パン屋『アマンダ』
翌日。
クロトは自分の右手を観察しながら、キッチンへと入った。早朝で、空はまだ薄暗い。
昨日のことは夢じゃなかったんだな、とクロトは思った。
ルイカは壁に掛かっている『砂漠の絵』の前に立っていて、それを見つめていた。
「もしかして、眠れなかった?」
ルイカは振り向いて微笑した。
「クロトさんは早いのね?いつもそう?」
「今日は少し早めかな。パンを買いに行こうと思って」
「パン?こんな時間に?」
「パンがきれてるの忘れてたんだ。昨日は夕飯抜いたからお腹すいただろう?今買って来るから、ミルクか何か―」
「一緒に行くわ」
「一緒に?」
「そう。だって・・・」
ルイカが言いよどむと、クロトははたと思い出した。卵は一定の距離から、契約者と離れられない。
クロトは微笑した。
「そっか。準備しておいで」
柔らかいクロトの声に、ルイカは安心したように頷いた。
財布を持って上着を羽織ったクロトの前に、フリルの付いた膝下丈のスカートで現われたルイカは、卵の入った黒い鞄をかけていた。上着はタイトな黒で、中に白いブラウスを着ている。ベルベットリボンが襟で結ばれていた。
「その服は・・・どこから?」
かつての恋人のものではなかったし、昨日のルイカは、替えの衣類を持っているようには見えなかった。
ルイカは微笑む。
「秘密よ」
そう言われてはしかたがない。クロトは苦笑し、頷いた。
「行こうか」
二人は灰色の石畳道をまっすぐ進み、やがて角を右に曲がった。そこは坂道になっていて、上がりきると大きな道に繋がっている。坂の始まりにパン屋、『アマンダ』。
「やぁ。アマンダ」
手動のドアを開けながらクロトが挨拶。振り向いたのは髪を二つ団子にしている中年の女で、ほどよく焼いたパンに、蜂蜜をかけたみたいな髪の色をしていた。
「ああ。クロティスさん。おはよう。いつものかい?」
頷きかけて、クロトはルイカへと振り向く。
「僕はいつもクロワッサンを頼むけど、君の好みは?」
「私もそれでいいわ」
アマンダはルイカに目をやる。
「この子は?」
その間にも、紙袋にパンを詰めている。彼女はからかい口調で言った。
「まさか隠し子、ってわけじゃないだろうね?」
「えっ?いや、違いますよっ」
困惑しているクロトの横で、ルイカはにっこりと笑った。
「母方の姪です。今遊びに来てるの」
「へぇ。おいくつだい?お嬢ちゃん」
クロトはしまった、と思った。実年齢と見た目がこれほど違えば、まぁ誤解はされるだろうが、アマンダの口調は十三歳に喋るにしても、甘やかした声だった。ルイカが顔を顰めるものだと思っていたクロトは、笑顔を崩さない少女の顔を見た。
「十二才、ですっ」
「おや。そうかい。家族で遊びに来てるのかい?」
「いいえ。私だけ。ママが『お前だけだよ』って」
「おや、まぁ・・・?」
少し不審がったアマンダの顔色に、クロトは内心焦る。
しかしルイカはにこやかに頷く。
「都会がダメなんですって。悪い空気の場所にいすぎたから、療養が必要なのですって。ママは病院だし、パパは死んじゃったから一緒じゃないの。少し寂しいけど、我慢しなくちゃ・・・」
ルイカは寂しそうに目を伏せた。寝不足の目は泣きはらした目にそっくりで、青白い顔は病的な印象が強かった。アマンダが心苦しそうな顔をしたのを見計らって、ルイカは子供のように微笑んだ。
「でも、おじさんが―あっ。おじさんはダメだったね。クロトさんが居てくれるから、あんまり寂しくないのっ」
「へぇ、そうなのかい」
アマンダは微笑んだ。
「うんっ」
ルイカは大きく頷いたあと、無邪気にクロトの上着を引っ張った。クロトを上目遣いで見て、幼い口調で質問した。
「ねぇ、そう言えば、『療養』ってなぁに?」
チェック・メイト。
いつもより多くサービスしてもらった袋が、大きく膨れている。角を曲がってパン屋が見えなくなってから、クロトは隣を歩いている少女に言った。
「魔女やめて、女優になったら?」
ルイカはクロトを見上げる。
「そうね。考えておくわ」
彼女は口元を上げた。




