帰れぬ夏
夏の記憶って、不思議と曖昧で、それでいて鮮明に焼き付いているものがありますよね。
今回は、祖母の家を舞台に書きました。
もう夏は終わりを迎えましたがあの頃を思い出してください。
それではどうぞ。
夏休みになり、帰省をすることになった。
祖母の家は蝉の声に包まれていた。
畳の匂いが染みついた廊下を歩き、縁側から庭へ出る。
そこに広がっていたのは、見慣れたはずの庭ではなかった。
砂利も植木鉢も、物干し竿も消えて、足元から一面の草原が続いている。背の低い草が風に揺れて、地平線の彼方まで、ただ緑。
遠くの空には、巨大な入道雲が立ち上がっていた。白は濃く、影は蒼く、輪郭だけが妙にくっきりしている。まるで誰かがそこに絵の具を塗り込んだように。
振り返ると、古びた家がぽつんと立っていた。祖母の家に違いない。障子の隙間から風が通り、簾がかすかに揺れる。
けれど、音はしない。蝉も、風鈴も、テレビのざらついた音も。
家の中にいるはずの祖母の気配が、どこにもなかった。
「……あれ?」
声を出しても、返事はなかった。自分の声が空気に溶けていく。
不思議と怖くはない。ただ、ひどく心細い。
空を見上げる。あの入道雲は、じっとこちらを見下ろしている気がする。
もう一度、家の中へ戻ろうとした。
だが、縁側の敷居に足をかけた瞬間、ふと気づく。
玄関も台所も廊下も、すべての窓や戸口は開いているのにどこからも人の気配がしない。
家は確かにあるのに、住む人間が抜け落ちてしまったような空虚。
そのとき、背後で風がざわめいた。
振り向けば、草原が果てしなく揺れ、入道雲がさらに大きく膨らんでいる。
「そうか…ここに残されているのは、自分ひとりだけなのだ。」
そう思った瞬間、皮膚の裏をゾワゾワと撫でるような感覚が走った。
懐かしいのに、知らない。帰ってきたはずなのに、居場所がない。
入道雲に向かって走り出そうとしたその時に後ろから声がした。
祖母の声だった。振り返り、返事をしてからもう一度庭に目をやると、いつもの庭だった。
夏の祖母の家という舞台は、誰にとってもどこか心の奥にひっかかる場所だと思います。
この作品が、みなさんの中に眠る“夏の記憶”をほんの少し揺らすきっかけになれば幸いです。




