姫君
ぽつりと降り出した雨は、次第に強くなってきていた。雨樋を流れていく音を聞きながら、私はごしごしと乱暴に頭を拭かれていた。
少し乱暴かな。と想いながら成すがままに私はされている。ぐわんぐわんと揺れるる視界。その隅でぷりぷりと怒る可憐な少女の姿があった。
陶器のような滑らかな肌。艶やかな黒い髪は背でまとめられている。一言で言えば『人形のよう』。私から見ても理想のお姫様の姿だと思う。
――実際にお姫様なのであるが。彼女は後宮にある『水華宮』の主。水華妃。皇帝の五番目の妃である。十三歳。そのため幼さを色濃く残していた。その幼さも相まってとても可愛らしく見える少女だった。思わず抱きつきたくなるくらいには庇護欲をそそられる人だ。
長い睫がぱちぱちと頬に影を落す。大きな双眸は怒りの為なのか少しだけ潤んでいた。
「なんで黙って聞いてるんですかぁ。いつだって酷いですぅ。雪花が何かしたわけじゃないのにっ。ねねね、沙羅もそう思いますよねぇ?」
水華妃――私は姫様と呼んでいる――はきっと顔を顰めながら奥で座っている人物に同意を得るように睨みつけていた。
黒い衣を纏った青年が一人で酒を傾けている。地味な顔と少年と思える様な華奢な身体。色を失くした白い髪――しかしながら艶々としている――が印象的な青年だ。
後宮には基本男性は入ることなどできない。そのため目に見える男性はごく自然に宦官と言うことになる。官吏が間と纏う着衣は階級によって色で決まっているから質素な黒い着物を来たこの青年――沙羅は下級宦官なのだろうと予想できた。ちなみに言えば女性名であるのは本名では無くそう名乗っているだけだ。
彼は一年程前から暇を見つけてはここに入り浸っている青年である。年頃は二十歳前後で在ろうか。まぁ大体私と同じ年くらい。
曰く。『ここには誰も来ないからねえ』とサボる目的で来ているらしい。迷惑だけれど、偶に仕事を手伝ってくれているので、無下にも出来ない状況であるのではある。
ただ。酒はどうかと思う。ちらりと外を見れば漸く暗くなり始めていた時間だった。
沙羅は机に置いてあった私の仮面を手に取って弄んでいる。つまりは私の素顔が晒されていることで。それを二人は気に留めた様子などない。
「あの。でも言い返したところで、姫様の立場が悪くなるだけなので」
「で、でも。それは下がりようがもはや無いのでは? だから言い返してもいいと思いますぅ」
下がりようが無いのはそうだと軽く笑ってからポンポンと姫様の頭を撫でる。本来は主従関係。そんな事は許される筈は無いのだけれど、姫様が幼いころから一緒の私はそんな事関係なく撫でていた。姉妹のように育ったから仕方ないと諦めて貰っている。
本人はまんざらでもない様で、怒る訳でもなく猫のように目を細めていた。
「うーん。でも姫様。私すら居なくなりますけど?」
多少意地悪く言うと、慌てた様に私の身体に抱き着いていた。若干涙目である。十三歳。名目上皇帝の妃がこんなに幼くて良いのだろうかと思う。
「それは嫌ですぅ」
「あ。でも。有能な女官が来てくれるかもですし。そしたら人手も――」
「いや。むり」
にべもなく言わなくとも。私は言った沙羅を恨みがましく見ていた。それを気にする様子はない。
「君は下女としてここに入ってきてるだろ? 普通。入宮してきた時に女官が付くもんなんだよ。付いてないってことはその時点でだめだろ?」
そんな事は分かっている。ただ希望を言うのは自由だと思うのではある。
やはり――皇帝はここの存在に気づいていないだろうなぁ。ちなみに私は下女だ。しかも独立型で後宮には属していないという立場である。なので女官などには面と向けて会ったことはない。
私は姫様を剥がしつつ、沙羅の前に立った。
机に置かれている本の背表紙を撫でる。もう一つの本はともかくとして歴史書が雨に濡れなくて良かったと息を一つ。本は貴重なもので損壊すれば幾らになるか分からない。
「では沙羅様がここに誰か来るように進言してくれると助かるのですが。勉強を見てくれる人でも――。いい加減、私がいろいろ教えるのはやっぱり限界がありますので」
仮にも『宦官』だろ。という思いを込めて見つめれば、じっと沙羅は私を見上げた。その目はどこか探るようにも見える。
居心地が悪くて私はほとんど無意識に目を逸らしていた。
疑われるのは仕方ない。下女なんて教養全般習っているはずは無いのだから――習っていたとしても私ほど叩き込まれている人間も珍しいだろうか。
一介の女官と変わらないくらいは……いや。それ以上に知識はあると自負している。それを引けからそうとは思わないけれど。
少し溜息が聞こえて、目を向けるとくっと盃を傾けている。別に問いただすつもりは無いようだ。それに少しだけ胸をなでおろしていた。
「知ってるだろ? 俺たちにそんな権限はない。大体俺の立場としてはここの宮女や女官より少し下なんたよ。ほぼ、君と一緒だぜ? まぁ、それなりには勉強は叩き込まれているけど……あ。勉強なら俺が見ようか?」
それはそうだけれど。私たちの様に無視されると言うことは無いわけで。ちなみに高貴な人に口を自ら開くのは許されていないし。
むぅと口を―の字に曲げていれば、話を割るように私の前に茶が置かれる。
「え、沙羅は雪花よりも勉強ができるんですかぁ?」
純粋な疑問なのか煽りなのか。多分疑問だろうが煽りにしか聞こえない口調に少しだけ沙羅の口元が引きついた。悪意はない。他意もない。なので怒ることすらできないようだ。
じっとりと見つめられた姫様はよく分からず盆を持ったままこてっと首を傾げていた。
「……一応宦官にも試験はあるんですけどねぇ?」
ちなみに官吏になる試験はとても難しいらしい。『官』付く者はすべからく――武官を除く――この試験を受けているはずだ。であるので沢山の受験者がいる中合格するのは僅かだと聞いていた。……そこまで姫様の勉強の質を上げることは無いだろうか。と考えながら姫様の淹れてくれたお茶を啜った。
美味。
「なるほどぉ――あ。じゃあ雪花が苦手な部分を教えてもらってもいいですかぁ?」
少し考えるようにして視線を潤かいさせた後で、ぱっと『良いことを思いついた』と言うように沙羅を見つめる。それを訝し気に沙羅は見つめていた。
「苦手な部分って?」
「……ん?」
全般的には教えたはずだど何かあっただろうか。苦手科目はそれなりにある。だけれど授業には支障が無いはずで。予習復習もきちんとしてるし。――私が。気のせいだろうか。私は毎日目が回るほど忙しい。
もう微かに眠いのは内緒だ。
ともかくとして何が足らないのだろうか。などと考えつつ姫様を見つめた。大きな双眸が真っ直ぐに沙羅を捉えている。
「詩を教えてください」




