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硝子の階より

オフィスビルの高層階。

ガラス張りの壁からは、灰色の雲と霞んだ都市の屋根が見下ろせる。

そこは働く人々の声やキーボードの打鍵音、書類をめくる音が絶えないはずだった。


……はずだったのに。

エレベーターを降りた瞬間、そのフロアには誰もいなかった。


人の気配のない机と椅子。

冷たい蛍光灯だけが静かに灯り、コピー機が時折空転するような音を立てる。

ガラスの向こうには、どこまでも厚く沈んだ空だけがある。


これは「誰もいないはずの高層」で起きた、

静かで、不可解で、そしてどこか懐かしい話。

60階建てのガラス張りのオフィスタワー。

そこは、地上からは見えない世界だった。

ビルの名は、どこにでもあるような横文字の組み合わせで、覚えていない。


彼は、仕事の関係でそのビルを訪れた。

取引先との面談があると聞いて、メールに記された階数に従ってエレベーターへ乗り込む。


60F

エレベーターパネルにそう表示されていたが、妙だった。

そのビルは公式には59階建てのはずだ、とどこかで聞いた気がした。


軽い振動とともに、エレベーターは到着を告げる。


「ピン」


ドアが開いた瞬間、彼は立ち尽くした。



誰もいなかった。


照明は点いている。

PCの電源も入っており、プリンターがうなりを上げていた。

コピーされた紙が一枚、床に落ちていた。

空調の音が耳に優しく響く。


だが、その空間には人の気配がまるでなかった。


机と椅子がずらりと並び、

椅子には誰かのジャケットがかけられたままになっている。

会議室の中には、開いたままのノートパソコン。

液晶にはスプレッドシートが表示されていたが、画面の中央で点滅するカーソルが、いつまでも次の入力を待っていた。


まるで――時間だけが消えている。



床に落ちた紙を拾おうと腰をかがめると、

そこにはコピーされた何もない白紙と、うっすらと文字の写り跡があった。


だれがさきにいなくなったのだろう


手書きの筆跡。

裏返すと、自分の名刺が貼りつけられていた。


思わず手を離した。



ガラス張りの壁の外には、都市の輪郭があった。

しかし、いつもの街並みは見えない。


一面の雲。

それは地上にあるはずの建物のすべてを覆い隠し、

そのビルがまるで空に浮かんでいるような錯覚を起こさせた。


青空ではない。

濁った灰色、もしくは夕暮れの色を腐らせたような、不吉な空の色。


風もない。

雲の動きもない。

音が、ない。



彼は、携帯電話を取り出す。

時刻は「15:22」で止まっていた。

スクリーンには通知もなく、圏外でもなかったが、タップしても何も動かない。


そして突然、画面が黒くなり――

中央に「時計のマーク」だけが表示された。


指先で拭っても、何も変わらない。



その時、オフィスの奥の会議室から明かりが漏れているのに気づいた。

他の部屋の灯りは消えているのに、そこだけが微かに点いている。


中に入ると、ホワイトボードに一文が浮かび上がっていた。


「きみは、いつからここにいたの?」


そこに誰がいたのか。

自分はどこから来たのか。

ふいに、分からなくなった。



壁の時計が見える。

秒針は動いていない。

だが、カチ……カチ……と音だけが耳に届く。


会議室を出て戻ると、フロアの配置が変わっていた。

通ってきたはずの通路がなくなっており、

背後のガラスの窓には誰かの影が映っていた。


振り向いても、誰もいない。

だが、そこに確かに自分ではない“誰か”がいた。



彼はふらりと歩き、無意識にエレベーターへ向かう。

何度も来た道のようで、まったく見覚えがない廊下。

壁の一部には、古いカーペットがむき出しになっていた。


エレベーターのボタンを押す。

呼び出し音はしない。


だが、扉は自然と開いた。

中には鏡がなかった。


乗り込もうとしたその瞬間――


「……おい、大丈夫か?」


肩を叩かれて振り向くと、彼は自分の会社のデスクに座っていた。

同僚が心配そうに覗き込んでいる。

オフィスは、夕方の雑音と疲労感に満ちていた。



だが、胸ポケットに手を入れると、

あの手書きのメモと名刺が、確かに入っていた。


そのメモを見た瞬間、スマートフォンがブルっと震える。

画面には通知もなく、ただ「時計のマーク」がまた浮かんでいた。


音もなく、震えるスマホを手にしたまま、彼は静かに目を閉じた。

「高層階の静けさ」というのは、

時に地上よりも深い孤独を孕んでいます。


誰かが働いていたはずの場所に、気配がない。

整然とした机、消えない明かり、外には雲しかない。


そして、そこに迷い込んだあなた自身が、

「いつからそこにいるのか」分からなくなったなら――


それはきっと、なつかしらぬ場所の一つです。

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