護りの匂い袋
二人で朝食をすませると、ルイカはすぐに立ち上がった。食器を片付けているクロトの背中に向って聞く。
「今日の予定は?」
「特別予定はないよ。気ままに絵を描くだけさ」
「そう。じゃあ留守番をお願いしてもいいかしら。今から例の知り合いの家に行きたいんだけど、卵を持っていけないから」
「いいよ。何をしてればいいの?」
食器洗剤の匂いが、ほのかにしている。小さなシャボン玉がクロトの肩横で弾けた。
「何もしなくていいの。ただ一定の距離を保っていれば。多分この卵はカーバンクルかサラマントイだから、卵の時の環境には強い筈よ。そのまま二階に置いていても大丈夫だと思うわ」
「分かった。帰りは何時頃になる?」
「不確定ね。なるべく夜までには戻るようにするわ」
「夕飯は?」
「いらない。外で食べてくるから」
蛇口を閉め、クロトは手に付いた水を流しで切る。腰に巻いた黒いエプロンで手を拭きながらルイカに振り向くと、微笑した。
「行ってらっしゃい」
キッチンの外ドアに向おうとしていたルイカは、「あ」と声をあげて振り返ると、鍵をテーブルの上に置いた。
「返しておくわ。失くしそうで怖いの・・・それから―」
ルイカはスカートのポケットに手を入れた。クロトの目の前で手を開くと、中から海老茶色の巾着みたいな小袋が出てきた。丸く膨らんでいて、熟れたミニトマトみたいなそれは、中が開かないように同色のリボンで縛ってあった。
ルイカはその小袋を、クロトに手渡した。
「これは?」
「魔除けの匂い袋。普通のポプリじゃないから、そんなに強い香りはしないわ」
クロトは匂い袋をかいでみた。
「確かに」
人間界で売っているポプリ特有の、アロマテラピーみたいな重厚な香りはしない。もっと爽やかな植物系の香りだが、柑橘類でもハーブ系でもない。香ばしいような気もするし、僅かな甘味もあった。
「何だか・・・紅茶の葉?みたいな香りだ」
「正解。アトリムグにしか生息しない、魔除けの木なの。乾燥させたものを焚いたり、煎じて飲んだりする薬の一種よ。葉っぱとか幹は美味しくないけど・・・花はまぁ、飲めなくもないわ」
「これはどの香り?」
「全部よ。私が特別に調合したの。昨日眠れなかったから・・・気に入った?」
「ああ。いい香りだ」
「よかった。差し上げるわ。外に出る時は身につけて。普段はあまり香りがしないから、気にしなくても大丈夫よ。魔が付いているものしか反応しないわ」
「ありがとう」
***
ルイカの影が空から消えると、クロトは青空を見上げるのをやめた。
さて、何をしようか、と、溜息を吐く。
ドアを閉めると同時に、二階の部屋からゴトン、と大きい音がした。
階段を上がると、例の黒い鞄が床に落ちていた。どうやら長椅子から落ちたらしく、小さく揺れている。クロトは恐る恐る鞄を抱き上げ、長椅子に戻した。しゃがんで鞄を突ついてみる。
「お前は落ちるのが好きだな。そのうち割れるぞ?」
鞄は何の反応も示さない。
クロトは虚ろな目で呟いた。
「それとも、それを望んでいるのか・・・?」
クロトは人差し指で卵を押さえ、離した。
「幸か不幸か、僕が義理の親らしいね・・・恋人もいないのに」
離した反動なのか、卵が僅かに揺れていた。
玄関の方から、トントン、とドアを叩く音がした。
ルイカかな、と思ったが、それならキッチンから出入りする筈だ。
どうやら客のようで、ノック音ですぐに誰だか分かった。
「そう言えば、月末週か・・・」
クロトが階段を降りてゆくと、そのうしろで鞄が揺れた。明きらかに乱動している鞄に気づかず、クロトは忙しくノック音が聞こえる玄関へと向った。
チョコレート色のドアが開くと、死角から白い顔が出てきた。右の額から左の輪郭にかけて、金色の髪が斜めにかかっている。そのために彼の水色の瞳は、右側しか見えなかった。眉が殆どない。
「ハイ、ミスター」
「どうも。サンズさん」
スーツを着ているサンズという男は、黒い革の手袋をした片手を上げて挨拶した。クロティスは体を移動させ、家に招き入れる。サンズが玄関を跨ぐと、タンポポみたいなうしろ髪が日に透けた。
「お茶はいかがです?」
「あ、いや。あなたの様子を御伺いに来ただけですから。それで、どうです?描けるようになりましたか」
「いえ・・・それが、その・・・」
期待一杯のサンズの顔が、いっきに落胆へと変わる。
「そうですか・・・」
「ああ、でも・・・また描こうかな、なんて・・・考えてもいるんです」
「本当ですかっ」
サンズの顔はまたも浮き上がる。
「それは良かったっ。ずっと待ち続けたかいがあったっ。それで、いつ頃っ?」
「あ、あの、いえ・・・まだ、そういう具体的なことは何一つ言えません・・・本当に、そういう気になっただけで、デッサンすら始めてはいませんから・・・」
「そうですか。そうですか。しかし、あなたがまたやる気になって下さって良かったっ。それにしても、何故急に?」
クロトは困惑した。
挙動不審に喋るのがサンズの癖で、彼は少しばかり神経質で潔癖症、ノイローゼ気味の雰囲気がある。
「いえ、特に理由は・・・」
「そうですか。でも良かったっ。これでご主人様もお喜びになられるでしょうっ。私の面目も立ちますっ。今日は代わりの物を買って行きます」
「はぁ・・・そうですか・・・なら少しお待ちいただけますか。目ぼしい物を取ってきますので・・・」
クロトは玄関側の階段から二階へ上がり、自室に入った。
保管室に鍵を差し込む途中で、手を止める。深い溜息を吐くと、額をドアにごつんと当てた。ドアノブを回したくなかった。目を瞑る。
「苦手だなぁ・・・あのひと・・・」




