第9話「葛藤」
倉庫を出たとき、夜風が異様に冷たく感じた。
さっきまでの血の温もりが、まだ右手の指先にこびりついている。
「初めてにしては悪くなかったじゃん」
仁美は鼻歌混じりで歩き、手についた血をハンカチで拭っていた。
大樹はただ後をついていく。言葉が出ない。
──父親を、あのように。
脳裏に浮かんだのは、刺された男の瞳。
恐怖と痛みと、理解できない何かが入り混じった色。
「どう?スッキリしたでしょ?」
仁美が笑いながら振り返る。
その笑顔は、鮮やかな花のようでありながら、芯まで毒が回っている。
「……別に、スッキリなんか……」
言葉が途切れる。喉が乾ききっている。
「嘘。人間ってね、誰かを殺すと、少なくともその瞬間は生きてるって感じるもんよ」
仁美は軽く肩をすくめる。
「まあ、あんたの場合は“お父さんを殺す”ための練習だったんだから、悪いことじゃないでしょ?」
大樹は思わず立ち止まった。
練習。
人の命を奪う行為を、そんな言葉で括ることができるのか。
父を殺したい──確かに、そう思っていた。
でも、あの恐怖の目を、父が向ける姿を想像すると、胸の奥がざらつく。
「……俺、本当にできるのか……」
独り言のように漏らした声を、仁美は聞き取った。
「できるわよ。だって、もう一人殺したじゃない」
仁美は何の感慨もなくそう言い切る。
その声音に、わずかな優しささえ滲んでいるのが余計に恐ろしかった。
大樹は何も答えず、夜の闇を見つめ続けた。
倉庫の奥で絶命した男の温もりと、父の顔が、重なりそうで重ならなかった。




