第九話:ある名無したちの物語①
――それは、凍えるような夜であった。
御者が消えてからもう一刻。暖を取れるようなものなど何一つなく、打ち捨てられた馬車の内側では、子どもが一人、うずくまるように震えていた。
名前は、無かった。それは、買い手が見つかってからつけられる決まりであった。
さよう、これはありふれた話だ。ゆえも知らぬ餓鬼どもの話。食うに困った者どもが、ああよさらばと売り払った、その後の話だ。
名の有り無しなど、何ほどのこともない。そういう手合いは、だいたい産んだ時から目障りなのだ。気まぐれででも愛憎のあろうものなら、そいつは実におめでたい皮肉だろう。
あたりには、雪が吹き込み始めていた。がりがりに痩せた手足にとうに感覚はなく、こけた頬の上に開かれた瞼は、凍りついたまつ毛の下で、夢とも現ともわからぬ曖昧な光をちらつかせていた。
売られ、買われ、やがて死ぬ。物として生きるべく定められたその瞳は、物語の行き先など知る由もない。そのがたついた車輪の音が終わるとき、その瞳は誰かの物となる。そうなったら、もはやそれを取り戻すことは永遠に叶わぬ。
物語に見放された、大人たちの理屈。
名無しの子どもは、青ざめた膝にぐっと冷たい鎖を引き寄せる。
「たすけてよ」
襤褸越しに、それは囁いた。
「さむい、いたい」
弟の――いや、それはもう一人の名無しの声であった。
馬車の中の名無しは、毛布の中で震えながら、ぐっと耳を塞ぐ。何も聞こえない、誰もいるはずがない、そう言い聞かせる。
実に正しい。その名無しのことであれば、ついさっき連れていかれたばかりなのだ。目の前で見ていたのだから、信じるはずもあるまい。
その子は、母親の声に欺かれた。
名無しは、すがりつくように鎖を握る。見れば、その鎖が繋ぎとめる小さな手錠の中心では、にわかに色あせた紫色の石が、消えかけのランタンのようなぼんやりとした淡い光を放っていた。
光をじっと見つめ、そして祈るように目を閉じる。
温かい。血の匂いがした。とうに目を背けたその場所には、石の光の失せた手錠と、そして、そこになおも繋ぎ留められる、引き千切られた小さな子どものぼろぼろの手首があった。
オルトゥスの春曳き。
人々は、その季節をそう呼んで恐れる。
雪解け水の滴り始めた冬の終わり、北辺のオルトゥス山脈には、他のどこよりも先駆けて、いやに暖かい春の風が吹き荒れる。山々は雪の白さから目覚め、鮮やかに色づく太陽に照らされて、枯れ木の足元からは若々しい草花が芽吹き出す。飛び立った鳥たちは高らかな鳴き声を響かせ、それを聞いた何も知らぬ旅人どもは、せせかましくも冬の仮住まいを慌てて畳み始める。
まるで曳いてでもきたかのような、季節外れの春。
それは、人々を北へと誘いこむ。北辺の豊かな山々。富を求める者たちは、その曳きずられてきた春の土気色の病相に、ずけずけと恐れ気もなく入り込む。
そうして、知るのだ。
その春の訪いは、決して、冬の終わりなどではないのだということを――。
――それは、雪解け水が滴るある暖かい日のこと。
トゥールを避け、南から北東の白色原野へ足を進めていたそのみすぼらしい荷馬車は、荒々しい山道も半ばに差し掛かったところで、唐突な吹雪に見舞われた。
夕日を見送ってから、まだそう間もない頃。思いもよらぬ天の心変わりに不承不承ながら馬を止めたその男は、背後の荷車を覗き込み、そして、その中にいた二人の子どもに向かって、無造作に一枚の毛布を叩きつける。
鎖が、かちゃりと音を立てる。折りたたまれた毛布が二人の顔を乱暴に打ち据え、痩せて色を失った体が、薄汚れた木目の床にぎしりと嫌なきしみを鳴らす。
子どもたちは、うめき声一つ上げなかった。
男は、短く舌打ちをする。
酷い人生もあったものだ。
よりにもよって、こんな呪われどもを運ぶことになろうとは――。
男は思い起こす。
あれは、金もつきかけた冬の半ばの頃だった。ひもじさに苛立ちながら街をぶらついていたその男は、さる商人のあこぎな計らいで、思いもよらぬ仕事を引き受けることとなった。
人さらいどもの持ち込んできた厄介な仕事――呪われた紫色の目の餓鬼どもの始末である。
一人につき、公国のハイペル金貨十枚――。
その話を聞いた時は、どこの山師からの伝手だと問いただしたものだ。
紫目は人王国では最悪の凶兆。常識的に考えれば、そんないわく付きにまともな買い手などつくはずもない。実際、話を掘り起こしてみれば、拾ってはきたいいもののろくに売れる見込みなどまったくなく、その上呪いを恐れて誰も世話をしたがらないということで、その二人は、長らく、生き死にどちらに転んでもかまわないような扱いをされてきたということであった。
そんな餓鬼どもが、今更どうしてそのような大金で商われているというのか。
だが、聞いてみれば、なんとまあ、都合のよい話のあるものか! 今まさに、餓死を目前にしたというその時になって、その二人の呪われに物好きな買い手がついたというのだ!
《ゲオルク・ハイゼンベルク》
その買い手は、人王国では知らぬ者のいない豪商であった。
北辺の裕福な商家に生まれ、若くして巡礼の旅へ立ち、帰郷を果たしてからはその名声と腐敗の手腕で瞬く間に宮中を掌握し、ついにはメンダシアの商人どもの首魁となって、あの悪名高い三同盟戦争で時の王をも跪かせた。
金と知恵に愛された、北辺の蜘蛛――。
そんな男が、あろうことか死にかけの餓鬼どもに大金を叩くというのだ!
作り話のような話である。だが、聞けば物事のからくりもあるというもの。なんでも、その男がこのところ熱心に財を投じているという、未開の白色原野の不可解な宝玉掘りの商売において、その呪われた目が役に立つのだという……。
男は迷った。それは思ってもみない幸運であった。
思えば、これまで碌な物語などなかった。
孤独の身になったのは、はたしていくつの頃だったか。祭祀官どもの庇護も及ばぬその人の世の端くれに、蛮族どもが嵐のように襲ってきた。親は殺され、故郷は焼かれた。生き残った男は、盗みしか生きるすべを知らぬまま大人になり、やがて巡り巡って、かつて自らがそうしていたように、身寄りのない餓鬼どもから盗品を買いたたく路地裏の商人となった。
まともではなかった。だが、だからこそ男は誰よりもわかっていた。自らが、自らの運命の御者であるということの何よりの価値を。
世の中には、もっとまともではない物語があふれている。男は知っていた。そして、知ればこそ、幸運の足るをも知るというもの。残酷な幸運を――。
あの時、あの商人が気を離していなかったなら。あの時、あの路地裏を曲がらなかったなら。あの時、あの人さらいの悪たれが公国の黒騎士に斬り殺されなかったなら――。
きっと、今笑ってはいなかっただろう。
酒代をふっかけ、男は仕事を引き受けた。
人間を運ぶなど生まれて初めてのことであったが、何も問題ではなかった。その晩はぺらぺらの王国ノモス金貨を叩きつけて飲めるだけ飲み、いつぞや盗んでこしらえた荷馬車にありあわせの支度品をぶちこめるだけぶちこんだ。
冬支度は、あまり気にしなくてよいと聞かされた。ごく短い間ながら、北辺は実に暖かい春の気に覆われるため、雪は解け、ただ通り抜けるだけならばさしたる問題にはならないということであった。
そして、そんな白色原野への道は、人さらいどもがよく知っていた。むろん、トゥールを通る世間に知られたわかりやすい道などではない。冬のトゥールは古の訪いの倣いによってその門を閉ざしており、したがって、この時期に白色原野へ至るには他の知られていない――あるいは秘密にされている――ルートを通るほかないということであった。
男は、運命の変転に酔っていた。
公国のハイペル金貨十枚、それも二人合わせて二十枚ともなれば、王国の宮仕え一年分の報酬だ。それなりの土地と家を買うなどはわけなく、それに蛮族の捕虜奴隷を何人か買い込んでも、金貨三枚は手元に残る。
まっとうな商売に身を入れ替えるならば、この時をおいてほかにはあるまい。半ば諦めていたまっとうな人生、その夢のような物語に手が届く事実に、男は心から喜んでいた。
そして安堵する。男は悪党ではあったが、唯一、人を殺したことだけはなかった。人を殺せば、地獄に落ちる。命に呪われて、魂は始祖の楽園に還ることを許されず、永遠に苦しめられ続ける。幼い頃に聞いたその迷信は、男の心に今でも焼き付いていた。
この世恨めしさに、あの世の安らぎまで捨てたくはない。碌でもない人生だったからこそ、男はその救いに何よりこだわっていた。
盗むのも、奪うのも、すべては正しく、生ききるためだ。そのためならば、なに、始祖よりたまわりしこの尊厳なる命のほか、くだらない現世のことごとなど、何ほどのことがあろう。皆ゆくゆくは、始祖の楽園にてこの世の贅沢や貧しさから解き放たれて、始まりの頃の人々のように、等しく幸せに暮らすのだ。ゆえに真に盗んではならぬものは、奪ってはならぬものは、何であるのか。
それはただ一つだ。
聞くまでもない話であろう。
かくして、男は最後の仕事に手をつけることを決めたのだ。
思い出話から身を起こしたとき、男の操る馬車は、ちょうど吹雪よけになりそうな谷あいを見つけたところだった。
馬車を留め、馬に寝藁と心ばかりの襤褸を与えて、男は餓鬼どもものいる荷車の中へと戻る。
幸い、吹雪とはいってもまだ耐えられぬほどの寒さにはなっていなかった。餓鬼どもに毛布は与えたし、山道も難所であるという南側はもう通り過ぎた後だ。たとえ雪が止まずとも、夜が明けてすぐに出立すれば、立ち往生する前に白色原野へたどり着けるだろう。馬がえらく震えていることだけは気がかりだが、飼い葉も多めにふくませたし、あとは祈るほかあるまい。
意外と、気分は悪くなかった。色々思いだしたことで苛立ちが収まってきたのか、むしろこれからの幸福について頭を巡らせることができるようになっていた。
毛布に身をくるませながら、男は荷車の床に座りこむ。
鎖につながれた二人の子どもの方を見る。光が見えた。紫色に光る、不思議な石――。手錠の中心にはめられたその石を見て、男はすぐに目を離す。人さらいども曰く、それは餓鬼どもの呪われた目を封じ込めるための、魔除けの類だとのことだった。
見ているだけで、嫌な予感がした。だが、いったん目を離してさえしまえば、何ということもなかった。水を差された気分に充実感が戻り、頭の中に再び前向きな言葉がよみがえってくる。
「立派だ。ちゃんと教えを守ってきたからだ。息子よ、お前は《アウグストゥス》の立派な待ち子だ」
声が聞こえた。
それは男の父――もう記憶さえ薄らぎかけていた、幼い頃に殺された父の懐かしい声だった。
男は幻に目をつむる。捨ててしまわなくてよかった。悪いことばかりの人生かと思ったが、なんだ、報いというものはあるではないか。始祖よ、アウグストゥスよ、いずれ帰り来る運命の主よ。
生きよう。これからはまっとうに。かつて、そうであったように。
ふっと、笑みがこぼれた。そうして、その心温かい幻に感謝をささげた男は、けれども、その最後に、そんな自らの汚れた人生に名残を惜しむかのように、短く、その男らしい憎まれ口を返すのであった。
「うるせえよ」
それは、その男の最期の言葉であった。
何かが、男の腕をつかんだ。
男は、地獄に落ちた。