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《注意》
この作品はフィクションです。
実在するロードレースをモデルにしていますが、物語の都合上、レースの時期、開催場所、コースプロフィール等は現実のものとは異なる場合があります。
五月。
北海道の遅い春も終わり、鮮やかな新緑に包まれる季節――
モエレ沼は、石狩川沿いに無数に点在する三日月湖のひとつで、現在はイサム・ノグチの設計による大きな公園となっている。
そこは札幌市民の憩いの場で、休日ともなれば公園内を散策したり、犬の散歩やボール遊び、サイクリングなど、大勢の人たちで賑っているのだが、今日は少し様子が違っていた。
公園内の大きな道路は封鎖され、歩行者が入らないように警備員が立っている。
その道路を、二十台ほどの自転車が集団で走っていた。
色とりどりのジャージとヘルメットとフレームの隊列が、ちょっとした夕立を思わせる音を立てて通り過ぎる。普段、自転車の走る音など気にとめる者も少ないが、二十台以上の自転車が集団となって時速四十kmで疾走すれば、タイヤと路面の摩擦音だけでもかなりの音量になる。
それに混じって、数カ所に設置されたスピーカーから聞こえてくる興奮気味の声。本部テントで行われている実況放送だ。
『さあ、今年はここモエレ沼に舞台に開催されている道新杯サイクルロードレース、女子の部L‐1クラスもいよいよ大詰め。ゴールまで残り1kmを切って、先頭を牽くのはおなじみ白岩学園のトレイン。やはり白岩のエース平岸亜依子が本命か? しかしスプリントにはめっぽう強い山崎と大崎もいい位置につけている!』
テニスコート横の緩やかな下りを集団が通過する。
集団前方に位置していた大崎 都は、右手の中指でシフトレバーを押し込んだ。一段シフトアップして少しペースを上げる。続く緩やかな登りを、その勢いで走り抜ける。
都の斜め前に、同じジャージを着た四人組が縦一直線に並んでいた。その車間はタイヤが接触しそうなほどに接近している。
彼女たちは白岩学園高等部の女子自転車部だ。いつも同じメンバーで練習しているからこその、この隊列だろう。
その左側に貼りつくようなポジションをとる。
ゴールまでの距離が少なくなり、反比例して集団のペースが上がっていく。そのペースについてこられない者が遅れ、集団から脱落していく。
先頭で、必死の形相でペースを上げているのが白岩学園の二年生、円山 留依。しかしもう限界だ。力尽きたところで右に進路を変える。
空いたスペースを埋めるように加速したのが、二番手を走っていたチームメイトの宮沢 早樹。その後ろについている三年生の白石 佳織と平岸 亜依子にはまだ余力が感じられる。
宮沢がさらにペースを上げる。サイクロコンピュータの速度表示が跳ねあがる。彼女にとってもこれは限界だろう。とてもこのままゴールまで維持できる速度ではない。無論、宮沢もそんなことは百も承知だ。
前方に、最終コーナーが近づいてくる。左の直角コーナーだ。
先頭を走っていた宮沢が力尽き、進路を空ける。後ろにいた白石が先頭を引き継ぎ、ハイペースを維持する。
都は奥歯を噛みしめた。ここからが最後の勝負だ。
ゴール手前に直角コーナーがあるこのコースは、最後の位置取りが難しい。全速のままインコースから進入してはカーブを曲がりきれないし、かといってアウトコースでは、インから膨らんでくる選手に前を塞がれる。
理想は中央よりやや内側のライン。最小限の減速で集団先頭でコーナーを抜け、いち早く加速すること。最終コーナーからゴールまでの距離が短いこのコース、ここで減速しすぎるとゴールまでにトップスピードを回復できない。コーナーに入る時の位置取りと、コーナーを抜けてからの立ち上がりの速度で勝負は決まる。
都は最大のライバルである平岸亜依子の左に陣取った。やはりコーナーではインに入りたい。
しかし相手も都の目論見はわかっている。先頭を牽いていた白石はコーナー手前で平岸に進路を譲り、自分は都の進路を塞ぐようにインを締めながらコーナーに進入した。
小さく舌打ちをする都。
このまま白石の後ろにいては勝ち目がない。
このレース、彼女は白岩学園のエース平岸のアシスト役だ。風よけとなって平岸を牽引し、最高の位置取りで最終コーナーに進入させ、同時に自分はライバルを牽制する。
当然、コーナーを抜けても勝ちを狙った急加速はしない。平岸の勝利のために、最速スプリンターの都を抑えるのが彼女の最後の仕事だ。
一瞬の判断。
都はコーナーリング中にわずかに減速し、平岸の後ろに下がった。他に手はない。
レコードラインでコーナーを抜けた平岸がサドルから腰を上げ、ギアをシフトアップする。ゴール目指して最後の加速だ。
コーナーリング中に進路変更を余儀なくされた都は、反応が一瞬遅れた。
ゴール前のスピード勝負――ゴールスプリントでは、その一瞬が致命的な差につながる。最終コーナーからフィニッシュラインまで充分な距離がないこのコースではなおさらだ。最高速の『伸び』で勝負することはできない。必要なのは最高速度ではなく加速力。先手を取った相手に、加速中に追いつくのは至難の業だ。
それでも都は追う。
ギアをシフトアップ。さらにもう一段。
ハンドルを握りしめる。腰を上げ、ハンドルを引きつけるようにして、全体重をかけて渾身の力でペダルを踏む。
先行する平岸との差が詰まる。
しかし、やはり残り距離が足りない。
タイヤ半分の差を詰められないまま、都はフィニッシュラインを越えた。
*
悔しい。
悔しい。
悔しい――
都は唇を噛んだ。
また、負けた。白岩学園の『チーム』に敗北した。
平岸と一対一のスプリント勝負だったら、結果は違っていたかもしれない。しかし、勝負事で「たら」「れば」を語るのは無意味なこと。所詮は負け犬の遠吠えに過ぎない。
自転車ロードレースは他に類を見ない不思議な競技だ。
成績はあくまで個人に対して与えられる『個人競技』でありながら、しかし実体は紛れもないチーム競技で、エースを勝たせるために他の選手はアシストに徹する。強力なアシスト選手がいれば、圧倒的に有利だ。今回のような平地レースではなおさらで、四対一の人数差は、少しくらいの力の差で埋められるものではない。
それでも悔しい。
四対一の状況をはね返せない自分に腹が立つ。
人数の不利は最初から承知の上だ。
ヨーロッパでは人気のロードレースも、日本ではマイナー競技。女子、しかも高校生となればなおさらだ。機材が高価なスポーツ故に、愛好者は圧倒的に社会人が多い。
北海道で、まともなチームプレイができるほどの人数と質を揃えている高校など、白岩学園自転車部だけといってもいい。都が通う女子校にも自転車部などなく、このレースも個人でのエントリーだ。
それがわかっていて、今の高校を選んだ。
都は、どちらかといえば一匹狼的な性格だった。誰の助けも借りず、自分の力だけで強力なチームに勝つことに憧れを感じていたことは否めない。
自分の力ならやれるはず、という自負もあった。
しかし実際のところ、高校生になってからの一年と少し、都が勝ったレースはチーム力の関係ない個人タイムトライアルがひとつと、ゴール前の落車に白石と平岸が巻き込まれたひとつだけしかない。他のレースでは表彰台の常連ではあっても、真ん中には立てずにいる。
視界の片隅に、その、表彰台の真ん中を指定席にしている選手が映った。
白岩学園の三年生、平岸 亜依子。
本人の力ももちろん優れたものだが、その上アシスト選手に恵まれていることもあって、北海道の女子選手の中では最強の地位を不動のものとしている。
平岸を囲んで、彼女を勝利に導いた仲間たちが嬉しそうに笑っている。
「……くそっ」
口の中でつぶやきながら、ヘルメットを脱ぐ。
収められていた髪がぱらりと落ちて、汗が滴る。
――と。
「……大崎?」
背後から、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
聞き覚えのある、可愛らしい声。
しかしすぐにはその声の主が思い出せない。それはつまり自転車関係の知り合いではなく、この場で聞くことを予想していなかった相手ということだ。
振り返ると、数mほど離れたところに、都と同世代の女の子が立っていた。
身長百七十cm近い都よりはやや小柄だけれど、それでも百六十cmは超えているだろう。しかし贅肉がほとんどないような細身の体型のせいか、あるいは可愛らしい童顔のせいか、もっと小柄で華奢な印象を受ける。
ややくせのある柔らかそうな髪は、背中の中ほどまで届いているだろうか。初夏の風にふわふわとたなびいていた。
彼女の足元では、リードを付けたカニンヘンダックスフントが巨大なクマケムシのような姿でちょこちょこと歩いている。
犬の散歩らしい。札幌市民の憩いの場であるこの公園では、飼い犬を連れて歩いている人も多い。だからもちろん、知り合いに偶然会う可能性も皆無だったわけではない。
「……真木、さん?」
声をかけてきたのは、クラスメイトの真木 楡だった。楡と書いて「えるむ」と読ませる、ちょっと洒落た名前の持ち主だ。
特に親しいわけではない。直に話した記憶はほとんどない、今年の春から初めて同じクラスになった、単なるクラスメイトの一人。しかし声はよく知っている。お喋りで明るい彼女の声は、休み時間のたびに教室に響いているから。
人懐っこい性格で、友達も多い。たしか、中学までは静岡で暮らしていて、高校から札幌に引っ越してきたはずだが、そんなことは微塵も感じさせず、クラスメイトの大半と十年来の知己のように接している。
口数が少なく、人付き合いが苦手な都とは対照的だ。それ故に、都にとってはどちらかといえば苦手なタイプ。
だから「嫌な奴に見られた」というのが正直な感覚だった。好奇心旺盛で、お喋りで、友達の多い楡。今日のことはすぐにクラス中に広まってしまうかもしれない。
今のクラスメイトで、都が自転車ロードレースをやっていることを知る者は少ない。
自転車のことを、自分から進んで話すこともない。
日本の女子高生で自転車ロードレースをやっているなんて、極めて珍しい存在だ。そのことで奇異の目で見られるのは愉快なことではないし、説明してもなかなか理解してもらえることでもない。
レースで活躍するのは望むところだけれど、それ以外の場で目立つのも、あれこれと騒がれるのも、性格的に馴染まない。
都はもちろん自転車通学だが、それもロードバイクではなく普通のシティサイクル、いわゆるママチャリを利用している。もっとも、それは目立つのが嫌という以外にも、かごのついている自転車の方が通学には便利という理由もあるのだけれど。
それにしても、よりによって楡に見られるなんて。
「なにしてるの?」
連れていた犬を抱き上げ、小さく首を傾げて楡が訊いてくる。
「見てわからない?」
素っ気なくそれだけを応える。
しかし楡は気分を害した様子もなく、人懐っこい、可愛らしい笑みを浮かべた。
「……自転車のレースなんてやってるんだ? カッコイイね」
そんな台詞を無視して、再び自転車にまたがった。一応、レース後のクールダウンという口実がある。
負けたレースの直後に、その話題に触れられたくはない。
負けた時は、独りになりたい。
だから、楡から離れた。
それでこの件は終わり、楡もすぐに立ち去っただろう――と思っていたのだけれど。
表彰式の時、人混みの中で見物している楡の姿に気がついた。