第1話「血の路地裏」
雨上がりの夜は、街灯がアスファルトに沈むように揺れて見える。
市村大樹は、ただ家に帰りたくなかった。帰っても父親の怒鳴り声と、母の泣き声が待っているだけだ。
だから繁華街の裏手、ゴミと錆の匂いが充満した路地に迷い込んだのは、偶然というより必然だったのかもしれない。
足音。
大樹は反射的に壁際に寄る。
その瞬間、奥の薄暗がりで、女が男の首を細いワイヤーで締め上げていた。
ゴリ、と鈍い音。
男の体が痙攣し、次の瞬間には地面に崩れ落ちる。
女は表情ひとつ変えず、手早く男のポケットから財布とスマホを抜き取り、別の袋に詰め込んだ。
大樹は呼吸を忘れた。
その間に、女の視線がこちらに向く。
「……見た?」
声は驚くほど平板だった。
大樹は硬直したまま頷いてしまう。
「じゃあ、殺すわ」
あまりにも自然に言われて、大樹は一拍遅れて意味を理解した。
殺す――自分を。
言葉が鼓膜から脳に届くまでのわずかな間に、心臓が耳元で暴れだす。
手足の感覚が遠のき、背中を伝う冷たい汗がシャツを貼りつかせる。
女が一歩、こちらに近づいた。
足音はやけに軽く、コンクリートに落ちる雫の音と区別がつかない。
その足元には、さっきまで生きていたはずの男が横たわり、口からわずかに血泡を漏らしている。
逃げるべきだ――そう思っても、体は壁に貼りついたまま動かない。
頭の奥で、鈍い声が囁く。
このまま殺されるくらいなら……
喉が勝手に震え、言葉が溢れ出た。
「ま、待って! 俺……俺も人を殺したいんだ!」
女の眉がわずかに動く。
殺気がほんの少しだけ引いた。
「誰を?」
「……親父」
「理由は?」
「生きてると、面倒だから」
女はじっと大樹を見つめ、やがて息をついた。
「くだらない。でも――そういうくだらなさの方が、案外本気だったりするのよね」
そう言って、女は男の死体を足で軽く押し、袋の位置を直した。
「名前は?」
「……市村、大樹」
「私は二瓶仁美。職業は――まあ、見ての通りよ」
「職業って、殺し屋を名乗る人初めて見たんですけど」
「営業トークよ。信じてもらわなきゃ始まらないでしょ?」
その口調の軽さに、背筋の冷えが逆に際立つ。
仁美は血の付いた手袋を脱ぎ、ポケットにしまい込んだ。
「あなた、明日から私についてきなさい」
「……弟子入りってこと?」
「そう。弟子。最初は雑用から。掃除、下見、尾行。殺すのは最後」
「部活の新入部員かよ……」
仁美は首を傾げ、わずかに笑った。
その笑みは、温かさよりも獲物を見つけた猫のような光を帯びていた。
「じゃあ、決まりね。死にたくないなら、殺す側になりなさい」
雨上がりの路地に、湿った風が吹き抜けた。
その匂いの奥に、まだ生ぬるい血の香りが漂っていた。