第1話-プロローグ
「ヒロくん、家に帰ろう」
こうして冬花宏輝と冬花春凪……俺たち二人の校外での初めての会話がなった。
冬花春凪の存在を知ったのは高校一年の時だった。
整った美しい容姿、天真爛漫な性格、そしてキュートボイスに恵まれた、現在大人気のアイドルの一人である。
一期一会とも言うべき出来事で、俺は彼女と同じ高校、同じ学年、同じクラスになった。同じ珍しい名字を持つ俺たちの出会いは『運命』とも言えるものだ。
しかし、俺にとってこれは不幸な災難でしかなかった……
平凡な人生を歩む者にとって、彼女は俺の人生を狂わせる存在でしかなかった。
自分が何の取り柄もない平凡な高校生であることは自覚している。確かに俺は名門校に入学ことができた……そのおかげで、彼女のような超人気アイドルとこんな風に出会うことができた。
でも、特に自慢するようなことでもなかった。
俺は普通の学生らしく受験勉強に必死に励み、入学できるレベルの成績を取ることができた。そして、幸か不幸か……高校に合格したのだ。
俺がこの学園、『花咲学園』を選んだ理由は、今俺の面倒を見てくれている人の勧めがあったからだ。この学園の卒業生であるあの人は、俺がより良い教育を受け、素敵な青春を送れるようにと、ここに行くことを勧めてくれた。
正直言って、この学園は知性という点で、俺のレベルにはほど遠かった。特に素敵な青春を送りたかったわけではなかったから、たとえ学園が少し近かったとしても、進学する高校を選ぶ際にはまったく考慮しなかった。
でも……お世話になっている人の期待を裏切りたくなかったから、努力はした。それでも合格できなかったら、それはそれでいい。
正直、それを望んでいた部分もあった。
合格者の掲示板に自分の番号がなかったときは、落胆と安堵、そして情けなさを感じた。さまざまな感情が入り混じっていたが、俺の頭の中は、あの人の悲しそうな表情や落胆した表情を見る想像でいっぱいだった。
その日、俺は重い足取りで家に帰った。
家に着き、あの人に結果を伝えようとしたとき、一通のメールが届いた。学園側からで、合格者待ちリストに入っているとのことだった。それを知ったあの人は、俺が合格したことを祝福してくれた。
あの人曰く、毎年合格しても辞退したり、辞退されたりする人が何人かいるそうだ。もし俺に通知が来たのなら、それは学園側からの「準備するように」というメッセージだと。
その日、あの人が言ったことに疑問があったが、それを聞かないことにした。それが正しい選択だと感じたからだ。それに、あの人がお祝いの仕方などを話していたから、俺は一言も話すことができなかった。
あの人をがっかりさせなくてすんだから、俺は十分満足した。あとは学園を卒業するために努力するだけ……合格しても、バラ色の学生生活を送るとか、そんな期待はしていなかった。
しかし……冬花春凪の存在により、高校デビューは予想もしなかった方向へ進んだ。
同じ珍しい苗字ということで、学園から嫌というほど注目された。俺と彼女の関係は何なのとか、俺たち二人は結婚しているのとか、俺たち二人は義理の兄妹なのとか、知らない人からたくさん声をかけられた。
めったにない偶然に、生徒たちは真相を気にすることなく、ただただ話題にしていた。ほとんどの学生は、ただ楽しみたいだけなのだ。本当に興味があるのは、ごくわずか。
彼らがこんな下らないことにちょっかいかけてくる理由のいくつかは、苛立ちや嫉妬、あるいは単に俺が冬花春凪と何らかのつながりを持つことへの恨みによるものだと言える。
こうやって、多くの人の視線を浴びながら、平穏とは言い難いスタートから俺の高校生活が始まった。
すると突然、冬花春凪が俺に近づいてきた。
「ごめんね、冬花くん。何とかするから、心配しないで」
――と言って、すぐに行動に移した。
聞けば彼女は声をかけてきた人全員に、俺たちふたりは何の関係もないと説明したらしい。俺が他の人に言うのと、彼女が言うのとでは大違いだった。
俺たちの会話からわずか1週間で、そのことについて俺に話しかけてくる人はほとんどいなくなった。俺はそれに満足し、ほっとした。
同時に、抵抗しているにもかかわらず、本当にバカにされているのだという苛立たさも感じた。
その後、彼女はもう一度俺に話しかけてきた。俺にちょっかいしようとする人がもういないことを知って、彼女はほっとした。
彼女の努力の賜物だとお礼を言ったが、彼女は「もうみんな十分楽しんだから、、飽きちゃっただけだよきっと」とだけ言った。そうかもしれないけど、彼女の行動力が事態を早く収束させる決定打になったことは間違いない。
相手が本当に本心から言ったかどうかは、相手の声のかけ方、そしてかけた後の行動でわかるもの。それで俺は彼女が本当にいい子であることを知った……
しかし、だからといって恋に落ちたりはしない。むしろ、好きか嫌いかでいえば、後者を選ぶ。
だから俺は、冬花春凪とはなるべく関わらないことにした。
それなのに――――
今日の授業が終わると早々に教室を出て行った。注目されるようなクラスにはなるべくいたくなかったのだ。
まっすぐ家に帰ろうと思ったがまずは近くのコンビニに立ち寄ることにした。食べ物や飲み物のストックを補充するためだ。
レジに並んでいると、店の外によろよろとした足取りの見慣れた人がいることに気がついた。
(ん? あれって……まさか……)
目を凝らしてみると、やはり冬花春凪であることが分かった。どうやら今日は知り合いに車で迎えに来てもらったわけではなさそう。友達とも一緒ではなく、ただ一人だった。
(なんだ……なんか、ぼんやりしているような……)
気になったが、声をかけようとは思わなかった。だがしかし、そのことが頭にこびりついていた。
買い物を済ませ、まっすぐ家に帰ろうとコンビニを出たが……
「彼女、大丈夫かな……気が抜けているように見えたが……」
それが気になって心配になった。
「あぁ、くそ。様子を見てこよう……家にいるときに、こんなことが頭をよぎるのは嫌だ」
それに、翌日までに彼女の身に何かあったら、罪悪感に苛まれそうだ。
彼女の後を追った。通ったであろう場所に向かって歩いて行くとあっという間に彼女の背中が見えた。
一見、彼女には何の問題もないように見える。しかし、よく見ると歩くペースがやや遅い。それだけでなく、先ほどと違って遅かれ早かれ倒れそうな気配がわずかにある。
心配が的中したことにため息をつきながらすぐさま彼女に駆け寄った。
「あっ……」
それから数秒もしないうちに、彼女はふらつく足取りでつまずき、倒れそうだった。
「っ! よっと……」
幸いなことに、つまずく前に俺はすでに走っていたから、倒れる前に受け止めて彼女を支えることができた。
「……冬花さん、何をやっているんですか?」
「冬花くん……」
いきなり誰かに抱きつかれて春凪は体をこわばらせた。しかし、俺の方を向いて俺を認識すると体の力が抜けて俺の方に体を預けるようになった。
「あはは、ごめん……つまずいちゃってね……受け止めてくれてありがとう冬花くん」
「……」
彼女はいつものように笑顔を見せた。しかし、明らかに汗をかき、無理をしている彼女に、俺は少し苛立ちを感じた。
(しかも、この体温……)
どうにか立ち上がった後、彼女は俺が掴んだ手を離さないことに気づき、再び俺の方に振り返った。
「…………冬花くん?」
「質問にまだ答えてない」
「えっ……?」
「冬花さん……何をやっているんですか?」
こうして間近で見てみると、彼女が一人で歩けるような状態ではないことがわかる。そして、彼女は自分が病気であることに気づいていないわけがない。
だとすれば、まずは少しでも休むか、誰かに助けを求めるべきだった。
さっきまで学園にいたのだから、学園の保健室で休むこともできたはずだ。そこで保健室の先生の助けを借りることもできたはず。それか、友人やマネージャーに助けを求めるという選択肢もあったはず。
いくらでも合理的な方法はあったはずなのに、彼女はそのどれをも選ばず、こうして帰宅するリスクを負うことにしたんだ。
(一体なぜ……?)
おせっかいかもしれないが、この件に関わると決めた以上、真剣に取り組むつもりだ。
「……」
「はぁぁ……もういい。なんでいきなりバカなことやっているのかわからないけど、このまま置いていくわけにもいかないから、病院に行こう。タクシー呼ぶから ちょっとだけまって――」
「ダメ! 病院には行かない!」
アプリでタクシーを呼ぼうとしたら、彼女に止められた。
「……いかない?」
「病院行ったら……お母さんに……病気だってばれる……」
「いや、知られずにどうやって休むんだ? 休むためにも――」
「病気だと知られたくない!」
具合が悪くても彼女は大きな声で叫び、自分の意思をはっきりと伝えた。
「……」
「病気になったことをみんなに知られたくない……余計な心配をかけたくないの……これくらい……大丈夫だから」
彼女の理由を何となく理解しつつも、やはり納得がいかなかった。何しろ、こんな病気のときに何ができると言うのだ。すぐに効く薬なんて存在しないぞ。
(このままでは確実に悪化する……)
今日はどうにか一日をやり遂げたとしても、遅かれ早かれ倒れるに違いない ……
(でも、部外者である俺がやすやすと反論することはできない……)
「……ありがとう冬花くん。もう、大丈夫だから。誰にも言わないでね」
数分間支えていたら、もう良くなったようだ。ちゃんと立てるようになったし、顔色もよくなった。
彼女のようなプロは、自分の体調管理も心得ているはず。彼女はもう大丈夫だと言っているし、俺の反対も拒否した。俺のお節介はここまで。
――手を引くべきだった。
彼女は歩こうとしたが……
「冬花くん……?」
「お前の家か、俺の家……選べ」
ただし、俺はそうはしなかった。
彼女の腕を軽くつかみ、それ以上歩くのをやめさせた。
(やっぱり、このままほっておくわけにはいかない)
結局のところ、彼女は健康管理を怠ったからこうなったのだ。こんなんで、彼女をほっておいて安心するか。
「えっ?」
「このまま一人にしておけない。そんなことしたら、今夜ぐっすりと眠れなくなる。だから、お前の家か俺の家、どっちに休む? 病院に行きたくないなら俺が看病してやる」
「え? えっ? 一体なにを……」
彼女は困惑した表情で見つめ、俺が今言ったことについて考え、同時に判断しようとしているようだった。
こんな状態で人を家に入れるか、人の家に入るか、どちらかを決めなければならないなんて、そんなの簡単に答えられない。しかも、同い年の男性に看病させるとは、思いもよらないことだ。
でも一番重要なのは、以前話したことはあっても、まだ実質的には他人だということだ。彼女の戸惑いやためらいは理解できる。
それでも、引き下がるつもりはなかった。
「……一人にしてたら絶対にちゃんと休まないだろう? それに、自分で看病するの無理だ。体調を悪くするだけだ。 早く治したいなら 早く決めろ」
「それは……いや、でも――」
その時……
「君たち、そこで何をしているんだ?」
パトロール中と思われる警官が俺たち二人を見て、声をかけてきた。
「君、何をする気だ? そんなふうに彼女をつかんで……何をするつもりだい?」
「あっ。いや、これは……誤解です!」
どうやら警官は、冬花春凪を止めようとしている俺を不審に思ったようだ。怪訝そうな視線を送ってから、彼女の様子を伺った。
「ん……? 君……様子が悪いようだが……まさか、彼に何かされたのか?」
「いやいやいやいや! 誤解です! 話を聞いてください!」
「君に尋ねているんじゃない! やはり怪しい……君、一緒に交番同行させてもらうか!」
「いやいやいやいや! 本当に誤解なんですから! 信じてください!」
「言い訳はもういい! 言い訳は交番に着いてから聞く――」
「……お巡りさん、かれ……ヒロくんのいう通りです。誤解です」
「……え?」
「……ん?」
警官に引きずられそうになったが、冬花春凪が話し始めると二人とも立ち止まった。俺はファーストネームで呼ばれたことに驚いていた。
「ヒロくん……彼は私の弟です。見ての通り、ちょっと具合が悪いので、家に帰るのを手伝ってくれようとしただけです」
( ……え? なぜに弟?)
他のことを気にするべきだと思ったが、突然出てきた設定に言い返さずにはいられなかった。
「弟……?」
「はい。同じ冬花なんですけど、学生証で確認しますか?」
「……本当なのか?」
「えっ ? あ、はい……苗字は冬花です……」
警官はまだ疑っているようだったが、学生証を取って見せると、俺たちの苗字を確認して納得したようだった。
「こっちの方が速い……」
彼女は近づきながら俺にささやいた。
「……うーん、そうだったのか。帰るのに困っているなら、ここでタクシーを呼ぼうか?」
「あ、いいぇ……その、アパートが……いや、俺たちの家がすぐ近くなので……」
「そういうわけですからご安心ください。お騒がせして申し訳ありませんでした」
「そうか? 今度からは、こんな紛らわしいことをしないように」
彼女は、冷静に、あっけなく状況を解決した。
「はい。ありがとうございました。それでは……」
そしてその後、彼女は俺と腕を組んで、俺を軽く引っ張った後、こう囁いた――
(わかった。少しだけ冬花くんの家で休ませて)
彼女はいつものように微笑み、想像もしていなかった台詞を言った。
「ヒロくん、家に帰ろう」