朱の灯
暗い世界にしとしとと雨が降る。何もない。静かな世界だった。が――。開けたその場所に在るのは浮き立つように光に包まれた建物だった。すべての窓からは光が溢れ、その中は昼も夜もないようだ。まるでこの世界に在らざるものかのように異質なものだった。
老若男女関係なく誰もが歌い踊り、享楽に耽る。すべての現実から目を逸らすような――そんな場所だった。
「とどうしたのかな。棗」
呆然と建物の前で立ち尽くしている私を押すように背中を軽く叩いたのは咲耶だ。いつもの着崩れした官服では無く、民間の青年を装う服装をしている。その姿はどこか世間慣れしていない名家の青年に見える。
――そしてその横には……。
私は盛大に溜息一つ付いた。
「ええと。なぜ付いてきたんですか?」
「え? 面白そうですのでぇ」
「ぼくは水華が行くって言ったから」
姫様は少年の恰好で。咲耶の侍従という雰囲気を醸し出している。そして譲雨は可愛らしい少女の恰好をさせられていた。一応姫様の安全の事を考えての事であったが、恐らく大半が咲耶の趣味だ。もちろん譲雨は不服そうであるが、姫様が『かわいい』と褒め讃えたのと、現状でもう忘れているようである。
何しろ外に出ることが出来るとは思っていなかった壁の外。興奮は隠しきれていない。目をきらきらさせて、どこか行きそうになる二人を何度軌道修正しただろうか。
私は顔を引きつらせていた。
何かあれば私の命だけでは贖うことなど出来ないのに。それにここはどう見ても大人が集う店だ。未成年――この国では成年は十六だ――が来ていい所ではない。
――なぜに。
半ば八つ当たりの様に咲耶を軽く睨む。咲耶は軽く悪びれた様子もなく肩を竦めて見せた。
「だって来るかって聞いたら行くって言ったからねぇ。揺籃も行くって聞かなかったけどさすがに置いてきた」
揺籃も来ていたら収集が付かない気すらする。止めてくれてありがとう――ではなく。頭痛がするような気がして軽くこめかみを抑える。
勘ぐりたくは無いのだけれど――揺籃だけは守りたいと言うそんな想いが見え隠れするような。
お気軽に『来る?』とか言わないで欲しい。
「いや、そう言うことではなくて」
「大丈夫ですよぅ。私たちはピタリと雪花に付いていくのです」
ふんすとやる気満々に鼻を鳴らしている。その横で『すごーい』と言っている譲雨はもはや腰巾着にしか見えない。
いいのだろうか。将来の皇帝がそれで。
「……いや。姫さん達は僕に付いてくるんだよ。僕の侍従って体だからねぇ」
ポンポンと小さな子にする様に咲耶は姫様の頭を軽く叩いた。それは撫でるように優しく――だ。姫様は不満そうに口を開く。
「じゃあ。雪花は――ああ。棗は何なのです?」
なぜ私だけ『棗』と名乗るように言われたのか謎だ。いや。名前など別に何でも良いのだ。ちなみに私はなぜか薄汚い襤褸を着させられている。杖もついているし足も不自由だし。仮面は『いらない』なんて言われて外された。そして髪は留めることもなく、だらりと伸ばしたまま。――幽霊のようであった。
……なぜに? 暗いためか私の顔など誰も気にしないのは良いのだけれど。
ここに来た目的は確か――沙羅のお金を取り上げに……そもそもそれになぜ私たちが同行しているのかは分からない。
来るよね。と良い笑顔で言われたので、来るしかなかったのか現実で。私たちが『いない』ことは何とかしているらしい。しかしながらどうしているのかは話してもらえていない。聞かないほうがなんとなく身のためのような気がした。
そしてバレたら確実に私はどうあがいても処されるはずだ……。何があってでも。そうなったら道連れにはさせてもらおうととは思っている。
「あぁ。それは――」
「あら。若様じゃないのさ? 久しぶりだねえ」
艶のある明瞭な声。振り向けば豊満な胸を惜しげもなく強調した衣装を纏った女。その顔は年齢不詳の美女。波打った黒い髪。涼し気な目元の黒子が印象的だ。
手には煙管。厚ぼったい官能的な唇からはほうっと白い煙が浮かんでは消える。茶の双眸はお子様二人組を一瞥していた。
当の二人は呆気に取られたような顔をしていた。それはそうだろう。清純を良しとする――実態はそうでもないが――後宮でこんな妖艶な女性はいない。二人にとって別の世界の住人だろうと思う。それは二人だけではなく。市井に降りたことも無い私にも言えることだけれども。
「新しい――侍従かい? けど。ここはガキはお断りだよ? アンタら、年は?」
十三。四。と次々に答える。少しだけ違和感を覚えたのだろう。軽く眉を跳ねたが何も言う事とは無く、『そう』と小さく美女は息を吐いて咲耶を見つめた。どう言うつもりなんだい。そう言いたげな視線に咲耶は人好きのするような顔でヘラリと笑う。
「今日は遊びに来たわけじゃないからねぇ。目的はこの娘でね。金もないし、働くところを探しているって言うから連れてきた」
『は――?』と疑問の声を打ち消すかのように、とんと押された背中。私はよろりと一歩踏み出してしまう。目の前に美女――女将の胸。その目は私を値踏みする様に見つめていた。
「うちは慈善事業やってんじゃないんだよ。足も悪い。見目も悪い。どう使えって言うんだよ。――つたく。お前。何か出来るのかい?」
「え、と?」
まって。
私。働きたいとは一言も言っていないけど。なぜこうなっているのか分からず目を白黒させてしまう。
「失礼ですぅ。せっ――棗は何だって出来るんだから」
だから働きたいとは思っていないので後ろから撃たないで欲しい。姫様は自慢げに鼻をふんすと鳴らしている。何も考えていない顔だ。多分自慢がしたかっただけなのだろう……。譲雨はその横で困惑した表情を浮かべている。多分状況を理解はしているのだろう。だったら止めてほしい。切実にそう思った。
女将は思案するように視線を宙に向け、手を顎に置いている。暫くしてゆらりと視線を私に戻していた。
「なら――そうだねぇ。例えば、アンタ楽器は出来るかい?」




