とらわれの身の上
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ルイカは暗い部屋の中で、薄っすらと意識を取り戻した。布を噛まされて、腕と足首はロープで縛られていることに気が付く。埃で白くなったスカートが見える。殴られた腹部が妙に熱く、鈍痛が残っている。
ルイカはゆっくりと顔を上げ、部屋の中を見た。古くなった絨毯が敷かれている。椅子が一つ。大きな本棚にはずらりと分厚い本が並び、簡素な机が一つ。石造りの階段から、かつん、かつんと足音が聞こえて来ると、ルイカは咄嗟に気絶しているふりをして、顔を俯けた。
数秒、数十秒後?
革靴が目の前でしゃがみこんだ。
ルイカは壁からずり落ちたように見せかけて、床に倒れた。
「あっ」
思わず伸びたスーツの腕より早く、ルイカは男の耳辺りに蹴りを入れた。男はよろめいたが、ルイカの片腕を掴んだ。ルイカは背中越しに男に体当たりをした。すると細い体の男は、くぐもった声を出して倒れていく。
ルイカの手の中には、細く光る物。
ルイカは男が完全に動かないのを確認して、溜息を吐いた。超即効性の睡眠薬が塗ってある針を床に捨てると、手首に力を入れてみた。しかしロープは外れない。しかたなくイモムシのように地面を這って、階段を目指した。
歯を食い縛り、焦らないで、と自分に言い聞かせる。
甘い香りがする。眉間に溜まるような匂いだ。
きっと男のコロンか何かだろう。気分が悪い。腹の痛みも手伝って、吐き気を催した。
はっと気が付いて、顔を大きく顰める。
アンバー先生から貰った、後天性コズリス用の試験薬っ。あの薬の効力がきれてしまったのだっ。
ルイカは必死でスカートのポケットを探った。薬が無い。家だ。指輪も無い。針はバレなかったけど、指輪はあの男に抜かれたようだ。
なんてことっ。相手が誰だか分からないのに、ホウキも出せないなんてっ。
ルイカは身をよじりながら、地面を這った。
早く何とかしなければ。あれは毒針ではない。時間がたてば起きて来る。
ルイカは肩を床に擦りつけながら進み、床の黒い染みに気付いた。だいぶ時間がたっているが、インクの染みのようにも、血の跡のようにも見える。埃とカビと、甘ったるい匂い。薄っすらと、何かが腐ったような匂いもした。
匂いが迫って来る。鼻腔が焼ける。気持ち悪い。
早くここから出ないとっ。
体に力を入れた瞬間、ルイカは大きな鼓動を感じて目を見開いた。
「うっっ」
心臓がわし掴みにされたように痛む。口に挟まれた布のせいで、息ができない。胸が小さく締まっていく。
校長の、〝体には気をつけて〟という言葉が脳裏に蘇る。
〝じゃあ、日常生活に支障がおこるほど悪くなってるのか?〟
〝こんな症例、聞いたことないしなぁ・・・〟
ルイカは何度か呻いたあと、最後の力を振り絞って、階段の一段目まで顔をつけた。階段の辺りにも、匂いが残っている。ひんやりとした感触が訪れた瞬間、ルイカはシドとロビンを思い出した。
〝クロトさん、ストーカーがいるみたいだね〟
〝この間クロトさんを訪ねてきたお客。あいつには気をつけた方がいい。強い香の匂いに混じって、悪意とか憎悪とか―何かよくない匂いがした・・・あれは、悪魔に魅入られた者の匂いだ・・・〟
ルイカは誘拐犯が何者であるか気づいた瞬間、気を失った。
***
「・・・遅いっ」
シドはキッチンのテーブルに顔を伏せた。
ロビンはその横で、小雨が降っている中庭を眺めている。
「雨宿りしてるのかな?」
「ああ、朝から降ってるのに傘が減ってないな」
「多分、自分の使ったんだよ。男ものは大きいし、ルイカは黒いカサしか使わない」
「そう言えば、どこからホウキやら杖やらが出てくるんだろう?」
二人は同時に、左手の指輪を見せた。
「普段、ホウキやら杖やらは持ち歩けないからね。指輪の中に異空間を作って、空間を仕切る。そこに収納するんだ」
「それを応用したのが、人間界とアトリムグの国境なんだって」
「へぇぇ・・・その中に・・・」
―約一時間後。
「おおっそぉいっ」
シドは椅子から立ち上がると、玄関のドアを開けて外を見渡し、キッチンに戻る。
「遅すぎるっ。また道に迷ったんだっ。それか誘拐されたっ」
ロビンはオレンジ色の飴を舐めながら聞いた。
「何でさらわれるの」
「可愛いからに決まってるだろっ」
「・・・なるほど」
クロトは苦笑する。
「シド君はルイカのことが好きなんだね」
シドは照れもなく、真剣な顔で言った。
「もちろん。周りに女の子はたくさんいるけど、結婚したいと思うのはルイカだけだ」
クロトは大きく瞬いた。
「仲がいいな、とは思ってたけど・・・二人はそういう仲なの?」
シドは渋い顔をした。
「分からない・・・俺はルイカの何なのか、ルイカが俺のことどう思ってるのか・・・俺はルイカをどういう風に好きなのか―、本当は分からないんだ」
「なのに結婚したいの?」
ロビンが聞いた。
「他の女の子と比べると、それぐらい好き、ってこと・・・でも、ルイカと一緒にいてもあんまりドキドキしないんだ。スリル、って言うかトキメキって言うか・・・他の女の子達にするみたいに、口説き文句が出てこない。むしろ喋りたくないし。―でも、喋るのが嫌、ってわけでもなくて・・・喋らなくてもいいからかな?俺が話してる時に読書とかしてると、ものすごく腹が立つけど・・・」
シドは難しそうな顔をして、ロビンの隣に座り直した。大きな溜息を吐くと、テーブルに額をごつり、とぶつけて呟いた。
「何なんだろう、この矛盾・・・ルイカが目の前にいない時の方が、ルイカのこと考えてるかもしれない・・・」
ロビンは遠くを見つめた。
「ジャーポでは、ブルー・スプリングと言うらしいよ」
***
ルイカは息苦しさを感じて、顔を顰めながら目覚めた。最初に見えたのは木の天井で、次に見えたのは明りの灯された石壁だ。
横を向くと、蝋を垂らした蝋燭が幾つも置かれ、それが自分を中心に円を描いていることが分かった。絨毯が片付けられていて、床には何かの模様が描かれている。階段から移動させられ、部屋の真ん中に寝かされているようだ。体を左右に動かし、その模様が蝋燭の内側に円を描いていることに気がついた。円の中には、いくつかの直線・・・。
「気が付いたか・・・」
下の方から声がして、足音とともに金髪の男が現われた。手には逆さ十字架型のナイフを持っていて、それがロウソクの光に反射した。
「何が目的でミスター・二ローに近づいたのかは知らないが、ろくな理由ではないのだろう・・・魔女は悪魔の手先だ。全て、排除しなくてはならない・・・」
サンズはルイカの横にしゃがみこみ、ゆっくりとナイフを振り上げた。
ルイカは目を見開き、ナイフが自分の心臓を狙っていることに気が付いた。銀色に光るナイフを見て、ルイカは思わず目を瞑った。




