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雨上ノ詩  作者: stenn
19/32

嫌な予感

 その宮は静寂に包まれていた。叩きつける雨の音だけが酷く耳に残る。『ただいま』と悪びれる様子もなく迎え入れるいつもの人の姿はなく、少女――水華は隣で所在なさそうに立つ少年の手を握っていた。押し寄せるのは不安。あるものが、当然にしている者が無ければ不安になる。


 やり残した掃除の後。火鉢には鉄瓶が乗っていたが空焚きでそれ自体が熱を持っている。それは絶対に自称下女の雪花がしない事でもあった。


 そう。自称であり、雪花自体は確かに宮女として登録したはず――実家から世話をする侍女を一人だけ登録できる――はずであったのに。本人は頑なに下女に固執したのである。水華としては楽をさせたくてここに連れてきたつもりなのに、まさかこんな扱いを受けるとは思ってみなかったので、水華にして見れば申し訳ないばかりしかない。おまけに水華自身は『妃』という立場ではあるが何の権限も持っていない。忘れられた存在であった。


 もしかしたら、高度な医術に身体も治るかも知れない。そう考えていたのに。現状は治るばかりか悪化する様に見えた。


 連れてこなければ良かった。日々罪悪感が増していく一方だ。雪花は『こんなところ』に来たくなかったろうにと言うことは知っている。だがそんなことは絶対に雪花が言うことはなかった。


 ぐっと口元を軽く結ぶ。


 知らないはずなんてない。雪花の病気が治らないなんて言うことは。もうそれほど『もたない』という事も分かっていた。


「雪花」


 呻くように言う水華に。励ますようにして、きゅうと手を握り返したのは少年――譲雨であった。揺れる双眸は見たこともない、異国にいるという鮮やかな水色だった。ふと優しく笑う。どう見ても年下の少年は同い年だというのに、所々どこか水華よりも大人びている。それが時々すらやましくもあり、悔しかった。


 尤も――身分は水華の方が臣たるものになるのでそんな事を思うのは不敬なのだろうが。


「大丈夫だよ。あのね。雪花さまには師匠がいるから。それに、向こうにいるかもだよ」


 師匠。――宦官の沙羅で『詩』の先生であった。自力でほとんど覚えた為それほど教わることも無かったが、彼の人が紡ぐ詩は叙情的で美しいものである。何処で教わったのかと問えば『覚えていない』と軽く笑っていた。嘘なのか本当なのか水華には分からない。ただ宦官の教育でそこまで教えるものだろうかとは思った。どちらかと言えば専門に教わったような雰囲気すらある。


 それに――と考えて水華は頭を振った。今はそんな事を考えている場合では無いのだと。


 宥める様な譲雨の声に水華はこくりと頷いてからぐっと引っ張るようにして譲雨が前を歩いていく。


 裏の扉から納屋へ続く廊下。屋根からはしとしとと雨粒が落ちて、地面に水たまりを作っていた。手入れの行き届いていない庭は鬱蒼としていて、何が潜んでいるか分からない様相を呈していた。言うなれば少し不気味で不安を煽る。


 我知らずきゅうと譲雨の細い手を握れば確りと温かな手が水華を感で放さなかった。『大丈夫』そう言うように。


 その背中は出会ったころに比べれば逞しくなった様に見えた。身長も僅かではるが伸びた気がする。頼もしいし嬉しい事だ、が――その為なのだろう。前が些細ではあるが見難かった。


 肩の向こう。洗濯ものが干してあるのが見える。向こうに居るのだろうか。


「あ――」


「何してるんだい? 君たち。というか、また抜け出していたんだね?」


 それほど進んではいない廊下で後ろから声を掛けられるとは想ってはいなかった。『ひっ』と小さく悲鳴を上げて水華は譲雨の背中に縋りつき恐る恐る振り向いていた。


 そこにはよく見知った青年が立っている。彼――咲耶は優美な眉を顰めて見せた。いつ見ても華を背負っている青年だと思う。それなりに後宮では人気があるし実力がある咲耶。ただし、水華は好きになることはできなかった。


「人を幽霊みた――」


「――雪花?」


 咲耶がその腕に抱いているのはぐたりとした女性――雪花だ。サラサラとした黒い髪が頬から滑り落ちた。長い睫が苦しそうに揺れる。


水華は咲耶を押しのけるように駆け寄るとその顔を覗き込んでいた。何かあったのでは。と少しだけ肝を冷やしたがどうやら眠っているようで安堵する。一方、押しのけられた咲耶はどこか不満げに溜息一つ、わざとらしく吐いていた。


 気にはならない。それよりも眠っている雪花がとても――今までに見たこともない――幸せそうなのが気にはなった。


 幸せなのであれば、いいか。そう思い形のいい頬に流れる髪をさらりと避けた。


「寝ているだけだよ。どっちもどっちで過保護だよね。君たち。あ、譲雨君、雪花を頼めるかな? 僕はあのバカを回収しないと」


 否は言わせないうちに譲雨の小さな身体に雪花を押し付けた。雪花は小柄な女性で、痩せている方ではあったがやはり大人であり、華奢で小さな譲雨には無理があるように見えた。


「あ――」


 落さないと言う不安は杞憂らしい。『だいしょうぶだよ』とヘラリと笑うと譲雨は雪花を抱え直した。重さに顔色一つ変えることはない。


「あの、師匠もいるんですか?」


 師匠――。沙羅の事だと雪花は思い出していた。前は。というか水華宮に来るまでは普通に『沙羅』と言っていた記憶があるが、沙羅か『師匠』と名乗ったためそう呼ぶことにしたらしい。実際にも師匠であり、基礎的な学問と武術は沙羅に習ったと聞いた。


「ん? 珍しく向こうで寝てる」


「寝て?」


 驚く様に眉を譲雨は跳ねた。意味ありげににっと咲耶は口を歪め、納屋の方に目を馳せる。


「ああ。寝てるよ。多分、今僕らが近づいても起きないと思うぞ」


「……そう、ですか」


 考える様にその水色の双眸が揺れた。その横顔を水華は覗き込む。


「どうしたんです?」


「あぁ、基本。あれの眠りは浅くてね。眠るのも一苦労な体質をしてるんだ。眠っていて、近づいても起きないということは無いんだ。だから驚いてる」


「相当疲れていたと、という事です?」


「そうかもしれない。ともかく。貴重な眠りに導いてくれた雪花には感謝だな」


 クシャリと大きな手が水華の頭を撫でた。子供扱いではあるがそれを不快に思わなかった。優しい父親の様な視線が水華を捉える。その双眸を水華は不思議そうに見つめ返していた。


「上司って、普通こんな事も心配してくださるんです?」


 実家に居た頃の記憶によれば――商家であるので――従業員の健康について気を配ることは在れど家族の様に気なにしたりはしなかった様に思う。


「それは姫様の雪花にも言えることだと思うよ」


「――だって、雪花は家族なのです」


 水華が子供の頃から姉妹の様に育った。家族の様に。だから雪花と従業員や家人とは違う。心外だと暗に言って見つめれば、再びぐりぐりと頭を撫でる。


 あぁ。と咲耶は小さく息を吐くようにして言葉を落した。


「僕らは子供の頃にここに捨てられ(・・・・)てね。それ以来全員兄弟であり、家族なんだよね。だから僕は沙羅を弟の様に思っているよ」


 その表情はどこか悲しみが混じっているように聞こえたし、実際そうなのだろう。『捨てられた』という言葉かが幸せに生きてきた水華の心に刺さって双眸を揺らす。


「ごめんない」


「はは。そんな顔することない、ない――僕がまだまだ修行不足だね」


「――つ」


 何も答えられずにいると、雰囲気を入れ変えるようにパンと掌を叩く音とに水華は顔を上げていた。そこにはにこりと掌を併せてにっと笑っている咲耶がそこにいた。


「そういえば茶会に着ていく服は僕が見繕ってあげるよ。ま、今更だけど」

 考えても居なかったことを言われて水華は目を瞬かせた。


「え、外に行かなくても?」


 偶になら良いとは思っていた。だけれと毎日となると心配ではあった。ここの業務を完璧に終わらせて、水華を眠らせてから働きに――そして翌朝早く起きるなんて水華から見ても無理しかないのだ。本人は平然としていたが、その顔色は明らかに良くは無い様に見えた。


 それに――いつ後宮側に伝わり処されるのか不安な日々しかない。


 止めても聞くことはない。水華は主だというのにあまりにも無力だ。茶会など一つだって興味などないのに。本当は行きたくもない。


 咲耶は苦笑を浮かべた。


「実は、揺籃にも怒られていてさ。ちょっと遊びすぎたかな。と――。じゃあ。僕はそろそろ行くからまた連絡するよ」


 かたんと音がして譲雨は水華の隣に立った。その腕に雪花いいない。話しているうちに寝台に寝かせてきたのだろう。その手は当たり前のように水華の手を握った。


「あのっ」


 くるりと身を翻す咲耶の背。引き留めるようにして水華は声を掛けていた。


「ん?」


「ありがとうございますぅ――この御恩はいつかお返しますので」


 返すとは言っても水華は力がないので、何をすれば良いのか今はまだ思いつかない。だけれどちからになることは出来る。思いを込めるとははっと軽く笑う咲耶。


「元々は僕が面白がったのが悪いのだし。気にしない、気にしない。じゃあね。譲雨君と姫様。また」


 ぱたぱたと去っていく咲耶は眠っているらしい青年を抱えて鬱蒼とした庭の中に消えていった。


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