出発ロビーは静かに
深夜の空港。
世界と世界をつなぐはずの巨大な建物に、気づけば誰の姿もなかった。
いつも人であふれていた出発ロビー。
荷物を預ける音、足音、呼び出しのアナウンス。
そのすべてが消えた空間で、私はひとり目を覚ました。
誰かがそこにいた気がする。
けれど姿は見えず、声も届かない。
扉は開き、案内はされる。
けれど、行き先の表示は「NULL」。
そして搭乗ゲートの番号は、存在しないはずの――「0」。
チェックインを終え、保安検査場を通過し、搭乗までの時間を潰すため、ラウンジの椅子に体を預けた。
出発は深夜。
眠るつもりはなかったが、目を閉じたのはほんの一瞬のつもりだった。
目を開けると、静かすぎた。
冷房の音、スーツケースの転がる音、隣席の誰かの咳払い。
そういった空港特有の雑音が、一切なかった。
自分がいる場所が、まるで録音された空間に差し替わったようだった。
⸻
モニターには便名が並んでいた。
だが、どれも妙だった。
《FLIGHT 000》
《DESTINATION: NULL》
《STATUS: BOARDING NOW》
それが、モニター全体に何度もコピーされたように映っていた。
フライト番号も目的地も、どこか実在しない響きだった。
⸻
立ち上がっても誰も見当たらない。
免税店のガラス戸は開いていた。
中には新品の化粧品や酒類がきれいに並んでいる。
レジの奥にある防犯ミラーに、自分の姿だけが映る。
他には何もいない。
ガラスの自動ドアは音もなく開いた。
向こうにあるのは、搭乗ゲートエリア。
壁に沿って進む。
明るい。廊下には床清掃の痕跡さえある。
でも、それを行う人の姿がなかった。
⸻
ゲートには《GATE 0》と書かれていた。
そんな番号は見たことがない。
でも、そこだけが淡く点滅していた。
静かに、扉が開く。
その先に伸びる搭乗ブリッジ。
そして、ブリッジの先に見えるべき飛行機が――なかった。
あるのは白く霞んだ空間。
視界はあるのに、何も見えない。
そこには空港では感じたことのない、風のような匂いがあった。
⸻
振り返ると、ゲートが消えていた。
そこにはただの白い壁と、ポツンと置かれた案内ボードがあった。
木製で、まるで古い駅の掲示のようだった。
手書きのインクがにじんでいる。
「帰る者には終点を。進む者には記憶を。」
読んだ瞬間、どこか遠くから子どもの笑い声がした。
⸻
再び歩き始める。
視界は白く、道はどこまでも続いていた。
足元にはカーペットではなく、静かな水音を立てる床。
それが本当に水なのか、錯覚なのかも分からない。
⸻
ふいに、柱時計の音が鳴った。
カーン……カーン……
耳元ではない。
空間全体が音を発しているようだった。
その音と同時に、彼女はスマートフォンを取り出した。
時刻の代わりに、「時計のマーク」が表示されている。
それは、どの操作をしても消えなかった。
⸻
白い通路の先。
大きなガラスの窓があった。
そこから見えるのは滑走路――のような場所。
だが、外の景色は上下が反転したように歪んでいた。
空には「空」があり、地面にも「空」が映っていた。
その中央に、小さな自分の姿が立っているのが見えた。
だが、彼女はそれを記憶していなかった。
どちらが本物なのか、窓が映しているのか、記憶が映っているのか――
わからなかった。
⸻
ふと、背中に誰かの手が触れた。
その瞬間、音が、匂いが、すべて戻ってきた。
⸻
「――お客様、大丈夫ですか?」
目の前には、スタッフの制服を着た若い女性がいた。
ラウンジの椅子に、仰向けに座っていたらしい。
手には、使った覚えのない搭乗券が握られていた。
周囲には人がいる。
しかし、誰一人、彼女を見てはいなかった。
スマートフォンを取り出すと、画面の表示はまだ、「時計のマーク」のままだった。
そして、写真フォルダに一枚――
彼女が立っていた“GATE 0”の写真が保存されていた。
シャッター音は聞いていない。
“空港”という、本来は人で賑わう場所に誰もいなかったとしたら。
その瞬間、そこはただの広いリミナルスペースへと姿を変えます。
音もなく、風もなく、
けれど機械たちは淡々と動いている。
人間だけが置き去りにされたような世界に、
あなたは立っていたことがありますか?