乾杯
――君の『詩』は何と言うか……素直だね。
褒めているようで褒めていない。曖昧に笑いながらどうフォローを入れようか。そんな困ったような笑顔を浮かべた優しくて温かなあの人は、もういない。
詩は貴人の嗜みだ。少し穿った考えかも知れないが難しい言葉を並びたてて自身の知識をひけらかすというのもあるのかも――というのは私の捻くれた思考である。豊かな語彙を並べて美しい世界を描く。
……そんな事私に出来るはずは無いでしょう?
といった言葉は誰にも通じず、出来上がったものは散々なものだ。自分でも分かるのであるから人様が見たら散々なのだろう。その場が――少し凍り付いてしまうくらいには。
つまり圧倒的に私には才能が無い。『幼児でも分かる詩の作り方』なる教本を見せられても、まったく改善はしなかったのだ。当時幼児では無かったはずなのに。
であるので私には教えることはできない分野で在った。それが知られないように立ち回ってきたというのに。
さすがに無理があったのかも知れない。
貴人の嗜みとして一応実家でも習っている筈ではあるから。
ともかく『苦手なものあったんだ?』などと楽し気に宣う沙羅の顔が忘れられない。煽っているようにも見えて、なぜかとても悔しいものだった。
かといって努力で感性が私に備わるはずもない。
溜息一つ。
更々と本日の日誌を書き終えて筆を筆入れに置いた。軽く伸びをしてから窓から外を見れば、漆黒が広がっている。
光はどこにも無く、しとしと、と雨が落ちる音が大きく響いていた。しくしくと痛む足をさすってから近くに置いてあった湯呑を手に取って喉元を濡らす。
本日も薬は苦い。あまり飲みたくは無いのであるがこれが無いと寝込んでしまうのでさもありなん。だ。
「明日も――洗濯物は、乾かないか」
出来ればお日様の下で乾かしたかったのだけれど望めそうに無いだろう。この雨はもう一年以上断続的に続いている。いつ止むかなんて誰にも分からなかった。
でも、恐らく。
「この国が滅ぶまで、かな」
チリリと不安げに手元の蝋燭が揺れた。
の国には『四龍の加護』というものがあるらしい。その加護が強ければ国は繁栄し、その加護が弱ければ国は滅ぶ――そう聞いた。恐らく現状として加護は弱いのだろう。各地で雨は降り続き、作物は凶作。皇帝は病み狂い――後は滅びを待つだけの状態に思えた。
弱いというか、見放されたというか。六年前より加護は目減りしている。
あんなに美しい国だったのに。どこか物悲しい気分になりながら私は大きく欠伸をしていた。
「これ、毒だよな?」
「――?」
ことりと小さな音を立てて湯呑が浮いた。いや、手があるので正確には持たれたというのだろう。視線を上にずらすとよく見知った青年がスンと残った液体の臭いを嗅いでいた。
思わず扉を二度見するが開いたかどうかも分からない。静かにそこに佇んでいる。
幽霊――かとも思ったが、いやいや死んでいないと頭を振っていた。
「沙羅様っ?」
「ん?」
何処から――と上ずった声を上げるが沙羅は軽く肩を竦めて『入口からに決まっているだろう』と言いたげな視線を返してくる。
いや。まったく何の音も。気配も――突然すぎて頭が付いてこない。沙羅は少し顔を顰めて軽く音を立てて湯呑を置いた。少し怒っている。なせだかそのように見えた。
「一緒に酒でもと思ったんだけど。どういう事だよ? 毒を?」
「……あぁ。薬ですよ――。雨の日は足が痛むので」
お陰で毎日常用している。依存するのはあまり良くはないとは言われているが仕方ない。沙羅が言ったようにこの薬は毒にもなってしまうから。
沙羅は『ならいいけど』と小さく独り言ちていた。少し。ほんの少し納得いっていないのは気のせいだろう。
「あの宦官って……沙羅様は毒――薬にも詳しいんですか?」
この部屋は控えの間。というのは名ばかりで、私の雑用部屋である。小さな部屋。そこに本や小道具が押し込まれて居る為に、いろんなものが床に散乱している。当然私が座っている椅子以外に座るところは無い。
少し困ったように沙羅は辺りを見回してから酒瓶を楽し気に掲げている。いや、先ほども飲んでいなかっただろうか。
どれだけ好きで――お酒、強いんだろう。この人。仕事をしろ。が頭に浮かんだが現在夜である。
「いいや。俺が詳しいだけだ。事情があってさ。それより酒を――」
「私は明日早いんですが?」
正確には毎日が早いのではある。じっとりと眺めてみれば 『つまらないなあ』とポツリ呟く。だから仕事は無いのだろうか。この人。
「雪花はここで眠るの?」
下女専用の寮みたいな所に部屋はあるが。使ったことは無い。何しろ遠くて時間の無駄だし。荷物はここにすべてあるから。私としては眠ることが出来ればとこでも良いのである。
『まじか』と辺りを見回しながら顔を顰めている沙羅。
「さぁ。私が言うのも何ですけれど、女性の部屋に音もなく入ってくるのは失礼だと思いますので、出て行ってもらえれば助かるのですけど」
意訳。帰れ。それを流すようにしてははっと軽く笑って、隅に置いてあった椅子を引き摺っている。もちろんその上には本などが積まれていたが床に置き直してまで座った。
帰る気など更々無いようである。内心『えー』と抗議の声が漏れてしまう。それを知ってか知らずかひらひらと沙羅は手を振っている。
「大丈夫。大丈夫。知っての通り俺宦官だし。何もない、ない」
「はぁ」
何もない。考えて曖昧な返事を返していた。
宦官の仕事を私はそれほど知っているわけではない。けれど……私はちらりと沙羅を見た。
宦官という職業に付く者は眉目秀麗なものが多いと聞く。いや。実際多いだろう。少なくとも沙羅以外では。その理由として後宮の妃達を慰める役割を持っているとかいないとか……。
何処をどう――とかは知らないけど。その辺は下世話なので考える事を放棄する。
ということで。なにもない。は少しおかしい気もする。まぁ下女の私と何かあっては困るのだけれど。
「それとも何かして欲しい?」
どこかのエロおやじか。と言いたくなるような台詞だ。尤も。それにあたふたするような人生は送っていない。
沙羅はコポコポと湯呑に酒を注いでいる。それを私に差し出した。残っていた薬の臭いが混じって少しだけ苦い臭いが漂っている。
溜息一つ。それを受け取ると水面を軽く揺らした。
「いえ。私は既婚者なので間に合ってますよ」
「は?」
「……何か?」
正確には未亡人だが言う必要もないだろう。婚姻は十三――仮にも姫様と同じ年――の時だったか。成人未満の婚姻。この国ではそれほど珍しくはない事ではある。口減らしや、家の結びつき。様々な事情があった。それで幸せになれるかなれないかは当然別の話である。
ちなみに私は幸せな方だったと思う。
考えながらすずっと酒を啜る私を呆然と沙羅が見つめていた。視線が合うとコホンと気を取り直すように咳払いする音とが聞こえてくる。
「いや。悪い。人は見かけに寄らずだな、ってさ。ま。いいや。飲もう」
「お話したように明日も早いんですが?」
どこかホカホカし始めた身体。アルコールで温まって来たのだろうか。私はそれほど強くは無くて。昔からすぐ眠ってしまう。そんな体質だった。
ほら――眠い。
そんな私に酒瓶を掲げながらにかっと笑う。
「じゃあこれが無くなるまで付き合ってくれよ。俺は不眠症でさぁ。これが無いと眠ることが出来ないんだよなぁ」
「……はぁ」
それの中身が無くなるまでどれくらいの時間が掛かるのだろうか。考えつつ私は少なくなり始めた湯呑を見つめた。……注がれるまでセットである。
恨めし気に見つめれば『ね。付き合えって』と無邪気に笑っている顔が憎らしい。ただ本気で憎めないのはなぜだろうか。
溜息一つ。
「では。姫様の教師をしてくれる事に感謝して」
乾杯。
それからどのくらいの時間で眠ってしまったのかは覚えていない。ただ。優しい手が私の頬に触れたのは夢だったか何だったか。
久しぶりに昔の夢を見た気がする。