表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨上ノ詩  作者: stenn
25/32

重い瞼

 ――ここは。何処だろう。


 重苦しい瞼を開ければ霞む視界に知らない天井があった。かび臭い古びた天井はどう見ても貴人の住まいではない。端にあるのは蜘蛛の巣だろうか。


 耳に入ってくるのは喧噪。人々の活気が壁越しに伝わってくるような気がした。視線を逸らして窓がある方向を見れば締め切られた曇り硝子から淡い光が差し込んでいる。


 まるで晴れているかのような。


 まさかと考えて再び視線を天井に戻してゆっくりと自身の手を上げた。それだけでも酷く重く、怠い。それをするだけでも体力が削がれそうな気がした。


「生きてる」


 空気に溶けるのは掠れていて声にならない声った。


 視界に入るのは骨と皮のような骨ばった自身の掌。元々荒れ放題でささくれ立っていたし、白くは無かったけその手は今では斑に、まるで汚れが付いたみたいに黒く色が変わっている。それでと私は息を付いていた。


 ――まだ、生きてる。


 もう一度ぽつりと口元を動かしていた。


「おぅ。漸く目覚めたか」


 暫くぼんやりと手を眺め、辛くなってきたころ。軋むような蝶番の音とととと共に、声が響いていた。しゃがれた声。それは老齢だとすぐわかるものだったが力強く生命力を感じさせた。


 聞きなれた声に私はぱたんと力なく手を落し、視線だけを声の方向に向ける。


「先生――」


 大きく声を出そうとしてせき込む。私の横で水差しから水をその人は汲んでいる。その皺が深く刻まれた横顔は少し怒っているように見えたがよく考えればいつも怒っていた事を思い出す。


 元々の主治医で、私の身体の事を誰よりも知る人なのではあるのだけれど。なぜここにいるのだろう。首を捻っていると『馬鹿か』と悪態をつかれた。先生は細い腕で私の上半身を抱えあげ。そのまま口元に水を流し込んでいく。その細さに何処に力があるのだろうと不思議に思った。


 冷たい液体が喉を潤し身体にいきわたる様だった。ジワリと満ちていく感覚。よほど喉が乾いていたのだろう。そんな自覚は少しも無かったのだけれど。


 ふうと息をついて口を開いていた。


「……あ」


 の。


 声を遮るようにペチンと額を叩かれる。


「喋るな。ったく――馬鹿な娘だ。だから俺は行くなとあれほど。……こうなることはどこかで知っていただろう?」


 先生は私を座れらせたまま――負担にならないように枕を背に詰めてもらったが――離れて近くの椅子に座る。多少その顔に疲労が滲んでいるのは恐らく私のせいだろう。


 記憶は無いわけではない。何があったかもうっすらとは覚えてはいる。だがそれが現実に感じられるかと言えば別だ。何かの物語の中を見ているようなその感覚は恐らく私の防衛機能なのだろう。それとも私の心が死んでいるか、か。


 私は薄く笑う。


「後宮に入った時点で、何もかも覚悟してましたので大丈夫ですよ。何があっても。それは先生にもお伝えしたかと」


 その後で喧嘩になったことは懐かしい思い出。ほとんど一方的に怒鳴られて私も譲らなかったものだからそのままで後宮に来たので久しぶりの再開てあるが感動の再開とは行かないものだ。


「馬鹿か」


 先生はぽつりと落すように呟いていた。落す肩は以前より小さく見える。


「心配かけてごめんなさい」


 溜息一つ。じろりと私を睨むように見つめた。何かを言いかけてぐっと口を噤む。言えないことに苛立っているのか何なのか。拗ねた様に口が歪んだ。


 子供か。と心の中で突っ込んだのは言うまでもないがそれを言えば怒涛のように怒るのだろうと言うことは容易に想像できた。


「は。俺は心配などしておらん。ふんっ。謝るなら発狂状態になったおまえの小娘にでも謝っておくんだな」


 視線をずらして先生は軽い音を立て引き出しから薬を取り出していた。それを手際よく湯呑に入れて軽く溶かした。それを無造作に私に寄越す。飲め。と言う威圧が凄い。


 それを受けとって緑の水面を眺める。そこに映る顔色の悪い皮膚がある程度変色した小汚い女が映りこんでいた。


 まるで死相が見えるようで苦笑を浮かべるしかない。


「姫様――は後宮に?」


 私はぐるりと視線を巡らせていた。


 ここがどこだか知らないが。後宮ではないのは分かる。かび臭いのも埃っぽいのも蜘蛛の巣も日常ではあるが、喧噪。それだけは無かった。雨音だけが響く世界だったから。


 姫様は後宮からわざわざ来てくれていたのだろうか。と考えていると呆れたように溜息が頭の上に落ちた。


「は。馬鹿か。お前。自分がどこから逃げたのか考えてみろよ。小娘があそこにいることなど出来ないだろ?」


「――何処」


 皇帝。と言う言葉に一瞬どくりと心臓が波打った。脳裏を掠めていくのは古い古い記憶。覚悟なんてしていなかった頃。むき出しの感情で絶望と虚無を味わったあの日。


 赤い太陽が積み上げられた死者を燃やすように照らしていた。そこには貴賤の差などなく、老若男女問わず。


 平等であった。


 死臭が漂う世界の中で動くのは私と烏だけだった。


「あ」


 さぁっと血が頭から弾いていくのが分かった。湯呑を持った手がカタカタ震えだすのは恐怖と不安なのかはたまた自身の力が無いのか分からない。制止しようとしても自分自身の力では無理でそれは次第に大きくなって行く。


 緑の液体が零れ落ちさうになった時に私の手は押さえつけられていた。


 揺れる双眸で見上げれば先生はぐっと何かを耐えるように見下ろしていた。泣きそうなのは私だったか先生だったか。


「落ち着け。雪花。問題ねぇよ。小娘の故郷――凱も無事だ。心配ない。あんたの小娘も――元気だ。まぁ、きな臭いが凱の軍事力知ってんだろ? 早々負けない」


「でも」


 いずれば推し負けるだろう。凱の人間は有限で国は全地方から人間を集めているのだから。そして一度上げた拳は振り下ろせない。それは全滅に繋がるのを知っている。


 私は姫様が死ぬのは嫌だ。その姫様が大切にしている人たちも。大切にしている世界その者も。嫌だ。


 あの笑顔が失われるのも。


「姫様が死ぬのは嫌」


 震える声で言えば先生は些か困ったような呆れたような笑顔を見せる。皺が深く刻まれた手は宥めるようにして私のお玉を軽く撫でた。温かな優しい手は昔から変わらない。


「いつも『姫様』だなお前。いい加減、お前を命がけで拾ってきた奴が泣くぞ――まぁ。それは奴の問題だからいいとして。大丈夫だ。問題ない。むしろジリ貧なのはあっちだろう?」


「どういう?」


「政を放棄した。国に呪われている皇帝など国民(おれたち)は要らねぇんだわ」


 そう言った先生はすがすがしく笑って見せた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ