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彼岸のクロニスタ  作者: 御御
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第八話:彼岸への旅

 屋根裏部屋は、つんと冷え切っていた。

 温かさが上がってくることはない。壁の留め金に梯子を引っ掛け、天井を押し上げたその先にあったものは、彼自身が積み上げてきた、冷たく静かな独りの空間。

 毛布を巻き付ける。梯子を引き上げ、部屋脇に敷かれた粗末な毛皮布団の上に座り込む。そうしてしばらくぼうっと眺めた後、ぽっかりと空いた床の出入り口を無造作に閉じる。蝋燭に火を灯す。ほの暗い三角屋根の天井に橙色の光がかかり、壁にもたれかかる彼の背中に色濃い影を浮かび上がらせる。

 彼は真っすぐに前を見つめる。その目の向こうに映っているのは、短いカーテン越しにわずかに差し込む、白んだ冬の太陽。

 他には、何もない。身をくるむ毛布と素朴な燭台以外、その空間には何一つとしてありはしなかった。

 彼は思う。果たしてこれを見た彼女は――ユナは、何と思ったのだろうか、と。頭を掻く。寒い日のせいか、爪のかかったところはいやにしみた。


 そういえば――。


 その時、彼はふと思い出した。

 毛布の内側をまさぐる。まだ外してはいなかった腰の鞄から、すっとその一冊の本を取り出す。

 匂いがした。金糸の表紙で飾られた、半ば変色したぼろぼろのそれは、今朝ミリアムから譲られた『彼岸への旅』――古い旅人、マシュー・メリベルが書き残した数少ない私書の一つであった。

 彼は、留め金に手をかける。鍵はかけられていなかった。ほんの少し指を弾くだけで、そのぶさぶさのベルトは表紙から滑り落ちた。

 閉ざされたページが、彼の前に横たわっていた。いたく傷ついた表紙、無数の針あと、ほつれ破けた皮の毛羽立ち。にじみ、かすれたサインの筆致は、長い年月と、またそれを共に旅したであろうその男の人生を思い起こさせた。

 彼は、表紙にゆっくりと手をかけた。

 心臓が、ドクンと脈打つ。

 始まりのページが、露になる。不思議な気分だった。まるで何かを予感しているかのような、本の魔力にあてられたその少年は、なぜだろう、あの時のミリアムの言葉を思い出す。


 「結末だよ」

 

 その旅は、お役目とともに終わった。

 旅に魅せられ、世界に魅せられ、美しきに魅せられ、そして何もかもを狂わされた。

 その始まりは、きっとこれなのだろう。

 

 《マシュー・メリベル》


 その名は、人王国では忌まわしの名である。

 彼岸への旅人、巡礼者、楽園に至りし者。様々な二つ名でもって語られるその旅路は、まさに()()()()とさえいってよいものであった。

 その者は摂理を曲げた、その者は竜を欺いた、その者は神々にまみえた、大いなる河を乱し、禁じられた楽園へと足を踏み入れた。祭祀官どもの非難をあげれば、実にきりがない。その男は、偉大な旅人にして、生まれながらの異端者であった。

 冒険譚は、その私書の多くが焚書されてなお、各地に伝わっている。


 ある日、グラディアの街にて、マシュー・メリベルは星が落ちるのを目にした。

 人々に始祖の声が響き、学徒らは星を求めて山へと向かった。

 星は竜フアトの賜り物であり、そこに眠る獣は、人々を穢れた命より救うと伝えられていた。

 しかし、これを聞いた男は、星を探し出すやいなや、これを叩き殺してしまった。

 ために三つの村が滅び、これを悲しんだ始祖は、もはや人々にその声を響かせることはなくなった。

 星の権能は盗まれ、盗んだ男は、夜の闇にまぎれてどこかへと逃げ去っていった――。

 

 これは、祭祀官どもが語る物語の一つである。

 マシュー・メリベルはフアトの賜り物である星の獣を殺し、その権能を盗み、人々に災いをもたらし、どこかへと逃げていった。

 狡猾で、身勝手で、無軌道で、そして自由なる旅人。望むがまま、欲するがまま、成したいことを思うように成す。まこと、その旅人の物語は邪悪に彩られている。


 マシュー・メリベルは世界の敵だ。


 しかし、そう語り広めるには、祭祀官どもの対応はいささか遅きに失した。

 その男が書き残した私書――知られざる世界の在り方を伝えるその人生の記録(クロニカ)は、押し込まれた人々の心に新たなる冒険をかきたてた。


 わたしは、みた。

 かなたにひろがるうつくしいげんしょのもりを。

 それはいりぐちであった。わたしはらくえんのへんきょうへとあしをふみいれ、そこででんせつのしそ――おおむかしのひとびとのあとをみた。

 おうごんだ。とおくうしなわれたイル=アクタのまぼろしのこぼくのもと、むすうのせきひに、おうごんでかたどられたひとびとのかおが――かめんがあった。

 こもれびがわたしにつたえた。きぎのすきまからまいこんだはなびらがわたしのあしもとにおちたとき、わたしは、それがはかなのだときづいた。


 これは、『彼岸への旅』として知られるマシュー・メリベルの冒険譚、その最も有名な一節である。

 古の人々、始祖の楽園へと踏み入ったその男は、その失われた森の中で、始祖たちの黄金の仮面を――墓標を見た。それは楽園の辺縁、《記憶の森》。祭祀官が語り伝える楽園の伝説の、その入り口として伝えられる象徴的な場所であった。

 マシュー・メリベルは楽園へと至った。だが、それが物語だけだったなら、きっと誰も信じなかっただろう。楽園へと至ったなどという世迷言は、過去に多くの愚者たちがうそぶいてきたことであり、ただそれだけであれば、この男とて、人の世に何のさざ波とて立てることはなかったであろう。

 まさしく、夢物語のはずであった。本当に、次に続くその言葉――その男らしいその()()がなかったならば!


 わたしは、それらをかばんにつめこんだ。

 さきへいきたがったのだが、たびじたくはつき、それにかねもなかったのだ。

 さいわい、わはまだのこっている。いちどまちへもどって、うることにしよう。

 したくができたら、ここからしゅっぱつだ。


 あろうことか、マシュー・メリベルは墓標と知りながら、黄金の仮面を盗み、売り払った。

 いともたやすく、伝説の証拠は人々の手に落ちた。祭祀官どもが恐れとともに怒り狂ったのも、無理もない話だろう。証拠は瞬く間に世界中を巡り、やがてその私書がその後を追った。

 その男は――冒険は、人々の心をつかんだ。


 美しきかな世界よ! 

 なんということだ!

 我々の外には、いまだ知らぬ富と名誉が眠っている――!


 祭祀官どもは、もはや人々を王国に留めておくことはできなかった。

 伝承にあてられた狂人たちは、境界を越え、掟を破り、そして発見とともに生きて帰る。目ざとい商売人どもがそれをとらえ、冒険はやがて新しい生業と産業になる。

 私書を焼き捨てたところで、もう遅かった。その男が現れる以前と以降では、人々の精神は何もかもが変わってしまっていた。

 異端者のたわごとは、世界の在り方を変えた。人の世は、その男が現れた百年前――ちょうど百年前から、目に見えて豊かになっている。トゥールの北東、閉ざされた未開の白色原野など、その男の存在がなければ、きっと今でも手つかずのままだっただろう。

 伝承、禁忌、運命、そして呪い――。ある種の人々は、いよいよそれを征服する時代が来たのだとうそぶいている。

 継承者たちは、どこにでもいる。だが、だからこそ、旅立ちには警句が与えらえれるのだ。

 

 旅人よ、きみは、帰ってこられる者か?

 

 物語の結末。

 マシュー・メリベルは、その最後の旅から帰ってこなかった。

 彼は息を吐いた。旅なら、もう始まっている。あの日、ミリアムから護りの剣を受けた時から、もはや後戻りなどできないのだ。

 後悔はしない。どんな結末が待っていようと、その意味を知るまでは――。


 「教えて欲しい。あれは、本当にあなただったのか?」


 彼は、扉を開けた。

 つんと、匂いが舞い込んでくる。そうして、異様な静けさとともに高ぶってゆく彼の精神は、その目に映る最初の一言(クロニカ)に重なるかのように、いつかの、遠い昔の記憶を呼び起こすのであった。


 《わたしは、みた――》

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