第3話「監視の夜」
仁美の指示は簡単だった。
「この男を監視して、夜十時に報告すること」
手渡されたのは、ぼやけた証明写真と安っぽい望遠レンズ付きのカメラ。ターゲットは中年のサラリーマン風だが、裏で違法賭博の元締めをしているらしい。
夕方五時、繁華街の喫茶店。
ターゲットは新聞を広げ、ゆったりとコーヒーを飲んでいる。
大樹は店の向かい側、古びたゲームセンターの影に立ち、レンズを覗いた。
……退屈だ。
覚悟とか緊張とか、そういうものを想像していたが、実際はただの張り込みだ。
しかも立ちっぱなしで足が痛い。
「これのどこが弟子の仕事なんだよ……」
小声でぼやくと、耳元に声が落ちてきた。
「張り込みは殺しより大事よ」
振り向けば、仁美がアイスコーヒー片手に立っていた。
さっきまで別の仕事に行っていたはずなのに、いつの間に近づいたのかまったく気配がなかった。
「仕事帰りに寄ったコンビニ感覚で現れるなよ」
「何言ってるの。見習いの様子を見に来ただけ」
仁美はそう言って、望遠レンズを奪い取り、数秒覗き込む。
「……あ、こいつ、もうすぐ出るわね。歩き方が早くなってる」
その言葉どおり、ターゲットは会計を済ませ、足早に店を出た。
仁美が軽く顎で合図し、大樹は距離をとって尾行を始める。
雑踏の中を、一定の間隔で歩く。
人混みで見失いそうになるたび、仁美の声が背後から飛んできた。
「右の女の人を抜かして。そう、自然に」
「いや、自然って何だよ……」
「不自然じゃなければ自然よ」
半ば訳のわからない基準で、二人はターゲットを追い続けた。
やがてターゲットは古いビルに入っていく。
看板は消え、窓も真っ暗だ。
「ここで今日は終わり」
仁美はメモを取り、満足そうに頷く。
「……何で入らないんですか」
「中に入ると殺す羽目になるから」
「そんな感覚で言うなよ」
駅までの帰り道、仁美は淡々と仕事の説明を続ける。
「監視は情報を集める仕事。殺す理由やタイミングを決めるには、それが一番大事」
「……俺はまだ、理由なんて見つけられそうにない」
「そのうち理由なんて、どうでもよくなるわ」
軽く言われた言葉が、大樹の胸に重く沈んだ。
その夜、家に戻っても、暗いビルの入口に消えていったターゲットの背中が、頭から離れなかった。