ワニと泳ぐ
夏と共に、噂がやってきた。
「夜になるとね、音楽室からピアノの音が聞こえるんだって」
「それと女の人の泣き声も」
「あと鏡に子供が映るって」
ざわざわと生徒たちの声がぶつかり合う中でそんな声ばかり耳に届くのは別に私が好きだから意識して聞き取っているとかではなくて、それくらい教室中で同じ話をしているのだ。学校七不思議なんて、小中高と十年も学校にいれば飽きてくる頃だろうに。関東にありながら田畑に囲まれた長閑なわが天羽高校は中学から繰り上げ式であるため、形式的な入学式からたった三ヶ月の教室でも既にグループが固定され、昼休みは絶えず声で溢れている。
「何でこんなに流行ってるの?」
向かいに座る夏子が弁当と購買で買ったプリンを食べ終わるのを見届けてから、常備している菓子の詰まったポーチを差し出し、そう尋ねてみた。夏子は「ありがとう」と言いながら情報量を受け取ると、5センチほどのクッキーを一口で頬張る。むせそうだ。
「なんか、見た子がいるらしいよ」
「何を」
「何ってそりゃあ、お化けでしょ」
言いながら両手首を揃って胸の前でぶらりと垂らし、怪しげな声音を作り出す彼女、六合夏子は、やはりこの突然の流行の原因を知っていた。中学で知り会って以降、人間関係の機微に疎い私の情報源の殆どが、噂好き(自称情報通)の彼女だ。人懐こい笑顔で新しい交友関係を育んではネタを仕入れ帰ってくる。しかしだからと言って、学業としての知識が飛び抜けているわけではない。夏子が拾うのはあくまで噂やその事実関係という、日常を潤すちょっとしたスパイスたり得るものだ。机に置かれたままの私のポーチから勝手にもう一つチョコレートを取り出すと、大きな粒をまたも一気に口へ放り込んだ。
「3組の子が先週の夜、誰もいない教室で楽器の音を聞いたんだって。その話が廻り回って尾ひれを5本くらい引き連れて七不思議の出来上がりよ」
見てはいないんかい、という言葉は胸にしまった。
「機械とかじゃないの?」
「さぁ。社会科教室らしいんだけど、誰もいなくて鍵もかかってたって。今は妖精の音楽って呼ばれてる」
「妖精?」
「音色がすごく綺麗らしいよ」
「へぇ」
たまに授業でも使われる社会科教室は入り口ドアに小窓があるので、確かに人がいないことはすぐに分かるだろう。怪談と呼ぶには少し弱い気もするが、噂の発端なんてそんなものだろうか。それから夏子は、
「あとはやっぱり夏だからね」
と付け足した。
「もう夏か。早いなぁ」
「覇気がないなぁ、おばあちゃんかよ」
「今年も夏祭り行くぞ!」と気合十分な夏子の、期末考査の結果に想いを馳せる。そろそろ返却される答案が平均点以下なら夏休みは補習だぞ。
椅子の背もたれにぐいと体重を預け天を仰げば、プラスチック製の青い椅子がぎしりと鳴いた。我が校の椅子はなかなかに座りやすい、背中から腿にかけて包み込むように丸みを帯びたフォルムをしていて、机は板が手前から上にぱっかり開いて取り出しやすい。修学旅行は国内だし食堂のメニューにバリエーションはないが、ただの木ではないこういう細かな部分に私立のこだわりを感じる日々だ。他の高校の設備は知らないけれど。そのまま天井の模様に目を向け冗談交じりに感慨にふけっていると、機械的な鐘の音によって昼休みの終わりが告げられた。こうして他愛ない話をいくつかするだけで四十分の昼休みは無くなってしまうし、勉強して食べて寝てを繰り返すうちに高校初の夏休みは始まるし、それこそすぐにおばあちゃんにだってなってしまうんだろうな。面倒なことはしたくないし平穏無事が結局一番だと思う一方、そういう漠然とした焦りが最近ちらつく。アンニュイな私をよそに、夏子はポーチから飴を一つ取り出し口に入れていた。次の英語の授業には、発音のテストがある。
午後に待ち受ける英語と古典の睡魔に打ち勝ち、迎えたホームルームでは終業式についての詳細が告げられた。夏休みの友となる課題は、あと数回の授業の中でそれぞれ申し渡されるらしい。それから授業後に職員室へ呼び出された夏子のことを涙をのんで送り出すと、帰宅するために荷物をまとめた。
教室を出た廊下の床、中央に真っ直ぐ引かれた白い線の上を落ちないように歩く。持ち帰る教科書をゆっくりと選別したお陰で、既に殆どの生徒は部活へ赴くか、家路に着くか、教室で青春を消費するかを選んでおり、三階教室から昇降口までの道すがら、私が真っ直ぐな線を辿るのを邪魔する者はいない。そういえば小学生の頃にはよく横断歩道の白線で同じ遊びをしていた。白線の外に足を置くと「海」に落ちたと見なされ、ワニに食われるゲームだ。こういう子供のちょっとした遊びは地域ごとに細かなルールが異なる場合も多いのだけれど、うちの近所ではワニに食われたところで何ら実害はなく、何ならゲームの正しい終わり方も無い、曖昧で平和な遊びだった。ゲームステージを盛り上げるように、金管楽器のような音色が耳に届いた。テストが終わったばかりなのに、感心してしまう。
そのまま白い線の上で過ぎた日々に思いを馳せつつ進むと、廊下を縦断する白い線の延長線上に、ぽとりと何かが降ってきた。遠目からも分かるほど黄ばんだそれは拾い上げればストラップの付いたぬいぐるみで、その名も『さかなネコ』。簡易的な造形の顔をした猫の頭に、こちらも簡易的な水色の魚の身体が付いた奇怪なキャラクターだ。随分と懐かしい。確か私が小学生の頃に流行っていたもので、流行りのキャラクターが描かれた文具を持つことは一種のステータスであったこともあり、私も母と雑貨屋へ赴く度に買ってもらったものだ。
黄ばんださかなネコから少し視線を持ち上げると、続く白線の上に男子学生が一人遠ざかって行くのが目に止まった。たぶん落としたのは彼だろう。
「あの、落としましたよ」
上履きのラインが黄色なので同じ学年であることは分かったが、あいにく知らない人にも初めからフレンドリーになれる柔軟性は持ち合わせておらず、敬語で少し声を張る。けれど振り向いた人物は見知らぬながらも見慣れた顔、四月の入学から約三ヶ月を共に過ごしたクラスメイトの倉橋祐一だった。振り向き私を視認すると少し驚いていて、そういえば会話するのは初めてかもしれない。
「あぁ、ありがとう」
「懐かしいね、これ。私も集めてた」
全くの他人行儀な態度も印象が悪いかと思いそう声をかけながらさかなネコを差し出したが反応は芳しくなく、彼は「あー、うん」と歯切れの悪いままそいつを受け取った。何だ。「趣味が子どもみたいね」みたいな皮肉にでも聞こえたんだろうか。流行は回って戻ってくるらしいから安心しな、と心の中で声を掛け、そういえばさかなネコグッズを集めていたのは専ら女の子だったなと思い出した。私の穏やかな心持ちが伝わったかは知らないが、倉橋は少し視線を彷徨わせてから結局「また明日ね」とだけ言い残し去っていった。そんなに心配しなくても「随分と可愛い趣味ね」だなんて言いふらさないのだけれど。面倒だし。
倉橋祐一はいわゆる優等生だ。私や夏子と同じく中学から我が校に通い、成績は上位を維持、適度にノリも良く誰にでも優しいと校内では人気があって、クラス内で可愛いと言われる芦屋さんも彼が好きだとか。もちろん、うっすら存在するスクールカーストではトップに所属している(夏子調べ)。
カースト中間を自負する私は特にその恩恵を受けたことはないので、今朝校庭で見た朝顔の鉢植えと同じく「咲いてるなぁ」くらいの認識でいたのだけれど、あの歯切れの悪さが初の対面だとイメージと違うというか、可愛いと思っていたパンダの目が思ったより鋭かったときの気持ちを思い出した。
「あっ」
ふと足下を見れば私は白い線を踏み外し、ワニに食われていた。
「おはよう」
一夜明けて早朝、今日も今日とて自分の教室に入ったところで、当然のように挨拶を飛ばしてきたのは倉橋だった。教室にはまだ私と彼の二人きりで、妄想に耽り恋に恋する乙女ではない私でもこのキャッチボールの相手は私だと分かる。
「あ、おはよう」
じわじわと暑さが増してきた気候にも打ち勝つような涼しげな笑顔にたじろいでしまったが、昨日まではパンダと客の距離だったのだから仕方がないと思う。変化の理由といえば思い当たるのは昨日のさかなネコだけなのだけれど、あの会話ともいえない交流で容易く人間関係とは変わるものだろうか。恐ろしきコミュニケーション能力。私は改めてカースト制のなるべくを知った。
「朝早いんだね」
倉橋から再び声が掛けられる。
「静かで集中できるから」
「勉強してるんだ、偉いね」
詳細は知らないが、よく成績上位者として名前の貼り出される倉橋の方が頭は良いだろうに。子供をあやすような言葉と笑顔を胡散臭く感じるのは、私がひねくれているからだろうか。それともこれが噂に聞くロールキャベツ男子なんだろうか。
「昨日のさ、ありがとうね」
やっぱり口止めか?
「でも、よく分かったね、俺が落としたって」
「いや、近くにいたし」
「周りに他の人も沢山いたじゃん」
じっとこちらを窺う視線が妙に刺さって居心地が悪い。細い目で優しそうに笑う表情も人気らしいが、私はやっぱりパンダの目に似ていると思う。
「そうだっけ、じゃあ偶然だね」
「断言してたよね、落としましたよって」
「何が言いたいの?」
落ちたのを見たとか言えばよかった。夏子に鈍いと呆れられる私でも、いま倉橋には、私に望む回答があるように感じる。
「ごめん怒らないでよ、ただ、すごいなって思っただけだよ」
そう言われるのはあまり好きではないのだけれど、今度は困ったように、けれど満面の笑みでそう言い放つので少し拍子抜けしてしまった。構えすぎただろうか。それはそれとして、この笑顔で芦屋さんはやられたのかもしれない。夏子と同じで人懐こい笑顔だ。
「そう言えば、最近七不思議が流行ってるよね。阿部さんはああいうの信じる?」
倉橋は窓際最後尾の自席にリュックを置きながらそう聞いてくる。完全に向こうのペースに飲まれた気がするが話辛さは感じないので、なるほど友達が多そうだ。
「いま流行ってる話はよく知らないけど、存在自体は信じるかな」
「幽霊とか視えたり?」
「みえないけど」
即答すると「そっか」と少し残念そうな声が返ってきたので何故か申し訳なく感じて、補足した。
「占いも結果が良いときだけ信じるから。そんな感じ」
「あー、それは良いね」
倉橋は「あはは」と笑いながら、
「本当かどうか、気にならない?」
爆弾を投下してきた。
「え?」
「七不思議だよ!俺こういうの好きなんだよね」
「あ、そうなんだ?」
そうなんだ。
「一緒に確かめに行こうよ、阿部さん勘がいいし何か分かるかも」
いやいやいや、無理でしょ専門外だよ。
「最近新聞部が解明しようと躍起になってるらしくてさ、面白そうじゃない。俺たちで先に解決するの」
新聞部なんてあったんだ、なんて考えている場合ではない。突然子どものように目を輝かせながらこちらにずんずんと歩み寄る倉橋は近づくと思いのほか背が高くて圧が強くて、やっとの思いで口を挟む。
「冗談だよね」
「本気だけど」
「いや、無理でしょう。だいたいどうやって確かめるの」
「夜の学校に侵入とか」
「警備員さんにバレて終わりだよ」
笑いながら「割と真面目に考えてくれるね」などと言われるので、やっぱりからかわれているのだろうか。
「じゃあ授業後にちょっとだけ、面白そうだと思わない?」
確かに面白そうではある。未確認生命体とか、夏になると増える怪談番組とかは嫌いではなくて、むしろ好きだ。けれど、
「友達と行けば良いじゃない」
何故昨日が初会話の私なのだ。
「肝試しじゃなくて、解決したいんだよ。それに阿部さんオカルト研究会でしょ」
「何で知ってるの」
「六合さんに聞いた」
夏子め、まさか私以外にも情報を流していたとは。そもそもあのオカルト研究会は教室で菓子が食べられると聞いた夏子に引っ張られ入ったもので、今ではほぼ帰宅部状態だ。他の部員もあまり集まっていないようなので、退部するまでもなく放置していた。
「さっと寄るだけでもいいから」
「だから…」
両手を顔の前で合わせ上目遣いになおも頼んでくる倉橋に今度こそ断ろうとしたところで、教室入り口付近から響く甲高い笑い声に気付き言葉を飲み込んだ。
「あれ、ユウ早いじゃん。おはよ」
「朝弱いのにどうしたの?」
教室に入って来た二人はやはり倉橋と仲の良い女子二人、佐藤さんと芦屋さんだ。そそくさと自分の席に向かう私を、芦屋さんが横目でちらと見たのに気付いてしまった。ちょっと怖い。見られただろうか、突然隠れて会話していた女をどう思うかは知らないが、面倒に巻き込まないでほしい。
あぁ、だから嫌だと言ったのだ。いや、言えてはいないか。私はどちらかと言うとNOと言えない日本人なのだ。倉橋の余裕の笑みを殴りたくなった。
結論から言えば、決行は夏休み初日の夕方となった。理由は二つ。一つは私たちが一緒にいるところを誰かに見られたくないからだ。面倒なことに、多感なお年頃の男女が集う校内で,それまで仲の良い素振りなど見せなかった二人が行動すれば、事実にかかわらず面白可笑しく噂を立てられる可能性がある。何せ相手は田舎の日常を潤すちょっとした人気者なのだ。
そしてもう一つは倉橋の案で、夏休み初日は休みの部活動が多く、人が少ない方が出そうだから、らしい。
〈倉橋です。クラスのチャットから登録しました。よろしくね!〉
と言うメッセージ通知がスマホに現れた瞬間、思わず「うわ」と声が出た。行動派の現代っ子め。承諾するまでメッセージが来るのも面倒だし、同じクラスなので本人を避けることも難しい。これはもう流行が過ぎ去るのを期待するか、さっさと行って終わらせた方が早いのではないかと諦め、結局メッセージ以外では接触しないことと、交流を公言しないことを条件に承諾した。
夏休みの始まり、七月二十一日まで残すところ一週間。学校七不思議の流行さえ終わってくれれば、確かめるべくもなく不本意な予定は流れてゆくだろうという私の願望は、刺激を求める田舎の若者たちによってついに叶えられることはなかった。それどころか
「職員玄関の鏡に黒い人影が写ったって」
むしろ増えた。噂に対する熱は上がる一方だ。そもそも私たち二人で何が分かるというのだろうか。あの日は反論し損ねたが、オカルトではなくお菓子に釣られた幽霊部員の私に専門知識も対抗手段もありはしないのだ。けれどあのパンダの目と睨めっこする気力もなければ、連絡を無視して申し訳なさに気後れする夏を過ごしたくもない。退路は断たれ、ついに腹をくくるときがきた。
そうと決まれば、必要なのは情報だ。
「七不思議?急にどうしたの」
「あんまり流行ってるから、気になって」
いつも通り、昼休みになると夏子は私の席までやって来て、弁当と買っておいた売店のプリンを机に並べ、まずプリンの蓋をぺりぺりと開けた。夏子は昼に決まって弁当とプリンを食べるけれど、それをご飯の間に食べる日もあれば、こうして最初に食べる日もあれば、お弁当を平らげてから手をつける日もある。規則性があるのかは知らない。とにかく今日はまずプリンを一口頬張ってから、得た情報を活用するのが好きな夏子はにっこりと嬉しそうに笑い、「えっとね、」と私に必要な情報をもたらしてくれた。
夏子の話をまとめるとこうだ。
・始まりは3組の子が中学棟三階で聞いたトランペットの音(教室は施錠されていた)
・職員玄関の鏡に黒い人影が映る(午後から夕方の目撃が多い)
以上二つがはっきりとした経験を伴う話だ。思ったより少なくて助かる。それから噂が広まると同時に、定番と言える音楽室のピアノの音や、階段の段数が違うなどのおまけが付き、雪だるま式に噂が膨れ上がったらしい。なんと頼もしき夏子、私の立ち向かう謎はおかげで二つに絞られた。
事前に情報が得られれば次にすべきは当然、考えることだ。確かめに行くにしても、分かっていれば大幅な時間短縮になる。
「誰かのいたずらっていう話はないの?」
「もちろんそういう人はいるけど、結局理由が分からないからどっちも同じく噂止まりだね」
誠に残念だけれど、夏子がそう言うのならば解決案は未だ無いのだろう。抜けたところもある友人だけれど、学内の情報量と質に関しては確かだ。
「なんか今日、暑くない?」
プリンを食べ終わった夏子はペットボトルのお茶を一気にあおると、唐突にそう言った。
「さっきの授業寝てたでしょ」
「あぁそっか、また小野センね、エコじゃないなぁ」
今日の四時間目は近現代担当の小野寺、通称小野センの授業だった。小野センはガタイの良い見た目に反して寒がりで、そして(彼曰く)こもった空気が苦手だ。けれどクーラーを止めて熱中症の生徒でも出してしまえばこのご時世タダでは済まないので、彼は授業の度に窓を一つ開けるのだ。おかげで風に乗って人工的な冷風は少しずつ失われ、窓の閉められた今でも空気は少しぬるい。
七月二十二日、午後四時半。まだ太陽に照らされ蒸し暑いが、空は澄んで謎解き日和である。事前にメッセージで二つに絞ったことは伝えてあるので、それほど長くはかからないだろうけれど。
集合は六時と決めたけれど学校へ向かうバスは四時がラストであるため、一年分購入してあるバス定期の活用を選んだ私は四時過ぎに学校に到着し、少しだけ図書館で時間を潰すことにした。夏休み中、八月から図書館は閉館してしまうけれど、今週はしっかり一日開館しているのでありがたい。待ち合わせは高校棟の昇降口前。教室は鍵がかかっており、基本的に生徒は授業がなければ入ることもできない。吹奏楽部と思しき楽器の音を聴きながら、普段よりも静かな校内へ足を踏み入れた。
「ごめん待たせちゃった?」
「二時間待った」
「うそ、時間そんなに間違えた?」
初々しいカップルみたいな会話を回避しようとそう言えば、倉橋は焦ったように「ごめん」と言ってメッセージの履歴を確認し始めた。思わず吹き出すとちょうど確認も出来たのか、「嘘かよ」と抗議の視線を送ってくる。思ったより素直な人らしい。
「ごめんって。行こ」
「…そうだね、どこから向かう?」
気持ちの切り替えも早くて何より。
「職員室」
「職員室?事件現場じゃないの?」
倉橋は私を追いながら疑問符を浮かべる。それは分かるけれど、
「事件現場?」
「事件があったから幽霊がいるのかなって」
「怖いこと言わないでよ」
「あと、こういとき大事なのは雰囲気だから。潜入して謎の解明って、推理小説みたいじゃん」
「そうかな…」
そう言われるとほんの少しだけわくわくしたのは、絶対に秘密だ。
「鍵借りるのか」
「うん」
我が天羽高校は私立の中間一貫校で、校舎自体は繋がっているが校門から見て右手前に中学棟、その奥に高校棟と大まかに分かれている。ちなみに門から入って左手には独立した第二体育館、正面に進めばグラウンドだ。上履きを履くため集合は高校棟にしたが、一階の高校職員室ではなく、階段を登った先の中学職員室を目指したことで、目的の品は伝わったらしい。
「理由ないけど、借りられるの?」
「部活で部屋借りたとき割と簡単だったから、たぶん大丈夫」
「お菓子研ね」
「知ってたの?」
思わず振り向き倉橋をじっと見ると、あははと笑って、立ち止まった私を追い越して行った。私の所属するオカルト研究会が特に怪しげな研究に勤しむことなく、教室でお菓子パーティーをしていることは一部で有名で、「お菓子研究会」と呼ばれている。つまり倉橋は、私がオカルトを研究していないと知っていたのだ。
本当に、なぜ私をご指名したのか。人気者の気まぐれ?ひとつため息をついて、先を歩く背中を追いかけた。
ガラガラと引き戸を控えめに開ける。印象が大事だ。
「失礼します、一年五組、阿部です。社会科教室の鍵を借りに来ました」
面倒な定型文を述べながら職員室を見渡す。休日は圧倒的に教師の数が少ないうえに今日はもう夕方なこともあり、見渡す限り席に座っているのは三人程だった。
特に誰かに話しかけたわけでもないので、「はーい」と気の抜けた声を聞きながら入口から見て正面の壁へ向かう。特別教室の鍵はこの壁際のホワイトボードに並べて掛けられている。なるべく自信のある態度を心がけ社会科教室の鍵をとると、鍵のあった場所に〈オカルト研究会〉と記した。小さめの文字で。教室の貸出リストは職員室と当の教室にあるが、まぁ三十分ぐらいならバレないだろう。何でもない顔をしてそのまま「失礼しました」と扉を閉めた。
「おかえり、意外と大胆だね」
職員室前の水槽を見ていた倉橋にそう言って迎えられる。
「でしょう、いいから急ごう」
「研究会騙ったのがバレないうちに?」
「それもあるけど、うまくいけば会えるから」
「誰に?」
私は振り向いて、笑いかける。
「妖精に」
さぁ、まず一つ目だ。
社会科教室は中学棟三階、三年生の教室の向かいにある特別教室だ。プロジェクターと遮光カーテンが付いていて、社会科、と言っても映像を見る様々な授業で使用されている。入手した鍵を使い教室に入ると、まず壁に掛けられたカレンダーで教室の使用履歴を確認した。初めて妖精が歌ったという日、最後に教室を使ったのはやはり、小野センの授業だ。
教室の窓をひとつ開けると、倉橋を引き連れて再び廊下に出た。時計を見ると、時刻は六時半。そろそろだろうか。
「えっと、何を待ってるの?」
「運が良ければ、聞こえると思うんだけどな。あ、ほら」
聞こえてきたのは、トランペットの音色だ。生徒のいない静まり返った廊下にかすかに響く音楽は、音を辿れば社会科教室から聞こえてくる。
「…ほんとだ。どうして?」
「吹奏楽部だよ」
「吹部?」
「そう」
私は右手の人差し指を一本だけ立てて、倉橋の前に突き出した。
「まず第一に、吹部は大会が近いから、ほかの部活よりも活動時間を延長してる。だから他の部活で遅くまで残っていた生徒が、静かになった校舎を歩いたとき、まだ演奏をしている可能性は高い」
通常の部活終わりが六時半であるので、今演奏が聞こえる時点で活動の延長は間違いないだろう。
「なるほど」
続けて中指もぴんと伸ばし、二のポーズを作る。
「次に、初の目撃情報が上がったのは、七月八日の放課後」
「よく知ってるね」
「テスト終わり後初めての部活だから覚えてたみたい。七不思議自体、流行りだしたのは期末考査後だからね」
「そういえばテスト中は聞かなかったね」
倉橋は面白そうに、頷きながら答える。
「で、この七月八日、最後に教室を使っていたのが小野セン。あの人は窓を開けるけど自分で閉めないでしょう。生徒も自分の教室なら暑くてすぐに閉めるけど、ここは移動教室だから忘れて出てしまっても不思議じゃない。ただでさえ電気消したりクーラー止めたり、面倒だし」
それからもう一度、今度は薬指も加え、三の形を作って見せた。
「最後に、練習場所。これは吹部の部員じゃないから細かいことは分からないけど、楽器ごとに分かれて練習するとき、音楽室から出て色々な場所で練習してるんだよね。だから、妖精ことトランペットのソロパートを担当する子が社会科教室の風上にあたる渡り廊下あたりで練習しているとき、ここまで音が聞こえるんじゃないかな」
正直最後の風に音が乗る云々は勘だけれど、現に今、音楽室からは距離のあるここまで音が聞こえているのだから、そういう位置にいるのだろう。
「以上三つ。この三つの条件が重なったとき、妖精は現れる」
「はい」
質問があるらしい倉橋が授業のように手を挙げるので、乗ってあげた。
「はい、倉橋くん」
「これが怖い七不思議に繋がるかな?」
「それは私も思ったけど、実際に来てみると、この薄暗い廊下を一人で歩くのは少し怖い気もするかな。静かだし。あとは噂の拡散力の問題だと思う」
今日はまだ完全に日が沈んではいないけれど、左右を教室に囲まれた廊下は割と暗くて、まして七月の頭ごろならばもう少し早く暗くなるかもしれない。
「なるほど、すごいね。名探偵って呼ぼうかな」
「誰も真剣になんて考えなかっただけだよ」
恥ずかしいので勘弁してほしい。
「そうかなぁ」
「ほら、鍵返して次行くよ」
「うん」
素直になった倉橋を引き連れ、教室の窓を閉めてからまた歩き出した。
次だ。
職員玄関に映る黒い影。これは社会科教室よりずっとシンプルだ。今日はなかなか天気が良かったからか夕日と空のオレンジ色が濃く、職員玄関付近も全体的にオレンジ色に照らされている。良い感じだ。いま私たちは廊下の突き当たりに向かって立っており、右手側に玄関、正面に立て鏡、左手に制服見本がある状態だ。
「こっちは凄く単純だよ」
言いながら、職員玄関から差し込む光を受け止める壁際、そこに並ぶ制服の見本を着たマネキンを指差す。
「うちの高校ジャージは灰色。でもいま、何色に見える?」
太陽が移動すればもちろん光の位置も変わるけれど、廊下の電気も消えている今はちょうど、マネキンが強い日光に照らされているいる状態だ。
「…青色かな」
「そう、これは視覚の問題なんだけど、灰色に濃いオレンジのライトを当てると、こうして青っぽい色に見える。ちなみに正面の鏡は最近ここに置かれたらしいもの。ジャージは一番奧、鏡側に置かれてるから、立つ位置によっては鏡の端に影になって黒っぽい、人影が映ったように見える」
説明しながら、●の立ち位置を調整してやる。
「確かに」
「これもさっきと同じで、静かで薄暗い廊下にひとり、こっちは最近だから、七不思議が流行っている時期に見たっていう心理的要因も大きいと思うけどね」
これでこの学校独自の七不思議、その二つの謎解きは終わりだ。どちらも偶然が重なったような結果だったけれど、私は少し得意げになって、倉橋に言った。
「じゃあ、帰ろうか」
帰るため並んで歩く道すがら、私は少し反省していた。別に悪いことはしていないと思うのだけれど、謎解きを披露して以降、楽しそうにしていた倉橋が、今になって急に黙ってしまったのだ。解明したいと言ったのに私の解説で終わってしまったからだろうか。倉橋も面白そうに聞いてくれたので、あんなに断ろうとしたくせに段々と私も夢中になってしまって、少し恥ずかしさも感じる。悶々としながら、歩く。
歩いているうち、しばらく続いた沈黙を破ったのは倉橋だった。
「ごめん、本当は聞いたんだよね」
「…何を」
「中学生の倉橋さんの話。それで誘った」
唐突だな。
まぁ、そうかも知れないとは考えていた。確証はなかったけれど、友達の多い倉橋がわざわざ私に拘る理由なんてそう無い。もちろん大した交流もないのに惚れた腫れたと勘違いする趣味も無い。黙っている間、そのことを考えていたのだろうか。ただ「そっか」とだけ答えて私が押し黙ると、人のいない薄暗い廊下に響くのは私たちの足音だけになった。夏の日は長くて、空に広がるオレンジ色はやっと暗さを得て、窓から校内の色を変えている。景色は怖いというより綺麗だ。
「友達が、シャーペン無くしたって言ったの」
倉橋は黙っているので、そのまま続けた。
「だから見つけてあげただけ。昔から何となく分かるんだよね、失せ物がどこにあるとか、意識すれば、嘘ついてるなぁとかも。ちょっと勘がいいというか、アンテナがある感じ」
何をどこまで聞いたんだろうか。もう終わった話だけれど、話し始めると止まらない。
「何回かそうするうち、一度だけ、私が隠したんじゃないかって疑われちゃって、もちろんしてないよ、でも疑ってきた子も、本当は私がやったんじゃないって分かってるみたいだった。もう訳わからないよね。特別大騒ぎにはならなかったんだけど、それから何だか面倒くさくなっちゃったから、あんまり口出しするのやめたの。本当それだけ」
割と仲良くしていた子だったので、当時は何か恨まれることでもしたかと悩んだりもした。けれど結局その子は引っ越していなくなってしまって、もういくら考えても分からないと気付いてやめた。面倒なことはなるべく避けるのが無難だと学んだのだ。倉橋からは「そうなんだ」という声だけが帰ってきて、変に気を遣われなくてほっとした。もう過ぎた話なのだ。あの子もきっと、覚えてすらいないんだろう。
「…信じる?」
「うん」
「そっか、変わってるね」
それから結局校舎を出てバス停に着くまで、私たちは黙って、並んで歩いた。
「幽霊ってそう簡単に捕まらないんだなぁ」
七時過ぎでは遅すぎるのかまだ部活は終わらないのか、貸切状態のバスの中で倉橋はあっけらかんとそう言った。
「捕まえたかったの?」
「…いや、いざ見えたら逃げてたな。勝てないし」
「友達になれたかもよ。人たらしだし」
「褒めてる?」
「まぁ、生きやすそうな個性だと思う」
「そうでもないけどね」
倉橋は少し笑ってそう言った。悩みなんて所詮他人には理解出来ないものなので、特に追求はしないことにした。
バスを降りて駅に着くとあたりは完全に暗くなっていて、パチンコ店とコンビニとファストフード店のネオンがそれぞれにチカチカと目立っていた。そのまま駅に向かって少し歩けば、最近やけに増えた椋鳥たちは今日も元気なようで、ロータリーにある木の中から大量の主張が聞こえてくる。効果のない鳥避けの音声を発するスピーカーに太陽の名残の生ぬるさも加わって、駅前はいつも通り騒がしい。
「今日は本当、ありがとう。楽しかった」
「じゃあ、また…学校で?」
夏休みに会うことはないだろうと私がそう言うと
「いつでも連絡して」
とだけ返ってきた。そっちは連絡するつもりないんじゃないか。
「たぶん向かない」
そもそも今回の行動が断りきれず生じた、特殊なケースだったのだ。七不思議が流行らなければきっとろくに話すこともなく卒業したんだろう。学校という社会はとても広くて複雑で、その中の小さい世界で十分に成り立つ。
けれど生き抜くための社交辞令は、今日は使わないことにした。
「私は本屋に寄ってから帰るから、じゃあね」
「うん、また」
一つの改札口と二つのホームから構成されたこの小さな駅は、改札を中心として左右に二つ出口がある。改札前で倉橋と別れ学校がある出口とは反対側の駅前に降り立てば、そこはケーキ屋と本屋が並ぶ落ち着いた街並みで、駅を一つ挟んだだけで全く別の駅のようだといつも思う。特に目的の本があるわけではないのだけれど、わざわざ家を出て電車に乗ってここまで来たのだ。学校から家の間ではこの本屋が一番大きいし、夏の暇つぶしを見つけたい。
店内に入ると、外の暗さに慣れた目が一瞬じりりと驚いて、けれど落ち着いた明るさの照明にすぐに適応した。奥へ進めばまた新しい小説がカラフルなポップに囲まれて積まれている。ミステリー小説の置き場で足を止めてしまうあたり、一人では起こさなかったであろう今日の行動を、思ったよりも楽しんでいたのかもしれない。倉橋には絶対に言わないけれど。それから無意味に店内を徘徊しタイトルに惹かれたフィクションを一冊と、とりわけ力の込もった紹介ポップに囲まれた、新人作家の推理小説を一冊購入し、三十分ほどで駅へと戻った。
「あれ」
エスカレーターで上がり駅へ入ると、改札正面にある壁を背に、つい數十分ほど前と変わらず倉橋が立っていた。何か用事でもあったのだろうか。奴のことを知っているなんて言えるほどの交流はしていないけれど、その表情はどこか硬いように感じて、だから声も掛けられない。そういえば今日一日はパンダみたいだと思わなかったと、いま思い出した。
しばらく見ている間、倉橋はただ右手に持っている何かをじっと見つめていた。けれどふと顔をあげ、くるりと壁側を振り向くと薄汚れた窓枠に何かを置いて、それから何でもなかったような足取りで改札を抜けホームへ降りていった。よく分からないけれど、私が戻るまであの場所で、ああして何かと睨めっこをしていたんだろうか。怪しい。倉橋が階段を降りてしばらく、もう戻らないことを確認してから、窓枠に近付く。そこには、
「…さかなネコ」
たぶんあの日私が拾った、薄汚れたぬいぐるみがあった。
〈来週のくずは祭り、行くよね?〉
夏子からのメッセージ通知によってスマホが鳴いたのは、八月も中頃に差し掛かる日の夜だった。自室で夜食にクッキーをかじりながら机に向かい、数学の問題集とお見合いしていた手を止めると、アプリを開きメッセージを確認する。ギリギリで夏期休暇中の補習を回避した夏子とは既に何度か会っていたけれど、そう言えば今年はまだ、夏祭りの話はしていなかった。学校から近い場所で毎年行われるその祭には、うちの学校の生徒の参加者も多く、例に漏れず私と夏子も毎年参加している。
〈行く。宿題進んでる?〉
〈息抜きは必要だよね〉
どうやら順調ではないらしい。
それでも何とか間に合わせる夏子を見て来たので、「南無」とスマホの向こうにいる反面教師に手を合わせ、宿題の続きに取り掛かることにした。
しかしそれから、ふと視界の端に薄汚れたぬいぐるみが映ると、再び手が止まってしまった。あの日、何故か倉橋と謎解きに興じることとなった夏の始め、駅にひとり(一匹?)置き去りにされたさかなネコを置いて帰ることが出来なくて、私は少し悩んだ結果、こいつを持ち帰って来てしまった。最近は意識していなかったけれど、久しぶりに予感というか、自分の勘が仕事をしてしまった感覚だ。
このさかなネコは、倉橋がいま捨てるべきものではない。
けれどだからと言って、こいつをどうして良いのかは一向に分らなかった。分からないままにずるずると時間は過ぎて、結局駅で別れたきり一度も連絡していないのだ。もう何度目かになる悩みを抱えた私は机を離れ、勢いよくベッドにダイブする。ぎしりと鳴りながらも私は柔らかい布団に受け止められ、そのまま枕に突っ伏すと、《息抜きは必要だよね》という夏子の声が脳内で再生された。
だって。
まず何より、捨てたということは、少なくともあのときあの瞬間、倉橋にとってこのさかなネコは不必要な品であったのだ。それを私の単なる勘によって拾い上げ、「持っていろ」などと言えるだろうか。言えないから困っている。
『信じる?』
『うん』
倉橋はあの日学校で、私の話を、迷うことなく肯定してきた。少し言い方を変えれば「私は超能力者です」なんて言っているような話だというのに。わざわざ注意して見なくても嘘はついていなくて、本当に本気で信じてくれちゃったのだ。相当なアホなのか、変わった個性に憧れるタイプなのか。
薄汚れたさかなネコをじっと見る。この小さなぬいぐるみ一つでこれほど困っているというのに、そいつはやっぱり暢気な顔で笑ったままだ。それと見ていて気付いたのだけれど、タグのところに黒いペンで何かが書いてあるのだ。滲んでしまって分かり辛いそれは恐らく、「りお」、名前だ。誰だよ。
流行っていたのが確か小学四年生の頃、それから六年、これほど薄汚れても持っていたのに、急に手放した原因は何だったのだろう。あの日、七不思議の仕組みを暴いた日だ。私も何か関わっているだろうか。
「あーもう…」
だいたいどうして、いつも私の前で落とすのだ。それが悪いんじゃないだろうか。
『いつでも連絡して』
そう言ったのは倉橋自身だ。
奴の好奇心に付き合ってあげた恩もあるはず。
〈明日、時間ある?〉
結局勢いに任せてそうとだけ送るとスマホを放り投げ、私はそのままベッドで眠ることにした。《息抜きは必要だよね!》もう一度、脳内で夏子が嬉しそうに言った。
〈久しぶり、また随分と急だね。夕方なら良いけど〉
〈五時に、学校で〉
〈分かった〉
相変わらず、行動を起こすまでのハードルが低いようで助かった。驚くほど唐突に、そして流れるように約束は取り付けられた。そうしてこの勢いのままに行動してしまった方が良いと自らを奮い立たせ、さかなネコを制服のスカートのポケットに突っ込むと、私は家を出た。
八月の五時はまだ明るく蒸し暑くて、風はじとりと重たくて、家の冷房にすっかり甘やかされた私の身体は、あっと言う間に蒸されきってしまった。そのまま電車を乗り継ぎ学校へ向かう最終のバスに乗り込み、やっと学校へ降り立つ。細かく約束はしていなかったけれど、高校棟の昇降口に倉橋は立っていた。
「お待たせ」
「二時間待った」
「根に持つタイプ?」
「冗談だよ」
相変わらず爽やかに笑う倉橋は一ヶ月前と何ら変わりないようで、軽口を叩きながら話せることに内心ほっとした。たった一ヶ月でそれ程変わることもないだろうけれど、やっぱり少し違う気もする。
「連絡来ないと思ってた」
「ごめん、急に」
「いや、嬉しいから良いよ」
「ならよかった」
「反応薄いなぁ」
正直また少し迷ってしまって、会話どころじゃなかった。けれど、
「どうしたの?」
と聞く声があまりに穏やかで、私はポケットの中で握りしめていたさかなネコをやっとの思いで、そっと差し出した。倉橋は無言だったけれど、差し出したさかなネコ越しに、手がぴくりと動くのが見えた。顔を上げると、思った通り倉橋は目を少し見開いて、私の手に収まるさかなネコを凝視していた。
「ごめん、あの日、置いてくのが見えて」
「…捨てたつもりだったんだけど」
それは分かっている。でも倉橋は、ゴミ箱には入れなかった。
「もう少し、持って方が良いと思う」
「もしかして、倉橋さんの例の勘?アンテナ、だっけ」
「そうかも」
「そっか」
そう言ってさかなネコを受け取るとそれをじっと見つめ、もう一度「そうかぁ」と言うと、今度は両手で顔を覆ってしまった。私は予想外の反応にどうしたら良いのか分からなくなってしまって、
「リオさんの、ものなの?」
遠慮気味にそう尋ねると、「分からない」と小さな声が返ってきた。
分からない?
「うーん、ちょっと、聞いてくれない?」
どこかに座りたいと言うので、私たちは中学等三階の談話ルームに移動した。ルームとは言っても廊下の突き当たり、少しひらけた場所に椅子と机がいくつか並べられただけの空間だ。ただ鍵も何もないため、休校中でも問題なく座ることができた。
それから、倉橋は割とすぐに話し始めた。
「俺ひとりっ子なんだけどさ、妹がいたんだ」
〈いた〉というのは、〈もういない〉とも聞こえる。倉橋は手に持つさかなネコをじっと見て、押したり伸ばしたりしながら続けた。
「このぬいぐるみ、妹に貰ったものなんだ。昔、なんでだっけな、俺が泣いてたら、このぬいぐるみをくれた」
私は黙って言葉の続きを待った。遠く、おそらく窓の外から、かすかに誰かの笑う声が聞こえてくる。窓から差し込むオレンジ色が室内ごと私たちを包んで、あの日の謎解きを思い出した。
「妹は別に亡くなったんでも、誘拐されたんでもない。このぬいぐるみをくれた日、確かに俺たちは二人で一緒に遊んでいて、」
それから倉橋は迷うように一拍おいて、続けた。
「…気付いたらいなくなってた。言葉通り消えてたんだ、存在そのものが」
「え?」
「急にいなくなった。慌てて探したよ。でも探していたら、親にそんな子知らないって言われた。親だけじゃなくて、そもそも妹を知る人は誰も居なかった。そう言われて家に帰ると確かに、写真とかおもちゃとか、〈いた〉って証明できる物は何ひとつなくて。でも、俺はこいつを持ってたから、」
倉橋は俯いたまま、ぎゅっとさかなネコを握りしめた。
「…妹の名前が、りおちゃん?」
「え?」
「ぬいぐるみのタグに書いてあった」
「…うん」
「そっか」
人の記憶から人がなくなるなんて、そんなことがあるんだろうか。
あったとして、自分も消えない保証がどこにあるだろう。そんな曖昧な世界を目にするのは、きっとすごく怖い。
「変な話してごめん。…子どもの記憶なんて当てにならないって分かってるし、誰かと勘違いしてるのかもって、何度も考えた。でも、どうしてもあれは妹だったんだ。いたんだよ、本当に。目が合って、話して、遊んで、それからこのぬいぐるみを渡された」
「それを、どうして今になって捨てようと思ったの?」
ずっと持っていたのに、たった一つの存在証明をあの日は捨てようとしていた。
「阿部さんの話を聞いて」
「私?」
「もう忘れようと思ってたときに、阿部さんが少し不思議な子だったって話を聞いて、そういう説明できないようなことが本当にあるならって思った。…それと、最後にしようとも思った。それから何とか阿部さんと話をして、確認しようとして、結局七不思議はただの噂だった」
「なんかごめん」
私の言葉に倉橋は笑った。
「いや、確かに阿部さんは不思議だったけどね」
「バカにしてる?」
「してないって。…そういうことも、世界の何処かにはあるんだと思った」
私の勘なんて、そんな大層なものじゃないのだけれど。
「でもだからと言って状況は変わらないし、もう潮時だよなぁって」
彼が少し顔を上げると、目が合った。
「信じる?」
「うん」
正直に言えば、私の話よりもさらに突拍子もない話で、戸惑いはしている。でも私は、倉橋が嘘をついていないと分かる。だからいつかの私と同じ質問に、彼と同じ答えを返した。けれど倉橋はそれほど納得できていないようで、さかなネコを握りしめたまま「そっか」と呟いた。
「昔の偉い人でさ」
私は何となく、昔かじった記憶を掘り起こして言葉を繋いだ。
「え?」
「誰だっけな、まぁ誰でも良いんだけど、『我思う、故に我あり』って言った人がいるの、知ってる?」
「…デカルト」
「そうだっけ?よく知ってるね。さすが優等生」
倉橋は困惑したまま私を見ている。そりゃあそうだろう。何の脈絡も無い話だという自覚はある。けれど、気付いているだろうか。視線は少し上がった。
「その人が結局何を言いたいかなんて、私には分からないけどさ、その人は目に映るものが本当にそこにあるのか、全てを疑ってそう言ったんだって」
倉橋は何も言わない。
「私が見ているものは私にしか見えてないかも知れなくて、でもその偉い人だって確証があってそう疑うわけでもなくて、」
言いながら考えが纏まらなくて、一旦言葉を切る。こういうのは苦手だ。
「とにかく、世界が本当はどういう色形してるかなんて多分一生分からないし、自分の世界は自分で完結させるしかないと思うんだよね」
我ながら強引に言い切った。倉橋はやっぱり何も言わないので、沈黙が続いた。
「…何となく分かったけどさ」
倉橋はふっと吹き出した。
「あんまり例え話上手くないね」
「うるさいな」
自分が何を言いたかったのか、自分でもよく分からないのだけれど、彼が分かったと言うのだからそれで良いことにした。それから何となく二人して笑って、夏子が発音のテストの日に飴を舐めてしまった話とか、芦屋さんの恋多き日々の話をしてから、今度は私から、
「探そうか、りおちゃん」
爆弾を投下してやった。
八月二十日、午後三時。快晴。
さかなネコから始まる暴露大会から五日経った今日、私と倉橋は、りおちゃん捜索作戦会議のために再び集まることになっている。今回の集合は学校から少し離れた駅にある喫茶店だ。学校は座って話をするのに向かないし、誰かに見られて面倒なことに変わりはない。店は私と夏子のお気に入りの場所を指定した。この店のパンケーキはクリームが甘過ぎず、食感はふんわりとしていて人気がある。内装も木目調の調度品に囲まれたレトロな雰囲気で、落ち着けるだろう。私は着やすいワンピースに薄いカーディガンを羽織ると、少し早く家を出た。
今時珍しい、ベルのついたドアを押して開けると、店内はちょうど良い涼しさだった。席に着くとパンケーキとアイスココアを注文する。と同時に、
「あ、同じのもう一つずつ」
倉橋も到着し、注文を重ねた。「かしこまりました」と下がる店員さんを見送り、声を掛ける。
「早かったね」
「そっちの方が」
「私はパンケーキ食べたくて」
「道に迷うかも知れないじゃん」
約束の三時まではあと三十分もある。真面目か。しばらくするとアイスココアが二つ運ばれてきて、パンケーキもそれに続いた。「取り敢えず食べよう」という私の意見に賛同を得ると、私たちは雲のようなパンケーキにナイフを入れた。
「それで」
アイスココアに沈む氷をストローでくるりと回しながら、会話を促してみる。パンケーキに夢中になる間に氷が溶け、グラスの上の方ではココアが薄くなってしまった。
「まず、りおちゃんについて教えてよ」
「そう言われても、あんまり覚えてないんだよね」
どういうことだ。いきなり議題の根本が崩れてしまった。
「いや、もう最近は殆ど諦めてて、忘れようとしてたから。人間の記憶って薄情だよね」
どこか吹っ切れたように言われても困るのだけれど。
「じゃあ、さかなネコ貰ったときの話しを詳しく」
「先週話したことが殆どだけど…」
「やる気ある?」
「すみません」
倉橋は甘いものが苦手だったのか、好きだから味わっているのか分からないけれど、「貰ったときねぇ」と言いながら少しずつパンケーキを口に運んでいく。
「泣いてたらくれたって言ってたよね」
「あ、そうだ。確か迷子になって、寂しくて泣いてたんだ。そうしたらこの子が側にいれば寂しくないからってさかなネコくれたんだよ」
「どっちが年上か怪しいな」
「確かに」
やっと倉橋がパンケーキを食べ終わると店員さんが皿を下げ、テーブルが少し広くなった。
「あ、神社にいた」
「え?」
「いま思い出した。あのとき、どこかの神社にいたんだ。迷子は迷子なんだけど、帰り道がわからなくなって泣いてたんだ」
「何でまたそんなところに。初詣?」
「いや、寒かった記憶はないかな…」
また倉橋が「それで…」と記憶を辿っているうちに、私はスマホで地図アプリを開いた。
「ここが最寄りなんだよね?引っ越してない?」
画面の上に、うちの高校近くの駅を表示させ尋ねる。
「うん、生まれたときから住んでるよ」
「この近くの神社は、ここだけだね」
「ほんとだ」
最近のインターネットは発達しているもので、画面に表示された円を描く矢印マークを押すと、簡易的な線で描かれた地図は実際の写真に切り替えられた。葛葉神社という名前の下には、説明文も少しだけ記載されている。
「縁結びの神社って、そこら中にあるんだね」
「あ」
私の感想をよそに、また倉橋が声をあげる。欠けらのピースを集めるパズルみたいだ。
「ここだよ、この階段。花火がよく見えるって聞いて、すごく長い階段を上がった」
「花火…が上がるお祭り?」
この近辺で花火を空に打ち上げるほど大きな祭りはいま、年に一回しかない。五、六年前なら同じだろう。
「くずは祭り、明日だよ」
〈夏子ごめん!明日のお祭り一緒に行けなくなっちゃった〉
〈そうなの?残念…彼氏紹介してね〉
〈違うって〉
〈ほんとか?〉
〈ほんと〉
夕方になって家に着くと、急いで夏子にメッセージを飛ばした。約束を破ってしまう形になり申し訳ないけれど、最近よく働く私の勘が明日行くべきだと主張している気がしたのだ。倉橋も快諾し、まずは神社に向かうことになっている。恨まれたくはないので、倉橋が芦屋さんと行く予定ではなかったことを祈りながら、私はベッドに潜った。
八月二十一日、午後七時。昨日に続き快晴だったので、今夜は花火日和だ。
「なんかお祭りって、いるだけでわくわくするよね」
何と、倉橋は甚平を着込んでやって来て「浴衣着なかったの?」と言い放った。会うたびにマイペースさが加速している気がするのは気のせいだろうか。しかもビーチサンダルであの長い階段に挑もうというのは、さすがの体力だ。動じるのも癪なので、私は気にせずに言った。
「行こう」
「うん」
駅で集合した私たちは、暗くなりだんだんと増えてゆく浴衣姿の祭り客を通り過ぎ、会場に近い小山、昨日見つけた神社へと向かう。大通りから橋を渡って、狭い道を通って、確かに、小さい子どもがはぐれたら分かり辛い道かもしれない。そうして神社の麓にたどり着くと、
「階段長くない?」
「そんな格好で来るからだよ」
「せっかくのお祭りじゃん」
言い合いながら、私たちはその階段に足をかけた。
やっとの思いで上まで登りきると、思いのほか広いその神社に人はいなくて、段数のおかげか祭りの喧騒もどこか遠い。木々の葉が擦れる音がやけに大きく聞こえて、風の強さと涼しさをより感じさせた。
「うわ、広いね」
息も絶え絶えな私に対し、やはり余裕そうな倉橋が呟く。悔しい。
「何か思い出せそう?」
「うん、すごく懐かしい」
倉橋は吸い寄せられるように鳥居をくぐり、どんどん進んで行く。何だか置いていかれるような不安を感じて思わず倉橋の袖を掴んだ。
「どうしたの?」
「いや…」
幼かった倉橋はここで遊んで、迷子になって、それで、
「あれ、何してるの?お兄ちゃん」
会いたいと願ったのだ。家族に。
「あ」
小さく声を漏らす倉橋の視線をたどり、今しがた上がってきた階段の方を振り向くと、
「えっ何で泣いてるの!」
その子は、気付けばそこにいた。
薄黄色の、蝶々柄の浴衣を着た女の子は髪の毛を後ろでひとつに括り、可愛らしい花の髪飾りを添えている。いつの間にかポロポロと涙をこぼす倉橋に「お兄ちゃん」と呼びかけるその子は、倉橋より少し背が低くて、細い目で、爽やかな笑みを浮かべていた。話し方もどこか似ていて、私は「あぁ、倉橋の妹だ」と思った。呆けたように動かない倉橋の袖を少し引っ張ると、倉橋は
「理央」
はっとして、彼女の名前を呼んだ。
「うん、どうしたの?」
「これ」
甚平のポケットから、少し震える手でぬいぐるみを取り出す。
「何これ、さかなネコ?もしかして昔あげたやつ?懐かしいなぁ、まだ持ってたの?」
浴衣の女の子、理央ちゃんは、涙の止まらない倉橋を快活に笑い飛ばした。
「そう言えば、これあげた時も泣いてたね、お兄ちゃん」
「そうだったね、ごめん」
「仕方がないなぁ」と理央ちゃんは持っていた巾着からハンカチを取り出すと、倉橋に押し付けるように渡してきた。
「私これから友達とお祭りまわるから、もう行かないと」
「うん、分かった」
「じゃあ」
そう言うと理央ちゃんはくるりと階段に向かい一歩踏み出した。けれど、そのまま立ち止まってもう一度こちらを振り返った。それから今度は私に向かって、
「お兄ちゃんをよろしくお願いします、泣き虫だけど」
と言って楽しそうに笑いながら駆けて行った。
「理央!」
倉橋がもう一度呼びかけると、理央ちゃんはちらと振り向き手を振ってくれる。けれど、強く吹いた風に思わず瞑った目を開けると、今度こそ本当に、倉橋の妹はいなくなっていた。たった一瞬の、確かな会話。
「…妹さん、元気だね。嵐みたいだけど。あと倉橋に似てた」
「そうかな」
「そうだよ」
私たちの手元には、だいぶ薄汚れて年季の入ったさかなネコに加えて、小さく蝶々の刺繍が入ったハンカチが残された。
「これ、持っててくれない?」
倉橋が薄黄色のハンカチを私に差し出す。
「涙拭いてあげようか」
「間に合ってます」
ハンカチを受け取ると、
「お腹すいた。焼きトウモロコシ食べたい」
泣き虫な倉橋の希望によって、私たちは祭りの参加を決定した。