秘密部屋
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がらんとした、空き部屋だった。背中側の壁に掛かっているさきほどの絵画は、裏から見るとマジックミラーのように反対側が見えた。しかし元々本棚ばかりの部屋なので、代わり映えしたものが見えるわけではない。近づいて来た者が分かるくらいだ。
部屋は板張りの床で、絨毯は敷かれていない。部屋の真ん中に丸いテーブルが置かれているぐらいで、他の家具は椅子さえもない。
窓は二つあって、半楕円形だ。淡い日の光が、白く埃の張った床を照らしている。部屋の右側には特になにもなく、左側には黒いグランドピアノが置かれている。鍵がかけてあるので、鍵盤に触れたことはない。
ロビンはピアノの方へと歩き、その周りに積んである箱に足をかけた。左側の窓の下には、階段のように木箱が積んである。校長が合言葉を言っているのを偶然見かけ、ルイカがこの部屋を発見した時からあったものだ。
木箱に上る。ロビンは雨風で白くなったガラス窓を外側へと押した。木箱の一番上に足をかけ、窓の外へと出る。
僅かな段差。その先には、コンクリートのような灰色の素材でできた、長方形の空間がある。両方の窓から日光が差しているのに、ここは部屋の左半分ほどしか幅がない。三方が高い壁に覆われ、明きらかに右側の窓に日光は差す筈がない。
きっと別の空間の繋ぎ目なのだろう、とルイカは思っている。
初めて発見した時は驚いたが、ここは図書館裏の渡り廊下の天井なのだ。廊下は壁と中庭の間に通っているので、さきほど通ってきた小部屋が、そこにある筈はない。壁のない部分には石像が建っていて、翼の生えたライオンのうしろ姿が見えた。
ルイカは壁に寄りかかって座り、本を広げる。
ロビンは三匹並んでいるライオン像に近付き、その隙間から下の様子を窺った。そこからは中庭が見え、噴水と渡り廊下の一部が見える。中庭からは死角になり、こちらは見えない。
ロビンは誰もいないのを確認して、ルイカの斜め向かいにしゃがみ込んだ。
ふと頭上を見ると、長方形の青空が見えた。
***
道路を挟んだ斜め向かいのオープンテラスの、大きなパラソルの下にカップルがいた。少年から見て右側はロングヘアの美人系を連れたアゴヒゲ男で、左側は角刈りの彼氏を連れてた、茶髪のメガネ男である。
店の看板プレートを首輪につけている飼いネコが、右側のカップルを凝視した。そちらへと視線を移すと、毛皮のロングコートで歩いて来る女を見つける。
少年は意味深に、スカイブルーの瞳を細めた。
裾下から見え隠れする細い足首が素敵だ。
女は立ち止まると、右側のカップルを睨らんだ。
ネコが毛を逆立て、逃げるように店の奥へと走って行く。
毛皮女は拳を震わせて、カップルの男の前へと回った。何か叫んでいるようだったが、聞きとれない。状況から判断して、恋人に浮気されたんだろうな、と少年は思った。
しかしカップルはその毛皮女を完全に無視し、何かを食べさせ合っていた。地団駄を踏みながら毛皮女は叫び続けているが、二人は顔を見合わせて笑っている・・・気づいていないのだ。彼女の声は、彼らに聞こえていない。
パリンッ、と派手な音がして店から悲鳴が聞こえた。
例のカップルが飲んでいたコップが突然破裂したのだ。それに驚いたアゴヒゲ男は椅子から転げ落ち、頭を打った。ロングヘアの女が必死に男を抱き起こそうとしているのを見て、毛皮女は顔を覆いながら店を離れ、道路を横切ろうとした。
小走りに道路を渡る毛皮女へ、馬車が向って来る。女は悲しみのあまり馬車にも気づかず、進み続ける。誰も気づかない。少年も焦らない。馬車は毛皮女を轢き、優雅に進んで行った。女も自分の体を馬車が通り抜けたことに気づかず、道路を渡りきった。
女は団体の観光客と擦れ違うと、体を半透明にして素通りして行く。何人もの体を通っていくうちに、少年の近くへと来ていた。
ふと、視線が合う。
「泣くと美人が台無しだよ」
「見えてるのね・・・」
少年はポケットからハンカチを取り出し、彼女に差し出した。
「余計なお世話よっ」
毛皮女は石橋に顔を埋め、啜り泣きを始めた。
「今の私は、それに触れることもできないのよ・・・」
「でも、念力でコップを破裂させたじゃない?」
少年は鞄を撫でながら言った。鞄の中身は動かない。
「そんなの、何の意味もない・・・あてつけの自殺なんて、するんじゃなかったわ・・・私がこんなに叫んでるのに、一言も聞こえやしない。私を忘れて恋人と食事なんかしやがって・・・昨日は美術館で仲良く鑑賞・・・私の人生って一体何だったのっ」
少年は慣れた口調で、毛皮女の艶やかな黒髪を見ながら言った。
「あのアゴヒゲ男もバカだね。君みたいな美人をふるなんて」
女はかぶりを振った。ロングヘアが揺れる。
「違う。私のダーリンは、あの男じゃないわ・・・」
少年は首を傾げた。オープンテラスをよくよく見てみると、少年は納得して頷いた。
虹色の旗を掲げている店だった。
「なかなかの美人になったことが、せめてもの救いじゃない?」
「どこがよ。突然性転換して、親友だって紹介されてた男と結婚されたんじゃ、私の面目がないじゃないっ。二年も付き合って、婚約までしてたのにっっ・・・」
毛皮女はまた泣き出した。
少年はかける言葉が見つからず、地面に降りた。これ以上の関与は危険だ。鞄の位置を直しながら、少年は彼女の背中に向って話した。
「あんな男さっさと忘れて、あの世で新しい恋人見つけなよ」
しゃくりあげながら、大きな瞳が金髪の少年へと振り向いた。
「こんな半端なことするぐらいなら、あなたがなりなさいよっ・・・」
ハスキーボイスがそう言うと、少年は瞬き、苦笑した。
「悪いけど、俺には好きな子がいるんだ。それにいくら美人でも、男と付き合うのは趣味じゃない。―ごめんね?」
毛皮女は真っ赤な目を見開いた。長い睫が瞬く。
「どうして分かったの・・・私が・・・」
少年は不敵に笑い、おどけて肩を竦めた。
「俺が魔法使いだから?」
毛皮女は破顔し、ジョークの類だろうかと思った。笑ってやる気分ではない。
少年は意味ありげに、ふふ、と笑った。
「じゃあね」
少年は背中を見せて歩き出すと、途中でブーケの刺さった外灯をノックし、雨でも降ってきたように空中に手をかざした。毛皮女は首を傾げ、空中に向って話しかける美少年の背中を見送り、「変な人」と呟いて姿を消した。
どうやら毛皮女には、妖精が見えなかったようだ。
少年は自分の周りに首を巡らせながら、楽しそうに言った。
「何処から来たんだ?――へぇ、ずいぶん遠出だな。観光?」




