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彼岸のクロニスタ  作者: 御御
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第五話:あだ花

 朝餉の匂いが、穏やかに出迎えた。

 ドアノブを支え、両の靴からコツコツと雪を払う。外套の紐を緩め、毛皮にはりついた薄っすらとした白い霜を無造作にほどいたら、すっと息を吐き出して、右手で力強くドアを押し開く。

 温かな空気が、そこにはあった。ぱちぱちと音を立てる暖炉、にわかに香り立つ古い木目、火から上がったばかりの鍋に、湯気を立てる琥珀色のスープ。

 かたんと落ちる氷柱のか細い音を背中に、彼はゆっくりとドアを押し戻す。感触は、軽かった。外套を脱ぎ、ベルトから短剣の鞘を引く。壁掛けに紐を回し、靴の留め金を解いて、茶色い毛皮の靴に履き替える。つま先に擦れた柔らかい革の感覚が当たり、結びを絞るかがんだ視界の傍らに、見慣れた玄関の赤茶けた土色が黒い仕切りの輪郭とともに映り込む。

 鎧が、体から降ろされる。無数の鉄の小板を表面に革と白い狐の毛皮が編み込まれたそれは、見た目の物々しさとは裏腹に、少年の手でも容易に支えられるほどに軽かった。

 内側は、ほんのりと暖かい。トゥールの名品として名高いプルビナ白狐の毛皮を使ったその鎧は、外してみれば、およそそうであるとは思えないほどに軽やかで美しい工芸品であった。


 「早かったじゃない」


 不意に、声がかかる。

 壁掛けの隣、番いの衣装棚に鎧を押し込みかけていた手を止め、彼は、すっと声の先へと視線を向ける。


 「ミリアム様から、ちゃんとお話はいただいた?」

 「ユナ……」


 そこには、味見小皿を片手に、鍋から皿へとゆっくりとスープを掬う一人の少女の姿があった。


 「お前が何か言ったのか?」

 「いいえ? 何もかも思い通りになったくせに、毎朝浮かない顔して帰ってくる誰かに、ぴしっと一言言ってくれたら……なんて思っただけよ」

 「……眠いんだ」


 衣装棚がバタンという音を立て、両足が黒い仕切りを越える。

 視線が、一瞬あった。

 色の薄い唇に、首たけで切り揃えられた濃紺の髪、そしてそれらと不釣り合いなほどに鮮やかな赤色の目――。昔からいるトゥールの民と、どこかの流れ者の混血であることは一目で明らかであった。

 スープを一通り掬い終わった彼女は残った鍋を暖炉へと戻し、ふと窓の外を見やる。しずしずと傾き出した冬の陽が町娘のくたびれた服を照らし、木目の床に短い影を落とす。

 ふっと一息を吐く。彼女はふと不満げな表情を浮かべたかと思うと、ぐっとつぐんだ口でこちらを一瞥して奥のドアを開く。瞳だけが感情の欠けたそれが、ドアの音ともに消える。


 「まったく……」


 椅子に腰かけ、スープに映る自らの顔を覗き込み、彼はつぶやく。

 下に着ていた服は、わずかに汗っぽかった。トゥールの冬は寒い。暖炉の温かさがかなりましにしてはくれていたが、およそ薄着のそんな恰好ではそれなりに肌に冷たいものがあった。

 早く上着を持ってこなければ。彼は思う。けれども、今この時だけは、椅子から立ち上がるのがどうしようもなく億劫だった。彼の部屋は、奥のドアの向こう側にあった。

 結局、彼は彼女のことが好きになれなかった。お役目を前に、もしかしたらこの朝が今生の別れになるやもしれぬというのに、どうにもそういう気分になれず、()()()()()に彼女を避けてしまう不愛想な自分にわからないものを感じていた。


 「嫌いじゃあ、ないんだけどなあ」


 思わず、ぼんやりとした声がこぼれる。


 「なら、肩くらい貸してもらえる?」


 つぶやくや否や、狙いすましたかのように奥のドアが開く。

 肩にぐっと力を込め、押しのけるようにしてドアくぐる彼女は、その半身に、一人の老婆の体を支えていた。


 「イリニ様!」


 はっと立ち上がる。

 まどろみから我に返った彼は、彼女の反対側に立って、よたよたと歩く老婆のもう半身をその肩に支える。一瞬、厳しい目がこちらを向いた気がした。

 ゆっくりと一歩一歩進み、椅子の上に腰かけさせる。ふうと息をつく体を背もたれに任せ、近くの戸棚に積まれたひざ掛けを一枚、丁寧に足の上に広げる。

 老婆は、満足したようであった。真っ白なほつれ気味の髪をはらりと揺らしながら、じっとこちらへ向ける目は、白く濁った紺色をしていた。


 「あんた、あんた……ああ、お帰り」

 「ただいま……()()()


 愛おしそうにこぼれる声に、彼はぐっと押し込むようにそう返す。

 視線は、交わらなかった。

 老婆はその両手をゆっくり膝の上に組むと、彼から目を離し、目の前に置かれたスープの水面を覗き込む。


 「帰ってきちゃあ……だめじゃないか」


 ぽつりと、水面が瞬いた。

 皿に手がかけられる。かたかたと小刻みな音を立てるその鏡には、優し気な口元とは裏腹に、どうしようもない悲しみをたたえる老婆の瞳が写り込んでいた。

 少女が、慌てて皿をつかみ上げる。幸い、スープはこぼれてはいなかった。少女はそれを少し離れたところに置くと、老婆の手を握り、優しく膝の上に戻す。

 皺だらけになった頬がもごもごと音にならない声をたて、白濁した紺色の瞳が、陽の光を受けてぐるりと裏返る。体はそわそわと落ち着きなく震え、まるでタガが外れた情動が皮の下からそれを食い破ろうとしているかのような異様な波を立てる。

 老婆は、とっくに壊れていた。誰の目にも明らかであった。


 「……さあ、食べましょう! 昨日は最後の狩りだったからね、ファト鹿のとびきり大きいのを獲ってきたわ。野菜はコ―ジェ、さっき買ってきたばかりよ。で最後は……まあ、いっか。とりあえず、あんたの嫌いな兎は入れてないから。ちゃんと食べなさい……今日くらい」


 少女はそう言って食器を並べると、不意にドアのそばの戸棚を開け、何かを引っ張り出す。

 ふわりとしたものが宙を舞った。無造作に放り投げられた見て、彼は慌てて手を伸ばす。腕の中に柔らかな触感が覆いかぶさる。

 目を落とす。見れば、それはちょうどさっき彼が取りに行こうと思っていた自分の上着であった。


 「ユナ、お前どこから……」

 「奥の部屋から向かって左、梯子をかけて天井を一押し。屋根裏部屋でしょ、あんたの本当の部屋? わかるわよ、私だって弟子なんだから。このくらいのことはお手の物」


 少女がにやりと笑った。

 ばつが悪そうに、上着を羽織る。すっと冷たい空気が袖を抜けて、直後にふわりと温かさが始まる。

 ふと、少女の顔を伺う。わかっていた。彼はちらりと向けた視線をすぐに逸らす。目だけが、笑っていなかった。

 つかの間、静寂が流れる。


 「……聞こえていないんだ」


 やがて、彼は独りごちる。少女から、ふっと笑顔が消える。


 「母さんは……イリニ様は、もう何も聞こえていない。言葉も、声も、鳥や風の囁きさえ、何もわからないんだ。全部、彼岸(あっち)に行ってしまった。ほんの半年前だ」


 暖炉がぱちぱちと音を立てる中、彼は身じろぎとしてしない老婆の姿に目をやる。

 その目は、見知らぬどこかをずっと見続けていた。白濁した瞳に生気は無く、ぼんやりと穏やかな笑みを形作る口は、まるで失った何かを懐かしむように力なく半開きになっていた。

 体だけが、かたかたと小刻みに震えている。動から静へと、ゆっくりと落ちていくように揺れるその老いた姿は、命あれど、魂をこの世に留めてはいなかった。


 「南の城壁……お役目の備えが始まった頃だった。最初に、手がだめになった。剣を持てなくなって、しばらくすると耳がおかしくなった。そこからはすぐだった。城壁から帰ってきたその日、イリニ様は俺の顔を見て言った。帰ってきちゃあ、だめじゃないか……って」


 彼は見つめながら語る。

 けれども、老婆は何も示さなかった。それは膝元に置いた手の指を子どものように組み回して弄ぶだけで、彼が見つめても、声を向けても、何の反応もありはしなかった。


 「俺を拾ってくれた()()()は、もういない。何をしても、どうしても、もう元には戻らない。南の医者も言っていたよ。もう長くない、手遅れだって。ネズミの仲間になったのは、つい先月の話さ。ずっと一緒にいたら、きっと二人ともどうにかなってしまう、そんな気がして……。何度も見てきただろう、俺は……()()()は……もうこの人にとって悲しいものでしかないんだ。だから……」

 「……もういいわ」

 

 少女が遮った。


 「意地悪のつもりじゃなかったの。本当はとっくに気づいてた。ただ、今日が本当に……本当に最後の日になるかもしれないから、聞いておきたかっただけ。あんたが私を好きじゃないように、私もあんたが好きじゃないわ。でもね、そうでなくてもね――」


 彼女は言った。

 暖炉に薪をくべ、前にかけたエプロンをほどく。玄関に向かってゆっくりと進み、壁掛けから黒い毛皮の外套を引き取ると、右肩から巻き付けるように羽織り、紐を引き締める。

 衣装棚から、背の高いブーツが下ろされた。茶色の内履きが、行儀よく黒い仕切りの縁に並べられる。両足が、玄関の土を踏んだ。


 「私は、諦めた。だからこうして、今がある。でも、あんたは違う。私とは違う道を選んだ。なら、悔いだけは残さないで行きなさい。それが、同じ()()()()()私からの言葉よ。……次の春を、楽しみにしてるわ」


 少女は笑った。これまでに見たこともないような、不思議な笑顔だった。

 ドアが、小さく音を立てる。彼は、しばらく無人の玄関を眺めた後、ゆっくりと立ち上がった。

 スプーンを手にとる。老婆の前にスープの皿を寄せ、そっと一口を掬う。老婆の白濁した目が、火につられた虫のように何の音もなくそれをとらえる。口元に、スプーンを寄せた。かぐわしいコージェの香りに、老婆の口がわずかに開いた。

 皺だらけの頬に、血の色が戻った。彼は何度かそれを繰り返すと、ふと自分の皿から一口を掬い、おずおずと自らの口へと運ぶ。


 「最後は、コンサの花びらか。季節外れだよ、()()()


 彼は、くすりと笑った。

 そのスープには、干されてなお深い色合いを滲ませる赤い花弁が入っていた。

 コンサの花には、象徴的な一つのあだ名がある。すなわち、「人生の花」。

 温かさの訪れとともに鮮やかな赤い花を咲かせ、一枚一枚と花びらを失い、そして冬への夕暮れとともにゆっくりと萎びてゆく――。人の一生を思わせるようなその生涯は、けれども、この花のすべてを語ってはいない。

 温かさが、花を咲かせるとは限らないのだ。コンサの中には、どういうわけかいつまでも芽吹かない種がある。それらは春に根を張り、夏にそれを太くして、そして秋にひっそりと芽吹き、冬の始まりに大きな葉と、小さく儚い白い花を咲かせる。それらはコージェと呼ばれ、その豊かでかぐわしい、栄養をたっぷりと蓄えた根と葉は人々の越冬の糧となる。

 そして、その次の種は、果たしてコンサとなるかコージェとなるか、あるいは――。それは、導きの竜にもわからない。人生の花というあだ名は、導きなき人の一生の皮肉である。

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