鏡の中の祝祭
昭和と平成の狭間、高台に建てられたひとつのホテルがあった。
天井の高いロビー、回廊のシャンデリア、カーペットの匂い、ガラス越しのプール。
もう誰も来るはずがないのに、水も電気も通っていて、花瓶には毎日、新しい花が活けられている。
彼女は、ビジネスホテルの一室から、ほんの少しだけ外を歩いただけだった。
だが、帰り道で見つけた「ホテル・グロリア」の門をくぐったとき、彼女は何かを思い出す前に、忘れていた。
ホテルのチェックインは順調だった。
大学の研究で地方へ出張、夜は最寄りのビジネスホテルに泊まる予定だった。
部屋は狭いが小綺麗で、ベッドの硬さもちょうどいい。
夕食を買いに少しだけ外へ出た。
駅前のコンビニがあるはずの方向へ歩いて、
ふと、道を一本だけ逸れた。
その先に、門があった。
《HOTEL GLORIA》
看板の文字は、くすんでいたが立派だった。
白い石のアーチ、塀の向こうには植え込み。
その奥に見えるガラス張りのロビー。
なぜか、彼女は吸い寄せられるように中へ入った。
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ロビーは、驚くほどきれいだった。
掃除された床、明るい照明、微かな音楽。
しかし、フロントに誰もいない。
呼び鈴を押すと、「チーン」と響くだけ。
それでも、奥へ進める扉は開いていた。
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回廊には額縁が並んでいた。
描かれているのは、祝祭の絵だった。
大勢の男女がドレスアップし、シャンパンを掲げている。でも、顔だけがすべて消されていた。
手で触れても埃はつかない。
誰かが、毎日掃除しているように。
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客室フロアの灯りも、すべて点いていた。
部屋番号は、1001から始まり、
どこまでも廊下が続いていた。
エレベーターは沈黙していたが、階段は使用可能だった。何階まであるのか、わからない。
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プールのあるガーデンも、
水が張っていて、循環音が聞こえる。
だが、誰も泳いでいない。足跡もない。
売店にはおみやげ菓子が山積みで、どれも賞味期限が「本日」になっていた。
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そして、彼女は鏡の前に立つ。
大きな壁一面の、装飾的な鏡だった。
そこに映っていたのは、鏡の中で少しだけ遅れて動く自分だった。
いや、それは「自分に似ている誰か」だったかもしれない。
回廊を進む。
彼女は迷っているという感覚を、なぜか持たなかった。
不安もなかった。
ただ、少しだけ懐かしい気持ちがあった。
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ふと、カーペットの上に花びらが落ちていた。
バラのように見えたが、香りはしなかった。
歩を進めると、天井のスピーカーからピアノの音が流れ出す。
聞き覚えのある旋律、けれど題名は思い出せない。
音に誘われるように向かった先は、大広間だった。
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そこは、まるでパーティの最中だった。
長テーブルに並ぶ料理。整えられた椅子。
ワイングラスには赤い液体が満たされている。
ただ、そこに誰もいないだけだった。
鏡面仕上げの柱に、自分の姿が映る。
けれど、その隣に何者かの輪郭だけが映っていた。
振り返っても、そこには誰もいない。
彼女は小さく息をのむ。
だが、不思議と怖くはなかった。
まるで、それが“当然の風景”のように感じた。
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テーブルの一番奥。
そこに自分の席のような場所があった。
ナプキンが丁寧に畳まれ、グラスは一つ。
彼女は座った。
グラスに手を伸ばすと――
「乾杯」
という乾いた声が、確かに聞こえた。
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彼女は立ち上がった。
鏡の中では、誰かがまだ座っている。
その人物はこちらに背を向けていたが、服装も髪型も、まるで自分と同じだった。
鏡の中のそれが、ゆっくりとこちらを振り向こうとした瞬間――
彼女は走り出した。
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逃げるように階段を駆け下りた。
ロビーまで戻る。
出口は見つからない。
扉はある。開く。
でも、その先はまた別の回廊だった。
同じカーペット、同じ額縁。
音楽が流れ、時計はすべて12:00を指したまま。
彼女は壁に手をつく。
指先が、ほんのわずかに湿っていることに気づく。
そのとき――
ポケットの中のスマホが震えた。
画面を見ても、
表示はやはり「時計マーク」。
だがその中央に、**“12:00”**とだけ一瞬表示された。
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扉のひとつが、勝手に開いた。
中は鏡張りのバスルームだった。
床は白く、照明は柔らかい。
湯が張られたバスタブには湯気が立っていた。
鏡の奥で、誰かがこちらを見ていた。
それは、さっきの大広間にいた“自分に似た誰か”だった。
その口が、動いた。
「もう帰るの?」と、言ったように見えた。
彼女は無言のまま、スマホを胸に抱く。
その瞬間――
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「……あれ? 寝ちゃってた?」
ビジネスホテルのベッドの上。
窓の外には、うっすら朝焼け。
冷房の風がゆるく吹いている。
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夢だったのか、現実だったのか。
バッグの中には、昨日と同じ着替え。
買ったはずのペットボトルもある。
けれど――
スマホの画面を見ると、
表示は「時計のマーク」のままだった。
そして、写真フォルダの中に1枚、
撮った覚えのない画像があった。
それは、
バスルームの鏡の前に立つ彼女の後ろ姿だった。
豪奢な場所に、誰もいないということ。
それは、忘れられた誕生日のようで、もう帰れない成人式のようでもあります。
このホテルは、かつて誰かが“幸福だった”記憶のなれの果て。
けれどそれは本当に、あなたの記憶ではないのでしょうか。
次に、どこかの町で“灯りのついている廃ホテル”を見つけたなら……その中には、誰かの「なつかしらぬ」記憶が、今も整えられているかもしれません。




