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十五時のやさしい不在

暑さが皮膚の上にまとわりつくような、

そういう夏の日だった。


午後三時、職場のトイレから戻るはずだった男――名を仮に「彼」としよう――は、

なぜか大学の廊下に立っていた。


見覚えのない白い壁、

すり減った濃紺のリノリウム床、

古い蛍光灯が静かに明滅する長い廊下。

人の気配はどこにもない。

だが、遠くからは風に流されるような学生たちの声がかすかに届く。

笑っているようにも、泣いているようにも聞こえる。


「……どこだ、ここ」


彼は声に出してみたが、

その声は廊下に吸い込まれるようにして、すぐに消えた。

壁の時計は15:07で止まっている。

窓の外は雲ひとつない快晴。

セミの声はしない。

だけど、暑くない。むしろ涼しい。快適すぎるほどに。


彼はゆっくりと歩き出す。

何かを探しているわけではない。

ただ、「何かが変だ」と感じたから。

ある教室の扉が、わずかに開いている。

中を覗くと、教室の中は空っぽだった。

だが、椅子がひとつだけ、黒板の前に置かれていた。

まるで誰かが彼を待っているかのように。

彼は座らない。

ただ、見つめる。

そして思った。


「ここは……本当に、俺の知ってる世界か?」


それは、懐かしさの仮面をかぶった、知らない場所。

なつかしらぬ、午後三時の大学の廊下。

扉の奥から、誰かが「おかえり」と言ったような気がした。


廊下を歩き続ける。

どこまでも、どこまでも。

扉のない教室、名札の剥がれた掲示板、誰もいないのに磨かれた床、影のない階段。

誰かがそこにいた気がした。

でも、気のせいだろう。

誰かが呼んだような気がした。

でも、何も聞こえない。

何も見えない。

何も聞こえない。

けれど"何かが"いる。

それは声でも音でもなく、目に映る光景でもなく、

皮膚の裏側に触れてくるような――存在感。

意味を持たないはずの空間が、意味を持ってこちらを見ているような…


その気配に耐えられなくなって、彼は走り出す。

出口を探しているわけじゃない。

ただ、止まりたくなかった。

気づけば息が切れて、背中が濡れていた。

なのに、空気はひんやりと心地よい。

まるで冷たい手が背中を撫でているようだった。

やがて、歩みも声も、記憶も、

すべてが霧のように薄くなっていった。



「おい、大丈夫か?」


誰かの手が、肩を叩いた。

振り向くと、職場のトイレの前に立っていた。

隣には、心配そうな顔の同僚がいる。

あの、現実の顔。音。匂い。空気。


「……いや、ちょっと……立ちくらみかも」


そう言った自分の声が、自分のものではないように感じた。

足元が確かすぎて怖かった。

壁の色が、眩しすぎた。


「顔色が悪いぞ。大丈夫か?何分も突っ立ってたぞ?」


「……そうか、悪い。大丈夫だ。」


彼は笑った。少しだけ。

そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……どこだったんだろう、あそこは」


思い出せない。けれど、確かに存在していた。

なつかしらぬ午後三時の、誰もいない廊下。

誰にも話せない夢を見たことがあるだろうか?

覚えていないのに、ずっと心に残っているような……

それは、もしかしたら“なつかしらぬ”を訪れた証かもしれない。

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