第二話:始まりの資料館
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兄貴が帰ってこない。初は時計を見上げて感じたことの無い焦燥に駆られていた。
いつもなら夕方前には帰って来て感想をわぁわぁぶつけてくる相手が夕方になっても戻らないのは違和感がある。もしかしたら遠いのかと思い調べれば、マンションから車で一時間半程度、バイクを持っていて、フィールドワークに赴く兄にしてみれば大した距離ではない。
何か余程興味をそそられるものがあったか、それとも実際に何かあったのか。バイク事故というのは一発だと聞いたこともある、不意に怖くなった。スマートフォンを覗いても連絡はない。実家の方には入っているかもしれないが、兄以外の連絡先を知らなかった。知っていたとしても連絡することはできない。時刻は四時半、資料館は六時まで。電車で近くまで行ってタクシーかバスに乗ればぎりぎり間に合うかもしれない。バイト代の入った財布をショルダーバッグに突っ込み、ヘッドフォンを耳に当ててスニーカーを履き、家を出た。
都市線から各駅に乗換、無人駅の簡易改札機を出れば既に出発から一時間は経っていた。資料館が閉まっている可能性が高くなってきたが、未だに兄からの連絡もない。バスを探したが小さな駅のせいかバス停もなく、タクシーも見当たらない。閑散としている。
都心からたった一時間程度でこうまでも人けが無くなるとは思わず、初はスマートフォンを取り出した。タクシー会社に電話をするか、徒歩で行くかだ。ここから徒歩では三十分ほど、距離はままある。とりあえず電話をしながら歩くためにヘッドフォンをずらして音を下げる。数回の呼び出し音で女性が出たのでタクシーを依頼すれば、申し訳ありません、そちらの駅は着くまでに二十分以上かかりますと言われ、腹が決まる。わかりましたと電話を切って、ヘッドフォンを耳に戻して歩き出した。
なぜこうまでも労力をかけなくちゃならないんだと臍を噛む。資料館に辿り着いてバイクも兄もいなければ、ただただ無駄骨を折ることになる。同じだけの時間をかけて家に帰れば兄がいて、なにしてるんだと笑われる姿も目に浮かぶ。
引き返すか。少しだけ足が止まった。ジャカジャカ、ヘッドフォンから音が漏れているのを感じながら逡巡、ここまで来てしまっているのだから仕方ない、進もう。それに、と初はごくりと喉を鳴らした。駅を出て歩いて数分、背後に誰かがいるのを感じた。危険はなさそうだがじっとこちらを窺うような視線が注がれていて、首筋が粟立つ。それを気取られないように努め、速足になった。
歩き続ければ暑くもなる、パーカーのチャックを途中まで下ろして風を入れながら資料館に辿り着いた。舗装された道ではなく、石積みでなんとなく枠がわかるような明らかな私有地、多少の崖も道中にあったのでガードレールくらい用意してほしいと思った。まさかと下を覗いたが、近いところに底があってペットボトルくらいしか落ちていなかった。
今日は暑い方だがまだ春なこともあって、陽光の弱い場所では風が冷たい。それも今は体を冷やすためのいいクーラーだが、帰りは困りそうだ。流石にタクシーを呼んでおこうとスマートフォンを取り出せば、まるで待っていたかのように電波が二、一、圏外と変わった。
「嘘だろ」
意味があるかどうかは知らないが少しでも電波を掴もうとスマートフォンを上に掲げる。意味がなかった。びゅうと吹いた風が湿っているように思えてゾッとした。iPodの音量を上げた。誰かが濡れた手で後ろから頬を撫でて来る感触がした。ぺちゃり、とも、ひやり、とも、脇腹の辺りがぎゅうっとなった。振り払うように駆けだして微かな明かりの方へ向かった。背後から草を踏む音が響き、確実に追われているのがわかる。最近なかった現象に恐怖が胸にせり上がって来る。資料館の石畳に足をつければそれがふっといなくなった。違う、置き換わったのだと思った。体に纏わりつく気味の悪さは健在だ。とにかく早いところ馬鹿兄を連れ戻さなければ。
駐車場を覗きに行けば兄のバイクはそこにあった。ここまでの距離を考えれば置いて帰ることはない、中にいるのだろう。六時の閉館を迎えて正面は軽量シャッターが下りていて入ることができない。まだ中にスタッフがいるかもしれないと思い、ガシャガシャと叩く。すみません、と声を張り上げても返事はない。正面ではなく裏口側にいるのだろうかと回り込む。壁伝いにぐるりと移動すれば駐車場側に勝手口を見つけた。すみません、とこちらも声を掛けながらノックをする。返事がなく、ありがちにドアノブを回せば開いてしまった。
予感ではなく、嫌な直感が走った。ドアの隙間から漏れて来る空気が生臭いような、ここから先がよくない場所なのだと本能が告げていた。ぎちぎちと縄を絞めるような音が耳元でして、ヘッドフォンの位置を直して耳を塞ぎ、そっと扉を開いた。
中は普通の事務所だ。警備員か誰かが待機する場所なのだろう、パイプ椅子とモニター、飲みかけのペットボトル、たばこの突っ込まれた灰皿が折り畳み式の長机に置いてあった。警備員の帽子は壁に引っ掛かったままだ。
「すみません、誰かいます?」
誰からも返事がない。外を振り返る。じっとこちらを眺めている全体的にぼんやりした輪郭の男がいて、初は前門の虎後門の狼で前者を選んだ。
資料館の中は肌寒かった。警備室からもう一枚扉を移動すれば五、六人は座れそうな休憩室だ。ロッカーなどもあってスタッフの荷物を置いたり、警備員がここで着替えるのだろうか。考えても仕方のないことを考えるのはやめた。人がいないことだけは事実だ。盗みに入ったわけではないが正式な手順で入ってもいない後ろめたさが背を丸めさせた。ひそひそと囁くような声が増えて面倒だったが、iPodの音楽の音量も落として首に掛け直し、人の声を聴き洩らさないようにする。完全に音を消さないのは、怖いからではない、と誰にでもなく言い張っておいた。
初はまた扉を開けた。目の前に受付があって思わずしゃがみ込んで隠れてしまった。何してんだよ、素直に声をかければいいだろう、と自分で自分を叱責してそっと立ち上がり受付に足を向けた。
「あの、すみません」
勝手に入って、と続けようとしたが代わりに出たのは悲鳴だった。受付のパイプ椅子に沈みこむようにして女が座っていて、どういうわけか中は血みどろだった。初の悲鳴に気づいたように何かが受付の透明なガラスをばんばんと叩き、その音に従って赤い手の痕がつく。血だ、と思ったのは鉄錆の臭いがしたからだ。ただ事ではない状況に先ほど通って来た道を戻ろうとしたが、ドアノブがうんともすんとも言わない。まさかオートロックかと鍵を探そうとすれば、思いつくのは真っ赤に染まった受付なわけで。初は震える膝を叩いてどうにか言うことを聞かせ、目的の透明なガラスをもう一度覗き込んだ。再び、ばん、と叩かれた弾みで、会話をやり取りする小さな穴から赤い球が飛んで来る。ぴちりと頬に当たった感触に尻餅をついた。なんなんだ、叫びたい気持ちと泣きたい気持ちで頬を拭い、片手で体を支えたことで気づいた。床に凹みがある。凹みと言うより傷だ。何故か気になってスマートフォンのライトを点けて立ち上がる。
床一面に広がっていたのは何かを引き摺った痕だ。口の端が引き攣って頭がおかしくなりそうだった。今まで触れて来たモノとはまた異質なこの感覚、スマートフォンのライトを振り回して逃げ道を探した。
おかしい、先程まで見えていた正面のシャッターはどこに行った。警備室に繋がっていた扉はどこに。スマートフォンのライトを周囲に当てて自身がぐるりと回れば、どこにいるのかわからなくなった。受付は透明のガラスを失って古い木製の番台、そこに居たのは真っ黒な喪服に身を包んだ先ほどの女とは違う、老婆。人が変わった、死んでいたはず、いや、幻覚か? 薬はやっていないし酒も飲んでいないのに、と流石に混乱を極めた。
あの、ともう一度声をかけようとすれば真っ青な顔をしたおばさんがゆっくりと顔を上げ、虚ろな目で初を覗き込んだ。
「人を探しに」
掠れるような声でどうにか目的を伝えれば、老婆はくしゃくしゃの入場チケットを手渡してきた。どうも、と受け取って視線から逃れるように展示ルートに足を踏み入れた。
ギシギシと床が鳴るのが嫌だった。ここにいるのだとアピールしてしまう音に、何が来るかがわからず、周囲をきょろきょろと目だけで調べてしまう。展示の仕方が古いのか、そもそも展示された資料が古いのか、初には何が何やらわからないが、いわくつきということだけは感じられた。
昔のつぎはぎの着物、何代か前の当主が書いていた手記、利用していた御膳など、文化的なものが並んでいる。
これの何が面白いのか初にはわからなかった。だが、兄は確かにこういったものを求めてここに来たのだ。
「兄貴、どこにいんだよ……」
恐怖を苛立ちで誤魔化しながら初はそろりそろりと足を進めた。いっそ思い切り走った方が気も紛れるかもしれない。だが、元々あった家屋そのものを資料館に改築しているので、人の家の中を土足で歩いている気がして嫌だった。そう広くはなく、長い道ではないらしい。曲がり角が多くて進む距離は短い。歩き始めてからすぐ、常に誰かの視線を感じていた。ひそひそ声に罵声が混じるようになり、ヘッドフォンの音を上げた。
順路、と書かれた看板がやけに古びている。空気がカビていて肺が悪くなるようだった。ごほ、と喉を鳴らした瞬間、ふっと隣を歩く人の気配を感じて思わず振り返った。目をひん剥いた痩せた男がじぃっとこちらを見ていて、その距離の近さにぎゅっと息を止めた。目を逸らしては不味い。瞬きができず目が痛い。至近距離だというのに体温も感じない相手から逆にひんやりとした冷気すら感じ、寒くなる。男はただひたすらに初の目を覗き込んで微動だにしなかった。ヘッドフォンの音漏れがポップなリズムを奏でているのが場違いだ。男は瞬き一つせず、すぅっと視線を逸らし、やや猫背の姿でぶつぶつと何かを呟きながら初の先を行った。角を曲がって行ったのを確認してからぶはっと息を吸った。あれは人ではなかった。声は聞こえていても、こうもはっきりと見たのはいつぶりだったか。
ふと思い至り血の気が引いた。どうして受付の異変をそのまま受け入れてしまったのか、チケットを受け取ってしまったのか。手の中のチケットを開いて確認をすれば、もぞもぞと小さな虫が集まり蠢いていて、悲鳴を上げながら手を振り回した。ぞわぞわとした感触が、手を払っても叩いても摩っても消えない。加えて本格的に寒くなってきた。
いよいよ引き返した方がいいかもしれない。この場所にただならぬ空気が充満しており、明らかに異物なのは初の方だ。受付をどうするか、表のシャッターが開いているかわからないが、それでもこれ以上先に進むよりはましだと思えた。振り返り、踵を返そうとすればその先にあの受付の老婆が立っていた。異様な雰囲気だった。ぼんやりと床を見ていたその目がゆっくりと上がり、初を捉えた。その瞬間鬼のような形相で走り出し、その手に持った小さな包丁を振りかぶった。
「うわああぁ!」
叫んだ。歯茎まで剥き出しにした老婆が目を真っ赤にして逆手に構えた包丁を、絶対に刺してやると言わんばかりの勢いで追いかけてくる。床を蹴ってけたたましい音を立てて走る。背後の殺気に足がもつれそうになったのを腕を突いて堪え、角を曲がる。バチッと静電気を受けて駆け抜けた先で畳に転がった。呻きながらさっと体を起こせば包丁を持った女はこちらを見失ったと言いたげに大人しくなり、背を向けて歩いて行った。
「来ちゃったのか」
聞き覚えのある声に振り返れば兄がいて、壁に背を預けているのを見て近寄った。無事だったのか、と触ろうとして逡巡、その間に兄が初の手を掴んだ。冷たい。
「兄貴、なんでこんなところ来た。さっさと帰ろうぜ、ここやべぇよ」
「初、ごめんな」
「なにがだよ、ほら立てよ」
「ごめんな」
ぐいっと引っ張った兄の体が重い。
「大丈夫、お前だけは返すから。悪いけど先生にあとは頼むことにするよ」
「なんの話だよ、いいから立てよ、立てって!」
必死に引っ張っていた初の腕を掴んで弱い力で引かれた。抗う気になれず、ゆるゆると膝を突いた初をぐっと抱きしめて、諦観を浮かべた兄の声が言った。
「ごめんな、ごめん。いろいろ教えてやればよかった。守っている気になってたんだ。ごめんな、なにも準備ができないままだったな」
「だから、さっきからなに言ってんだよ、わかんねぇよ」
「大丈夫だ、そばにいる。きちんと、向き合うんだ」
兄貴、と咎めるような声で呼んだ。ぽん、ぽん、と背中を叩かれ、最後にしっかりと顔を見られ、お互いに焼き付けた。
「見つけてくれよ」
「兄貴、兄貴!」
ゆるりと押されたはずの体がなにかに弾かれたように飛んだ気がした。どさりと尻もちをついて顔を上げれば、先ほどよりも空気が軽く、少しだけ明るい。展示品は変わらないはずなのに、全体の明るさは段違いだ。手をついた床は凹んでおらずつるつるしたフローリング、困惑して立ち上がればパッとライトが照らされた。
「まだいたのか、もう閉館時間だよ」
警備帽を少し持ち上げて目を細め、こちらを確認する警備員。眩しくて顔をくしゃりとさせればライトの角度が下がった。
「ほら、出口に案内するからそろそろ出てもらっていいかな?」
困惑しつつも兄貴、と言いながら振り返ればそこには誰もいなかった。ただ、そこにはぽつんと紙と綺麗な石とバイクのキーが落ちていた。拾って確認すれば、バイクのキーは兄の、紙はこの資料館の入場チケットだ。
「お客さん?」
びくりと跳ねて、慌てて石とキーをポケットにしまい、紙を手に振り返った。
「あの、もう一人、いたはずなんだけど」
「誰もいないじゃないか。たまにいるんだよなぁ、こういう古いものを見て、昔の記憶が、とか幽霊が見える、とか。まったく、勘弁してくれよ……」
ほら、と差し招かれてのろりと後をついていった。照明の少ない順路を戻りながら目を凝らしてチケットを確認する。守谷資料館、三月十五日、スマートフォンを見れば同日、時刻は夜七時。受付に人はおらず、手形も血の跡もない。カシャリとシャッターの鍵が開けられてその隙間を屈んで通り過ぎた。警備員も出てきて体を伸ばし、やれやれと初を向く。
「どこに隠れてたか知らないが、盗みは働いてないだろうな?」
「やってない」
「まぁ、逃げ出していないし問題ないと思うけど、規則だから一応体は調べさせてくれよ」
ん、と両腕を上げればぱたぱたと体を叩かれ、ポケットのバイクのキーと石を取り出して首を傾げる。まぁ、展示物に石はないしな、と警備員は緩い様子でそれらをポケットに戻し、初の肩を叩いた。
「次は時間を守るんだぞ」
「……っせん」
ぼそ、と言えば、警備員はまた戻って中からシャッターを閉め、奥に消えていった。
初はバイクのキー、綺麗な石、チケットをぎゅうっと握り締めて途方もない喪失感に膝をついた。
兄、境 護はこの日、行方不明になった。そして、初の横には兄がいるようになった。
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