エスコート
顔を覆ったまま動かない彼女は、それから数分動かなかった。
「・・・ねぇ、いつまでそうしているつもり?」
「こんな事態、珍しいのよ」
「だろうね」
「混乱してて、上手く思考回路が働かないの。ここまで何も考えられないなんて生まれて初めてかもしれない。ここまで動揺したのも初めてだし、こんなヘマをやらかしたのも初めてなの。今日は初めてづくしね。お祝いでもしようかしら?」
彼女は早口の棒読みで言った。何だか壊れそうだ。
またも沈黙を始める彼女を見つめ、僕は彼女の膝に気づいた。俗に言う『女の子座り』をしている彼女の足が見えたのだ。鞄に引き摺られた時にできたのか、両膝がすりむけている。
「ケガしてるじゃないか」
「ええ・・・そうね・・・」
僕は画材道具を片付け始めた。大きなリュックを肩に掛けて彼女に近付くと、再びしゃがみこむ。
「僕の名はクロティス・ニロー。とりあえず僕の家に行って、手当てをしよう。お腹空いて来たし、このまま座り続けるのも嫌だ」
僕は手を差し出した。
しかしその手から血が滴るのを見て、彼女は目を見開いた。
僕は咄嗟に手を引いたが、彼女につかまれる。
「ケガを?」
「あ、いや・・・たいしたことは―」
「ごめんなさい。気が付かなかったわ。私のせいね」
「いや。君のせいではないよ」
「いいえ。私の不注意のせいよ」
彼女はコートの内側から、白いレースのハンカチをとりだし、僕の右手に巻いた。高そうな物だったので断ったが、彼女はそれを無視してハンカチを縛り終えた。
「・・・ありがとう」
彼女は首を振る。
「礼を言われる立場ではないわ」
大人びた口調の子だな、と僕は思った。
この年代は皆そうだったろうか。それとも彼女の世界では、これが普通なのだろうか。
僕はケガをしていない左手を、彼女に差し出した。
「行こうか」
「・・・ええ」
彼女は僕の手を自然に受け入れ、エスコート慣れした仕草で立ち上がった。小さい頃から訓練されているような、とても洗練されていて、自然な動きだった。
彼女はホウキを持つと、「エク」と言った。
するとホウキが宙に浮き、彼女の胸の辺りで止まる。
驚いている僕をよそに、彼女はさらに「イリアルーク」と唱え、ホウキの両端まで手を広げて手を叩くと同時に、「ウアミス」と言った。するとホウキは手の中に押し潰され、手を開いた時には無くなっていた。
「すごいなっ。どうやったのっ?」
「ただの魔法よ。行きましょう」
少女は僕をすり抜けて、さっき卵が落ちた場所に歩き出した。
「そっちじゃないよ」
「あら、そう?どっちだったかしら?」
僕と彼女は茂みを抜け、公園のレンガ道を歩いた。
彼女に名前を聞く。
「君、名前は?」
「ルイカ」
「変った名前だね」
「ええ。アトリムグでも言われるわ。伝説の花の名前なの」
「どんな伝説?」
「形も色も不明。存在するかも分からない。ただ、その花を手に入れた者は、世界で一番の幸せが一生続くのですって」
「へぇ。なら、君と結婚する人はそうとうに果報者だね」
照れ笑いでも見れるのかと思って横を見てみると、ルイカは確かに笑っていた。
しかしそれは、失笑とか嫌味とか自嘲とか、そういうものを含んだ複雑そうなものだった。
「そうね。蝶を追い払うのに苦労しているわ」
「甘い蜜を吸うって?上手いこと言うね」
「花粉を集めるミツバチかも。毒針に気をつけなきゃ」
「それなら、君が女王バチになればいい」
「え?」
ルイカは片眉を上げて僕を見ると、ふふ、と苦笑した。
「ええ。そうね。そのつもりよ」
ルイカは目を細めた。
「あなた、意外と面白いひとね」
「そう?」
そう言われたのは、五年ぶりだった。
「ええ。まさか、人間界でもそう言われるとは思わなかったわ」
「うん?」
僕が首を傾げると、ルイカは笑いながらかぶりを振った。
『解放された庭』の門を出て、僕達は石畳の公道へと出る。
「家はどこにあるの?」
僕は門を右に曲がり、そこにある細い道路ごしの、住宅街を指差した。
「すぐそこだよ」
***
クロティスはチョコレート色の扉を開けて、ルイカを我が家へと招いた。二階建ての小さな一軒家だ。玄関に入ってすぐに、ルイカは首を傾げた。
コート掛けと傘立てが玄関横。ソファと小さなテーブルが一つ。木製の椅子が反対側の壁際に一つあって、本が積まれていた。小さな絵が壁に掛かっていて、テレビは部屋の角に。扉が付いた棚が一つ、階段横に置かれている。
どうやらここは『リビング』らしい、とルイカは認識した。
「玄関の側にリビングが?」
「ああ。この家は変った造りなんだよ。逆さまのL字型なんだ」
どうりで外から見た時よりも、間取りが小さく感じられるわけだ。ルイカは卵の入った大きな黒い鞄を下ろし、大事そうにソファの上に置いた。




