後宮の隅
曇天。今にも振り出しそうな湿った空気が頬を撫でる。ここ暫く――どのくらい続いただろうか――降っていた雨が漸く上がったというのに。これでは洗濯物は乾きそうに無い。それにと、私は自由にならない右足を軽くさする。こんな日は足が強張るように痛かった。
整えられた美しい庭も曇天の下では鬱々と見える。
溜息一つ。庭から視線を剥がすと私は杖を付きながら軋む板張りの廊下を歩いていた。その手には書物が数冊。軽めの歴史書に紛れて市井で流行りの恋愛小説などが在った。――私自身が読むわけではなく、見せてもらうだけだし。と心の中で誰ともなく言い訳する。
少しだけ逸気持ちで歩いていると、目の前に同じような薄墨色の服――それもそうで支給品――を着た女達が歩いてきた。最も私自身も同じ格好をしているわけではある。
後宮最下層身分――下女。
そうここは後宮だ。『壁国』城壁都市『陵』。その中で最も奥にある後宮は広く、現在五人の妃が滞在している。
もっとも。現皇帝が渡ることは滅多にないのてはあるが。有名な話。現皇帝は気狂いで政治もままならない状態と聞いたが。それを私が確かめる術などなかった。
結局、この空の状態が表しているのかも知れないけれど。と心の中で転がしてから、私は軽く杖のおを立ててこちらに来る下女に道を譲る。
それほど広くない廊下だ。向かってくる下女たちが横並びを止めてくれれば良いのだが、止めてくれる様子が無いのはわざとなのだろう。今更何も思うことなどないけれど。
でも。きっと相変わらず。と陰鬱な気分で私は彼女たちにちらりと目を向けた。ぱちりと目が会う一人はにっこりと笑みを深めてくる。面白いもの。おもちゃを見つけたかのような笑みにうんざりした。
「相変わらず、陰気だよなぁ――ええと何だっけ? 泥だったけ? 名前」
むしろ。貴方の名前ですか? と言いたくなるのを我慢する。ここで喧嘩はご法度で。私だけにバツなど来ず、間違いなく私が使える主人にも罰が行くからであった。
そう言えばこの質問は何度目だろうか。そんな事を考えながらにっこりと笑う。
「雪花です」
「あ――そ。なぁ、おい。その仮面剥がしてみろよ?」
私は左目から頬にかけて、中途半端に隠すように仮面を付けていた。左目は見えているのだけれど、その容姿が『見ていて心地いいものではない』という理由からだ。まぁ、それもあってか毎回こう絡まれる。化粧も考えたがそれはそれで別の懸念があったので、私はそれを断念した。
ともかくとして見世物になる方はたまったものではない。
「貴方の言う事を聞く必要が在りますか? ええと――誰でしたっけ?」
下女と言っても、その使えている主によって力関係は変わってくる。まさに虎の威を借りる狐状態になってしまうのであるが、目の前にいる下女もそうらしい。
確か――第二后妃に使えていたような。ともかく第五后妃である私の主とは天と地の差があった。その実家が持つ力を含めて、だ。
だからと言って、別に私がこの下女の命令を聞く必要はない。
「関係ねぇだろ。いいから剥がせって」
落ち着きはらった私に苛ついたのだろう。女は顔を歪め声を多少荒げて言うと、別の女が私の杖を奪い取る。
刹那――私の身体は安定性を失くし崩れ落ちていた。足に力は入らない。『あ』という前に、ぐらりと揺れる身体。止めと言わんとばかりにその背中を蹴られたためだろうか。私は躍り出るような形で庭に倒れこんでいた。
水を含んだ地面。ジワリその水が服を汚していく。
傷は少し肘を擦りむいて肩を打撲した程度だろうか。幸いにもそれほど痛くは無かった。
からんと小さく音を立てて、杖が投げ捨てられるのが分かった。
「……」
「つ――あははははは」
何が面白いのか分からない。見上げた女達は楽しそうに笑うと、私の仮面を乱暴にはぎ取った。カランと軽い音を立てて落ちる仮面。それを見た後で中心にいる女に目を戻す。
まったく――もう。なぜこんな顔が見たいのかも分からない。何を言おうが喜ぶだけなので、いつからか反応する気も失くしてしまった。
「うわぁ。相変わらずキモいなお前……」
相変わらず、はこっちが言いたいのではある。いつも失礼だ。本当に。ただ、彼女が言うようにそれに対しては私自身も同意せずには居られないのでもはや傷つくこともない。
――開き直ってるといったほうがいいだろうか。
心に傷が付いたところでこの痣が治ることもないのだから。
他の女達は私の顔を見るなり、軽く息を飲んだ。漸く気づいたが初めて見る顔が多いようだ。もちろん知り合い――顔を知っているだけだが――もいるけれど。
若干幼い彼女らは新入りだろうか。などとどうでもいい事を考えていた。
予想外の酷さだったのだろう。多少怯えた声が響く。
「え。これ……うつらない? これ。だいじょうぶかな。……来香」
「さぁてね。ま、触んないほうがいいかも? ――まったく。水華宮の姫様も散々だよね。こんな奴に世話してもらって。可哀相に。だからあの人も目が出ないんだ」
基本的に后妃の名でなく滞在宮の名で呼ばれる后妃たち。私の主は水華宮に住んでいるのでそう呼ばれていた。
ちなみに私しかお世話をする者がいないが、私の所為ではない。何処からも人と予算を回してもらえないのである。ほぼ無視状態。またしても悲しい実家の力だった。
古い名家でもなく、王家でもなく。商家の出。ただ単に家の力を削ぐためだけの縁談――。まぁ我が主としても、この縁談を発端として削がれるどころか拡大をしているのではあるが。もちろん目立たないように。伊達に商売人はしていない。
時折考えるのだが皇帝は私の主がいることを理解しているのだろうか。三年前に入宮してから一度だって顔を合わせたことが無かった。
狂っているなら仕方なし、かも知れないが。
「……はぁ」
私が曖昧に返すと何が気に入らなかったのか来香は私に仮面を投げつけようとした。それはさすがに怪我をしないだろうか。そして情緒不安定は何処から来るのたろう。
真剣に考えながら仕方なしに構えていると、ぱしんと振り上げられた来香の手を誰かが掴んでいた。
「なにして、るんだ?」




