第七話:粛清
祭祀官たちは、皆我を失っていた。
聖性は人の心に囁きたてる。それは声なき声であり、何者も抗うことのできないものだ。特に、導きの竜フアト――すべての聖性の上に立つ者、世界の守護者にして人々の擁護者、永遠の救済者であるその声を前にしては、人は皆その心を失い、ただただ竜の恩寵に首を垂れるのみ。
拒絶することなど、できはしないのだ。その竜はすべてを愛し、そしてすべての魂は竜とともにある。生命を、人の世を、永遠に護らんとするその不滅の存在は、世界そのものであり、すなわちそこに生きる一人一人の自分そのもの。
その輝かしい光に触れれば、いかなる魂もその意志にとらわれる。竜の意志に。そして思い出すのだ。かつて一つであった頃を。始まりの星空のもとで、遠い時の彼方へと分かれていった同胞たちのことを。悪性は正される。その光は、すべての魂の奥底に刻まれた原初の記憶を、その竜が見届けた始まりの世界の美しきを、呼び起こす奇跡なのだ。
「フアトよ、竜よ」
祭祀長が立ち上がり、深々と頭を下げた。
白衣の祭祀官たちがそれに続く。彼も――ナジもまた、それに倣い、円卓に幾許かの静謐な空気が漂う。
聖性の光は徐々にその形を取り戻しつつあった。辺り一面に爆ぜ散っていた色彩の嵐はゆっくりと闇の中へと消え、目を刺すような眩い閃光は、次第にその輝きを落ち着かせ、円卓の中心――色なき宝玉の中へと収斂する。
宝玉は、真っ白に輝いていた。太陽の辺縁、そこからこぼれ落ちたようなその清浄な光の顕れは、その周囲に茫洋とした七色の霧を立ち上らせ、そしてその中心に、赤々と燃え盛る炎を――ぎょろぎょろと周囲を見渡す、爬虫類を思わせる真っ赤な「瞳」を、到底光とは思えないほどの瑞々しさでもって浮き上がらせていた。
「赤じゃ……」
誰かが言った。
その瞬間、彼はその内側に激しい恐怖が湧き上がるのを感じた。
何かが、頭の中に入り込んでくる。無数の印象。炎と死、絶え間ない絶叫、行き場を失った人々の絶望、そして血を滴らせる――墨染めの真っ黒な「一つ眼」。
それが警告であるのは、すぐにわかった。この恐怖は、いつか人々が直面するであろう、未来の景色。全智の聖性である竜が、その輝ける瞳のもとに見通した、予言なのだ。
竜は、怒っていた。自らの知った未来に。そこでもたらされる許されざる悲劇すべてに。
ならぬ――。
言葉が入ってくる。
それは怒りか、あるいは違う何かか。不思議なことに、彼には、それがまるで自らに言い聞かせているような、そんな言葉のように感じられていた。
「ヴェルムの印じゃ!」
「混ざり者ども、裏切り者が!」
「しかし何ゆえ……!」
祭祀官たちは口々に叫んだ。
ある者は恐れ、ある者は憤り、ある者は明かされた運命に思索を巡らせる。反応は三者三様であった。
しかし、そこに見る景色は一つであった。破滅。すべてが奪われ、貪られ、何もかもが死と炎に消える。竜の全智を知るからこそ、そのしもべたちは恐れ慄いていた。
「お方々、落ち着かれよ!」
祭祀長アンゲロスは制した。
「運命を見定めるには、まだ早い。竜は、我々に警告しておられるのだ。色を見よ。御方の目はいまだ赤く、導きは真と幻の狭間で揺れ動いておる」
光を指し示し、祭祀長は続ける。
そこに浮き上がる真っ赤な瞳がぎょろりと蠢き、祭祀長の姿を見据えて明々とその輝きを燃え立たせる。
円卓が、しんと静まり返る。
「備えねばならぬ。北辺を、我らが土地を、穢れた者どもの手に渡してはならぬ!」
祭祀長が叫んだ。それは正論であった。
しかし、それでも祭祀官たちは半信半疑だった。眉間に皺をよせ、周囲の者たちと顔を見合わせる。身振り手振りで懸念を表し、お互いに顔色を窺うようにひそひそと言葉を交わしあう。
ナジには、彼らが何を考えているのかよくわかっていた。彼らは恐れているのだ。予言を、そして何より、その運命に付き合わされるやもしれぬ、自らの身の上を。
殉教を決め込むには、トゥールはいささか場所が悪い。特に、長く祭祀官を務めてきたこの老人たちにとっては、それが意味するところは恐ろしいほどよくわかっているだろう。トゥールの破滅とは、すなわち北辺の秩序の崩壊――「悪霊」の封印が破られるということなのである。
それが現実となれば、もはや命を諦めれば済むという問題ではない。祭祀官となったその日から、ずっと聞かされ続けてきただろう。悪霊に囚われた者の運命を、永遠に続く冷たい闇の恐怖を。
一度は静止した混乱が、再び戻ってくる。
魂が、そんなに惜しいか――?
老人たちを眺め、ナジはふと失笑する。
永遠の苦しみなど、ありふれた話だ。毎年毎年、後ろめたさも無しに見繕われる。そんな故も知らぬ魂は、今年で一体何人になる。王オラドがその冠を受けてから、ちょうど千年。千年の王国、千年の人の世、そして――千年の生贄たち。積み上げてきた魂の在り処を思えば、なんと浅ましい話か。
世界も導きも、犠牲無しでは成り立たぬ。人は、残酷な幸運のもとに生き永らえている。「眼呼び」の誓いのその一節を思い起こしながら、彼は遠い記憶に思いをはせる。竜のしもべは世界の守護者。だが、そうあり続けるには千年という時はあまりにも長すぎた。
視線が、こちらを向いた。そっと顔を伏せる。どうやら、幸いにもその一瞬の変化に気づいた者はいないようであった。通り過ぎるように離される視線に目を細めながら、彼は思う。
きっと、「地獄」に落ちるんだろうな――。
それは南方に伝わる、古い迷信であった。
彼は静かに顔を上げる。議論はまだ続いており、早々に見解がまとまる気配は無いように思われた。
しかし――、
「イオアンネス」
その時、ふと祭祀官たちの間から一人の声が上がった。
「……ハリル前祭祀長殿。一体、どうされましたかな?」
自らの名を呼ぶその声に、祭祀長アンゲロスは低い声色で答える。
ざわめきが押し黙る。円卓に奇妙な緊張感が走り、その場にいるすべての者たちの視線が、その一人の人物へと向けられる。
「焦らすな。そなた、初めからそのつもりだったのだろう」
それは、問い詰めるかのように言い放った。
紫色のストールが揺れる。息をつき、ゆっくりと肩を持ち上げるその人物は、ぎろりと光る両目を真っすぐにその男へと向ける。瞳に黄金の暗がりを孕んだ、褪せる事なき鮮やかな黄色。その鮮烈な眼差しに射抜かれ、現祭祀長アンゲロスはまるで応えるかのようににやりと口角を上げる。
浅黒い肌、シミの浮いた額、背骨の曲がった矮躯、真っ白に染まったぼろぼろの髪。それはまるで死人のようであった。だが、そんな幾重もの年月を重ねたであろう姿にも関わらず、その立ち居振る舞いは尊大な生命力に満ちていた。
ハリル・ムトゥル。
白衣の祭祀官たちの中にあって、ただ一人その色をまとうことを許されたその老人は、現祭祀長――イオアンネス・アンゲロスがその役を与えられるまで、九十九年もの長きに渡りその地位にあり続けた、爛熟の祭祀官であった。
「とんでもない、私は待っていたのです」
祭祀長が言う。
口元を緩ませ、両目の端に軽蔑の笑みを浮かべながら話すその姿に、ナジは思わずはっとする。
「何をだ?」
「心変わりを。呪われた印に今再び改悛の鉄槌を振り上げんと誓う、お方々の告白を」
円卓に集う一同を見まわし、祭祀長は大仰に手を広げる。
祭祀官たちは、何を言っているのかわからない様子であった。顔を見合わせ、何かを窺うようにちらちらと泳ぐ視線は、しばしば、円卓の中央の輝く宝玉へと向けられていた。
宝玉は、赤く揺らめく。しかし、その中央に立つ「眼」は、何も語りはしなかった。ただじっと、二つの時代の二人の祭祀長を見据えて、何かを待つように煌々と灯るばかりであった。
「くだらぬ」
前祭祀長は言った。
「この者たちは、もう誓っておろう。無駄なことよ。神どもの魔女は、とらえた手駒を離しはせぬ」
皮肉げな笑みを浮かべ、老人は辺りを見渡した。
祭祀長が、深くため息をつく。
直後、宝玉が突如として赤々と燃え上がった。嵐が吹き荒れる。それは怒りを露にするかのようにかたかたと小刻みに震え、そして、そこから発せられたヴェールのような薄い光の帯が、部屋に立ち込める闇と空気を押しのけて、ゆっくりと周囲の空間を呑み込み始める。
熱が、頬を打った。しかし、今度のそれは穏やかではなかった。じりじりと肌を焦がすようなその熱波は、明らかな殺戮の意志をもって放たれていた。
円卓に、悲鳴と恐怖が上がった。
「ムトゥル殿、前祭祀長殿、これは一体何だというのです!」
「答えよ、答えよイオアンネス! 我らが何をした! 我らはしもべ、正しき竜の信徒、純血の人の一族なるぞ!」
「竜よ、フアトよ、なぜお怒りに……なぜ我らを見ておられるのですか!」
「これでは、これではまるで……!」
祭祀官たちは口々に叫んだ。
怒り、罵り、非難し、そして懇願する。彼らは祭祀官。ゆえに、その運命を――その竜の目の色を窺うことは、まさしく生業そのものであった。
だからこそ、易かったのだろう。
「粛清だよ」
その言葉とともに、彼らは炎を上げて燃え上がった。
熱風が辺りを包む。白い法衣を焦がし、目から、口から、全身から溢れ出るようにして吹き上がるその炎は、けれども、それを望まれていない者たちには一切の害ももたらさなかった。
罪人たちは燃える。頭を、胸を、腕を掻き乱して。もがき、苦しみ、絶叫を上げる。そして、それらはそこから一歩たりとて逃れることは許されないのだ。立ちつくし、痛々しくバタバタとよろめかせるその両足は、まるで鎖で縛られたかのように、ぴたりと奇妙な角度でもって硬直していた。
やがて、火が消える。どさりと音を立てて崩れ落ちるその真っ黒な死体を前に、立っていたのはわずかに三人。祭祀長アンゲロス、前祭祀長ハリル、そしてナジだけであった。
「白々しい、裏切り者ども」
死体を踏みつけ、祭祀長はこぼした。
それは、もはや人の原型を留めてはいなかった。真っ黒に焼け焦げた全身は煙とともに鼻が曲がるような酷い臭いを放ち、その見た目においては、いくらかの骨格上の差異を残して、かつて個人であった頃の特徴を完全に失っていた。
「愚かなものだ。竜の目の最も近きところにおるにも関わらず、己が末路すら読めぬとは」
無感情な声を落とし、前祭祀長ハリルは言った。
黒々と染まった死体たち。けれどもその体には責め苦を逃れたただ一つの場所があった。心臓の真上、いまやぴくりとて動かぬその胸の中央に浮かぶ、唯一肌の色を残した不自然な小さな焼け残り。その奇妙な白あざは、そこにある死体すべてに等しく浮き上がり、重ねて、その中心において、おぞましき墨染めの「一つ眼」――瞼の右端から血の涙を滴らせる、呪われた「ヴェルムの印」を顕わにしていた。
「ナジ」
祭祀長が言う。
「片づけておけ」
続く言葉に、ナジは静かに頷いた。
二色の法衣が揺れる。姿勢を正した二人のしもべが円卓から一歩退き、両手を組んで宝玉に向けて深々と礼をすると、そこに映し出された竜の瞳は、まるで労うかのように穏やかな赤い光を放つ。その色に、もはや恐ろしい影は微塵もなかった。粛清は終わった。
そうして、輝ける宝玉はふっつりとその光を失う。辺りを包み込む暗がりに身を起こしながら、二人の祭祀官はドアを開ける。光がこぼれ、ナジはつっと目を細めた。
「裏切り者は、あと一人」
ぼそりと呟き、祭祀長は光の向こうへと消えた。
ふっと息を吐く。朝日に照らされたその部屋の惨状は見るに堪えないものであったが、彼にとってはどうでもよかった。うっすらとした眠気が、のしかかるような倦怠感とともに体を包む。
「袋を……持ってこないとな」
彼は独りごちた。
死体に目を下ろす。だが、その一瞬、彼の目は確かにそれを写しだしたのだ。
糸――?
彼は目を細める。
見れば、その焼け焦げた死体には、蜘蛛のそれを思わせる一本のか細い「糸」が、張り付くように絡みついていた。それは陽の光を受けてちかちかと白く瞬き、そうして、その線は部屋の空間のどこかへと――何もないはずの暗がりへと、真っすぐに続いていた。
彼は無意識のうちに辿る。だが、それは短い探索であった。一つ、さりげなく挟んだそのまばたきを最後に、気がつけば、それはもうどこにも無くなっていた。