一章エピローグ:履き古したスニーカーの幽霊
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春も過ぎて暦上は初夏、夜十一時半、都会の喧騒を離れ自宅最寄り駅に降り立った。辛うじてタッチするタイプの改札があるだけの駅は、駅員は不在、街灯が照っている間隔も広く、地面は暗い。この時間のこの駅は嫌いだ、と思った。
一緒に電車を降りてきた数人の乗客はバラバラと駐輪場へ向かったり駅から出て左右に分かれていく。ここにロータリーでも一つあれば違っただろうに、残念なことに線路沿いに閑散とした狭い道路があるばかりだ。迎えの自動車が一台停まればそれだけですれ違うのはかなり大変そうで、雨の日には譲り合い、苛立ち、混みあっている。
帰路につく覚悟が決まらずに駅の明かりを背負い、自分の影を見つめていれば人けが無くなっていってしまう。それはそれで困る。肩掛けカバンの取っ手をぎゅっと握り締め、すぅと深呼吸をしたのち、一歩を踏み出した。
か、こ、か、こ、と速足な音が響く。ヒールは足に馴染まず、足の側面も痛ければ爪先も痛い。スニーカーで過ごしていた学生時代、もう少しパンプスなどに慣れておけばよかった。お洒落なんて就職活動で始めたようなものだ。
キャリアデザインセンターから推奨された、ヘアオイルで後れ毛も整えたぴっちりとしたポニーテール、ちょっとした可愛らしさをシュシュで、化粧は薄く、毎日足裏をケアしないと痛いヒール。
最初の三か月は現場の雰囲気に馴染むことから、周りの同性の服装を見て徐々に変えていくと言われ、素直に従ったつもりだ。結局、同じ部署に同性など一人もいなかったので変えようがなかった。
若手が欲しいと言いながら人材教育にかける時間はないらしく、じゃあやってみようか、から突然実務に入らされたのは幸運なのか、不幸なのか、経験がないためその判断すらつかなかった。
もっと大手にすればよかった。自宅から職場まで通勤一時間なら通えると思い、内定をもらった企業に安心してしまっていた。求人媒体の広告代理店の営業がここまで激務だとは思わなかった。企業説明会でアットホームだと言われ、説明する人の朗らかさにすっかりそうなのだと思っていたが、ベンチャー企業で社員数二十名もいないのはそれぞれがエネルギッシュでなければ働けない会社だった。いわゆる体育会系というやつだ。文系で、スポーツなどもやっていなかったインドア派、大人しい系で育ってきた自分にはかなり水が合わなかった。
求人を載せませんか、と右も左もわからないながらに紙ぺら一枚の会話マニュアルを見ながらテレアポをし、人事担当者に繋がることは本当に稀。そしてアポイントをどうにか取ると、上司が一緒に来て説明風景を見せてくれる。契約が取れれば上司の売り上げだ。
だが、商材が弱ければ契約は取れないことも多く、大手の広告代理店の値引きにも、フォローにも敵わない。いったいどうやって稼いでいるのかと小さな声で上司に聞いた。バックマージンで実質値引きを謳って契約を取っているのだ、それはどこもやっていると言われれば、そうですか、と首を傾げるのを堪え、頷くしかなかった。
「辞めよう」
通勤が一時間とはいえ、朝八時から夜十時まで、それが週五日なんてきつすぎる。終業時間の五時を迎えて六時から始まる営業会議は残業代もつかないと五月末の初給料日に知った。ほかの友人たちのSNSがキラキラして見えて、涙が浮かんでくる。まだ三か月目になるところ、仕事の辛さは誰でも一緒、まずは三年働いてみろと大人は言うが、そんなことはどうでもいい。もうだめだ、ついていけないと蹲りたくなった。けれど、ここではだめだ。
スマートフォンの明かりを頼りに線路沿いを歩く。自宅までは徒歩十五分。短くて長いこの距離が怖くて仕方なかった。大学に通っていた頃は平気だったというのに、社会人になった途端、だめになった。この時間帯に歩いたことがなかったので知らなかった。この時間で視界に入る献花がまた怖い。
実家は遠方、大学に通うために一人上京したアパートは近くにコンビニとドラッグストアがあって気に入っている。それもあっての就職先だったが、この帰路を行かなくてはならないのなら、引っ越しもしたい。だが、そのためには金が要る。
「でも、辞めたい」
ぼろ、と涙が零れた。若いからできるだろう、やれるだろう。言外にプレッシャーをかけられて無理です、がどうしても言えない環境。ノルマの達成を求められ初月三十万、次月六十万、来月はいくらになるのか、どんどん上がっていくライン。これはブラックなのではないかと自問自答して、できる人はできるのだ、けれど自分は無理だ、辞めようと毎回同じ結論が出る。
なのになぜ仕事に行くのかと言えば、理由がわからなかった。引っ越しの資金か、せっかく入ったのだから頑張ってみようと思う気持ちか、環境を変えることへの恐怖か、ぐるぐるとまとまらない思考がいっそのこと救いだった。
今日最後の電車が、ガタンガタン、ごぉー、と横を走り去った。もうそんなに時間が経っていたのか。不味い、考え込んでいていつもより遅くなってしまった。慌てて足を速めればヒールが溝に引っ掛かってどさりと転び、リクルート鞄の側面に入れていたものやスマートフォンが飛んでいく。いっそばら撒くのならば鞄の中で幅を利かせている商材の資料であってほしい。使えなくなってしまえと念を送りつつ、思わず突いた手の砂を払う。膝がずきりと痛んだ。
「やだ、最悪、どうしてこんな」
街灯のちょうど中間、薄い明かりの中でまずはスマートフォンを探した。画面が割れていなければいいと思いながらスマートフォンの明かりを追えば、向こうからジャカジャカと音楽の音漏れが聞こえてきた。
――― 来た、と体が硬直した。
ごくりと喉を鳴らし、指先が震える。ざり、ざり、と近づいてくるスニーカーの音が前からやってくる。スマートフォンの転がっていった方だ。とにかく拾えるものを拾った。ハンカチ、リップ、小さな櫛、手鏡、ストッキングは破けて膝は痛かったが慌てて立ち上がった。ヒールは無事だった、走れる。
このところ毎晩こうなのだ。十一時半から零時の間、少しでも帰りが遅くなるとこの音漏れの音楽とスニーカーの音がして、けれど誰もいない。通り過ぎるような距離感で、真横からその音がしても姿は見えない。それどころか逃げると後を追ってくる。ざっざっざっ、と明らかに男が走る足音は怖くて、悲鳴を上げて逃げ帰ったことも一度や二度ではない。スマートフォンを拾って自宅まで走り込めれば、この正体不明の恐怖から逃れられる。少しの辛抱だ、と疲れた心と体を奮い立たせた。
だというのに、今夜は少しだけ違った。ざり、と足音が止んで、街灯の明かりにぼんやりとスニーカーが見えた。履き古されたスニーカーの目の前にスマートフォンが落ちている。すぅっと手が伸びて拾われてしまい、薄っすらとした明かりが顔を映し出し、ひっ、と声が零れた。
やはり男だ。スマートフォンの画面を見ているのだろうか、じっと下を向いていた目がゆっくりとこちらを向いた。
逃げ出した。甲高い悲鳴を上げて足と膝の痛みなど忘れて駆けだした。鞄が体を打つのも構わず、その揺れで、ヒールでの全力疾走で時折足を挫きそうになりながら、膝をかくつかせながらとにかく走った。駅まで戻ってタクシーを呼んでそれで帰ろう。深夜料金もかかる、呼び出した料金もかかる、けれど、命の危険と金であれば前者の方が大事だ。もっと明るいところでとにかく自分の身を守ろう。オバケはどうせ、明かりが苦手なはずだ。
「なんでこんな目に」
泣きながら走って走って、駅に戻ってきた。終電も終わった駅はがらんとしており誰一人としていない。いっそ警察に電話をするか。
「だめ、スマートフォンない、公衆電話もないんだった」
券売機とタッチ式改札機だけがある駅の入り口の中で一番明るいところを陣取ってガタガタと震えだす。信心深い方ではないが、お願い神様仏様、と両手を合わせて強く目を瞑った。聞き覚えのある経文をいくつも唱えてどうかどれかが効いてくれと祈った。
もうこのまま朝を待とうという気持ちと、スマートフォンを取り返したい気持ちの狭間でぐらぐらと揺れる。大丈夫、明日は土曜日だからキャリアショップで解約と再契約をして、と現実逃避をしたところで、微かな音楽の音漏れが聞こえた。
「うそでしょ」
恐る恐る顔を上げれば、ジャカジャカと音漏れる機械音と、ざり、ざり、とゆっくりこちらに向かってくる姿が浮かび上がった。
もう逃げられない。その確信ががくりと膝を突かせた。
オバケは明かりが苦手なのではないのか、着けていたヘッドフォンをゆっくりと首にかけながら短い階段を上り、目の前にやってきた。パーカーにリュックを背負った男だった。すぅっと伸びてきた手に、いやぁ、と叫んで腕を振る。目測を誤り通り抜けることもなく当たることもなく、リクルートスーツが汚れるのも構わずに後ずさり、逃げようとした。狭い改札の道がどうか境界であれと願ったが、男はすんなりとそこを抜けてきた。
「なんなのよ!」
泣きじゃくりながら叫べば、男の背中に真っ黒な靄が見えた。死ぬと理解した。怪奇現象など興味もなかったしホラー映画にも食指は動かなかった。けれど、こういった時にどうすればいいのか少しでも知ろうとすればよかったと思った。
ぎゅうっと目を瞑り、せめて痛い思いはしたくないと頭を抱え込んで防御姿勢を取った。
「聞こえる、聞こえた」
普通の人の声に思えた。少しの間じっと待ち、自分の意識が無くなることもなく痛みもないことを確認し、そうっと顔を上げた。男はまだ若い青年だった。片手でなにかを握っており、もう片方の手には先ほど自分が落としたスマートフォンがあった。
「ん」
スマートフォンを差し出す青年は明かりの下で見れば普通の顔色だった。先ほどの黒い靄が見えない。何度か手を揺らしスマートフォンを受け取れと示され、恐る恐る手を伸ばして受け取った。画面はバリバリに割れていて、いっそカラフルな液晶は電子類特有の薄っすらとした青い光だけがそこに映っていた。
疲れていたのだろうか、様々な理解が追いつかずにぼんやりとしていれば、青年が座り込んで顔を覗いてきた。
「線路沿いって、意外と暗くて怖いよな。思ったより街灯少なかったりするしさ」
言われた言葉をゆっくりと理解して、そうね、と小さな声で返した。
「家、帰れる?」
「……明るく、なったら」
もしかして意外と親切な人なのかもしれない。今までの恐怖よりも、こうして会話ができる相手だという安心感が勝っていく。呼吸と共に脱力し、とても眠くなってきた。睡眠時間だって足りていなかったところに恐怖体験など嬉しくもない。
「いつ、明るくなるんだ?」
顔を上げれば青年はゆっくりと立ち上がり、外を見た。震える膝を宥めて同じように立ち上がり、外を見る。時間が経てば朝が来ると言おうとしたが、遠く薄らぼんやり見えていた街灯が順繰りに消えていき、最後はバチンと破裂音と共に、飛び散るガラスのシャラシャラした音を立てて明かりが消えた。
何が起こったのかわからなかった。青年の後ろでまた後ずさった。
がしりと腕を掴まれた瞬間、駅の外から電車の緊急停止音といくつもの悲鳴が聞こえてきた。音の震動に耳を押さえたいのに青年に掴まれた腕がそれをさせてくれなかった。放して、と抵抗をした。
「あんた、いつからここにいるか覚えてるか?」
「何の話よ、もううんざりなんなのよ!」
「思い出すんだ、その膝の怪我も、壊れたスマートフォンも、どうしてついた」
「さっき転んだからよ!」
違う、と青年が首を振った瞬間、黒い波がついに駅に入ってきた。逃げなくてはと思うのに、青年が逃がしてはくれなかった。ジャカジャカと音漏れしたヘッドフォンが耳障りだ。
「違う、転んだんじゃない、あんたは、はねられたんだ」
「はぁ? なにふざけたこと、いい加減にしてよ!」
「なに言ってんだこいつって思うのは同感だ、俺だって好きでこんなことしてるわけじゃない。でも聞こえちまうから仕方ねぇんだよ」
手、放すからな、と前置きを置いて力が緩み、振り払うようにして耳を押さえた。手で覆っても、指を突っ込んでも直接脳に響くような甲高い金属音に頭が割れそうなほど痛い。まるで自分を責めるようなその音の波に再び膝をついて、なんで、どうして、なんなの、と泣き言が零れる。
「あんたはなんなのよ、ずっと私のことつけてたでしょ、ストーカーなの!?」
「違う」
わっと黒い波が青年の向こうから襲ってくるのを見て再び頭を庇う。その波が一向に自分に触れず、金属音が止み、そうっと目を開いて顔を上げた。青年が片手をそちらへ向けており、そこから綺麗な光が見えて、守られていると本能で察した。
「思い出せ。あんたの両親から、頼まれてきたんだ」
情けない声が出たと思う。言っている意味がわからず、困惑して言葉にもならない音を何回か零した。はじめくん、無事か、と他の誰かの声も聞こえたが、目の前の青年から目を外せなかった。
「大丈夫です。……あんた、いつからこの毎日繰り返してる?」
「それは、就職してから」
「今日やったことと、昨日やったことと、その前にやったことは?」
いったいなにを確認されているのかわからないまま、とりあえず言われた通りに記憶を辿り、頭がズキンと痛んだ。今日は朝から売り上げについて怒られて、テレアポをやって、午後にアポイント先へ行って、上司となにかを話して、帰社して業務後の営業会議でまた詰められて。その前は、と思い出そうとして、なにも出てこなかった。わからない、と答えれば、青年は、じゃあ、この光景、何回見た、と質問を重ねてきた。これは簡単に毎日だ、と答えた。
「今日、何日?」
「五月三十日でしょ」
「……六月の十二日」
鼻で笑えば青年は突き出しているのとは逆の手で自分のスマートフォンを差し出してきた。画面に表示されていたのは六月十二日、時刻は夜十一時半。終電も終わっているはずなのになぜ。
「何度も言うけど、思い出せ。あんたになにがあったのか、俺は、あんたの両親に頼まれてきてる」
「なにを思い出すの? 仕事? 私そんな、なにを忘れてるの」
「言っただろ、あんた、はねられたんだ」
そんなばかな、ここにいるのに。はねられた? 怪我なんて。擦り剥けた膝、壊れたスマートフォン。いや、これは先ほど転んだせいだ。
「受け止めろって! ぐずぐずしてるとマジであんた持ってかれるぞ!」
怒鳴られ、びくんっと体を揺らし、泣きそうになった。青年は舌打ちをすると手に握っていたなにかをポケットに突っ込み、前に差し出した両手を上下からゆっくりと近づけ、なにかを掴んで横に広げた。迫り狂う黒い波はなくなり、ヘッドフォンからの音漏れ以外の音が消えた。来いよ、と促されて青年の後についてふらりと足を進めた。先ほど壊れたはずの街灯は点いたり消えたりを繰り返しながら独特の音を立ててどうにかその明かりを見せていた。
風に混ざる湿気が少し足りない気がした。そういえば五月は雨量が少なくて、と思い出して息を吸った。先ほど帰ろうとした夜とは違う空気。震える足で駅からの短い階段を降りる。この狭い道路ですれ違おうとした自動車が、相手の運転席に目がいっている間に、幅寄せをしてきて。迎えを拾ったところで停まるつもりはなかったのだろう。スーツが黒くてよく見えなかったのも原因かもしれない。
「はねられた……」
ずき、と体中が痛くなってきた。擦りむいた膝からだらだらと血が流れ始め、打ち付けた体はじくじくと痣が広がり、地面で削れた額から垂れた血が視界を奪う。
「死んだの? 私、死んじゃったの?」
まだなにもできていない、まだ遊び足りない、生きたりない。美味しいものだって食べたい、旅行だって行きたい、観たい映画も、読みたい漫画もたくさんある。
「まだ生きてる。あんたの両親に頼まれて、迎えに来たんだ」
手を差し出され縋るようにそれを取れば、ぎゅっと握り締めてくれた。
「あんたのことを捕まえてるものを一気に払うから、その間に自分のところに行くんだ。体に戻る、と思えばいいから」
「……わかった」
「起きたら、俺の名前言ってくれると助かる」
「名前? わかった、あの、教えて?」
青年はそっと手を離し両手を広げながら、さかえはじめ、と名乗り、胸の前で手を打ち合わせた。ふわっと暖かい風に体が飛ぶような感覚がして、目を瞑った。
ピッ、ピッ、と機械音がした。先ほどまで耳元で聞いていた金属音ではないことに、ふぅー、と息を吐いて、体がもぞりと動いた。あちこちが痛かった。目を開けようとすれば目ヤニで瞼が開かず、んん、と呻く。
「さくら! さくら、意識が戻ったの!? さくら! お父さん、さくらが!」
震える手でウェットティッシュを使い目元を拭われ、ようやく開いた目で横を見れば、ぼろぼろと泣く、疲れ果てた母がそこにいた。声が出なかった。水分と栄養を点滴に頼っていたせいでカサカサだった。ナースコールで呼ばれた医者や看護師が駆け付け、よくわからない機械を触りながら奇跡です、というのを聞きながら、さくらはおかあさん、と呼んだ。
「なぁに、どうしたの? もう大丈夫よさくら」
「……め、さ……え、じめ」
え、と笑顔のまま困惑した母は、耳を寄せてくれた。
「……さかえ、はじめ……」
あぁ、伝えられた。さくらは次は穏やかな寝息を立て始めた。
一章【はじまりの怪異】はこちらまで!お楽しみいただけたなら幸いです。
またのんびりと二章書き溜めますので、落ち着いたら続きを投稿していきます。
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