにほどけて、朝の空が戻ってくる。
冷たい朝の風が入ってきて、甘い匂いが少しずつ消えていく。
音が外へ抜ける。
最後に、ドームがシャボン玉みたいに消えると、みんなが一斉に息を吸った。
「うわ、なんか戻ったぞ!」
さっきの男子が叫ぶ。
「こういうのって、さっきまでの記憶忘れるとかじゃないのかよ!!」
先生が、急に教師に戻った顔で言う。
「……全員、教室へ! もうすぐチャイム鳴るぞ!」
世界が終わりかけたのに、一時間目は来る。
現実は、強いな。いいじゃん。
みんながざわざわと散っていく中、ユウが私のそばに残った。
朝の光の中で、メガネのテープがまだ白く光っている。新しいの買ってないんだ。
私はそれを見て、また胸がきゅっとした。
でも今度は、ハートが飛ばない。飛ばさなくていい。
ユウが少しだけ笑う。
「これからは、飛ばさなくていい」
私は鼻をすすって、笑って返した。
「……言えばいいってこと?」
「うん。言って」
私は腕を組んで、ギャルっぽく言う。
最後くらい、キャラを取り戻したい。
「言ったね? ギャルは毎日言うからね?」
ユウは、ちょっとだけ目を逸らして、耳まで赤くなった。
「……それは、覚悟いるね」
「でしょ」
今度はちゃんと笑えた。
恋は外に飛んでいかなくても、ちゃんと届く。
それを、やっと知ったんだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また機会があれば、お会いできることを楽しみにしております。




