その日の即興詩
しっとりと深く暗い空は、その日煌びやかに飾られていた。真珠の粉を撒いたよう、と呟く吟ずるかの声に、なんと豪勢な喩えかと思うも頷いてしまう、それほどの見事な夜空だった。
真珠や琥珀を丁寧に、光を逃さぬよう砕き、すうと風に乗せた天の帯。露台で見上げれば遮る物も無くよく見える。
「占い女の晴れ着なのだろうな」
まだ詩のような気配を残した声が小さく零れるのを耳が拾った。知らぬ言葉に訝しんでいると、僅かな灯火で闇に浮かぶ横顔が、夜と同じ黒い目がこちらをちらと見た。白布が微かに揺らいだ。
「年の変わる晩に、空に現れる大女だそうだ。誰もに見えるわけではないが、必ず毎年誰かが見ており――姿はまちまちで、赤子に近い童だったと言う奴もいれば、皺だらけの老婆だったと言う奴もいる。ただ、女であることは変わりないらしい」
次いで唇が動き、さらさらと軽い声音を吐く。眼下の園で鳴る檸檬の葉擦れと合わさり、また耳を撫でた。
「それが、占いをする女なのか?」
「否、見た者が勝手に占う」
なんとも胡散臭く面妖な話に今度は声で訊ねると、簡単に返事があった。ふと笑んで、黒目は空を見るのに戻る。
「女がどんな姿だったかで、後の吉凶を見るのだと。若く張りある女なら喜び、萎びた老婆なら落ち込むという具合。年明けの決まった話題だった」
続きは、懐かしむ響きだった。ああ、と思う。気づくのが遅い。
「故郷の話か」
「そうだ」
「此処では誰も見ない」
柔らかい、郷愁の色深いその声が苦手だった。拭うか払うように言うと、くっと喉が鳴ったのが聞こえた。細められた闇色の目は、満天の星々に据えられたまま。
「だから私も嘘だと思っていた。見えないか、それは残念だ。マネル姫より美しい」
唇は再び、詩吟の調子を取り戻していた。
「天女の美貌だ。波打つ、豊かで艶な黒髪は、星を散りばめた紗の為の美しき闇。バターを溶かした甘い乳の色する肌は、今見えぬ月の光を透かし。伏せる眼は露濡れ、どの星よりも眩く胸を射る。夜の、静かで密やか、しなやかな女」
瞠った視界の端、空の縁で瓜皮に似た艶ある黒髪がはらりと落ちた。気がした。
はっとして見上げた時、風が強く吹いて頬を叩く。白布が空気を食って太り、果樹の芳香の幻が鼻を突いた。空にはなにもなく、否、ただ星だけは満ちており、
「嘘だ、冗談だ、気にするな」
くっとまた喉を鳴らす音がする。即興詩――だと思いたいのだ――より密やかに紡がれる声と共、裾に僅かだけ施された金刺繍が翻る。裸足では靴音は聞こえない。
どこからが。何が嘘で、何が冗談か、分からなかった。
漆黒の、飾りを際立たせる為であるかの髪は、被り物で見えない。細やかな灯りが照らすのは、天女の美貌とは言えない並の顔と布ばかり。だと言うのに、双眸はこちらを見透かすように、光を湛えた澄んだ黒。
「さ、年変わりだ。戻って酒を頂こう。……姫様よりなどと吐かしたことは、黙っておいてくれ」
囁かれる言葉は常と変わらぬ調子。振り返っても大女など見えず、離れた喝采、楽の音を耳に入れ、いつものように頷くしかなかった。
当然自分はその美しくも古い切傷のように引っかかる日のことを、誰にも言う気にはならなかった。露台に立つたび、誰かの果樹園の散策に付き合うたび、星が恐ろしいほど多く輝く夜のたびに、思い出しこそしても。
けれどつい、その日の夜は空を仰いでしまうのだ。やはりそこに女など居ないのだ、あの言葉は言うとおりに嘘だった冗談だった、その場限りの詩だったのだと、確かめる為に。