第四話:呪われた目
まぼろしが消える。
声を取り戻した人々が一斉に目を向け、上がりかけていた指がぴたりと止まる。
見向きもしていなかった銀色の目が、ふっと光を失いながら彼の姿をゆっくりととらえる。
「紫色の……!」
誰よりも早く、祭祀長アンゲロスが驚愕の声を上げた。
気がついた時、少年は広場の中心にぽつんと佇んでいた。
群衆からざわざわと困惑の声が上がる。好奇の眼差しがそこかしこから向けられ、不審げに顔を見合わせる祭祀官たちの囁き声が音もなく響く。
彼は、激しく鼓動を打つ自らの胸に、ただただ言葉を失う。記号的な響きだった。一瞬、彼は自分がどうしてそこにいるのかわからなくなっていた。まるで何か悪いものにでも当たったかのように、ぐらぐらと腹の中で渦を巻く情動は、さっきまで彼が抱いていたはずの心に、まったく別の色をべったりと塗りたくっていた。
目と目が、合った。けれども、仮面越しに覗く銀色の瞳は、今は何の光も宿していなかった。じっと、まるで何かを見つけたかのような不思議な感情の色でもって見つめるそれは、悪霊にも、そして何の聖性にも穢されていない、ただ一人の人間の静かな瞳であった。
「祭祀長」
仮面から、小さく声がこぼれる。
「決まりだ」
指が、真っすぐに彼の顔を指し示した。
祭祀長がぎょっと仮面の男を見やる。仮面と少年の顔を何度も行き来するその緑色の――敬虔なるフアトのしもべの目――は、初老にさしかかったそれにしてはいやに若々しい感情にあふれていた。
何人かの祭祀官が、祭祀長のもとへと駆け寄る。彼らはぴったりと重なるようにその顔を寄せたかと思うと、時折少年の顔をちらちらと覗き込みつつ、ひそひそと何かを話し始める。
広場に、物々しい雰囲気が漂った。訝しげに囁きあう群衆の目は祭祀長と仮面の男とを行き来し、逆に、さっきまで囁きあっていた祭祀官たちは神妙な顔で直立し、まるで沙汰を待つ罪人のようにぐっと口をつぐんでいた。
周囲の様子に、彼は思わずはっと顔を伏せる。
選ばれた――?
拳を握りしめ、跳ねる心臓の音を聞きながら、窺うようにそっと目の前の光景を見る。
仮面の男は、微動だにしていなかった。じっと指を彼に向けたまま、静まり返った瞳で彼の混乱した表情を見つめていた。
「どうした」
仮面の男がぼそりとつぶやく。
「お前だ。やりたいんだろう、このお役目を?」
「は、はい……!」
その時どうしてそれしか言えなかったのか、彼にはわからなかった。
頭の奥が熱かった。恥でも、喜びでもない。けれども、この現実の景色が――少なくとも、何度も描いたはずの想像の景色とはまるで違うことだけは確かだった。
その男の目を、見れなかった。
「祭祀長!」
仮面の男が叫んだ。
祭祀官たちがぱっと輪を解く。その中心から現れた祭祀長アンゲロスは、驚愕の表情を浮かべてこちらを見つめていた。
「剣をよこせ。おれが与える」
「何を……」
言うや否や、仮面の男は祭祀官たちの方へ歩き出す。
祭祀長を無視し、一人の祭祀官の前に立った男は、それが両手の平に抱えていた一本の短剣をひったくると、息すらはさむことなくくるりとその背を向けた。短剣を太陽に掲げる。刃の煌めきを目でなぞり、その柄に埋め込まれた真球の青い宝石をまじまじと細めた目で見つめる。
紫衣が揺れた。仮面の男は勢いよくその刃を空に振り下ろすと、そのまま彼のもとへと力強く歩み寄る。
「フアトの名のもと、護りの剣を与える。受けよ」
男は、そう言って短剣の柄を差し出した。
予想もしない出来事に、彼は一瞬選択に迷う。奥を見れば、狼狽える祭祀官たちを振り払って祭祀長アンゲロスが進み出てきているところであり、周囲の群衆もまた、その異常さを察してかより不安げな声を高め始めていた。
「紫目の呪われが……!」
ふっと、そんな声が聞こえた。
誰が言ったかは定かではない。しかし、ここにいる多くの人々の中に、彼をそう呼んで憎悪する者がいることだけは、今の彼にもよく理解できた。
自分は、何をしてしまったというのか。思考が頭の中で渦を巻く。お役目を望んだのは事実だ。そのためにここへ来た。ここへ来て、そして、そのために走った。何もかも間違いはない。
しかし、彼の心は喜ぶことを完全に忘れていた。望みが叶ったにもかかわらず、短剣の輝きを目の前にした彼の心は、いくら言い聞かせようとも、その暗澹たる雲――不安と焦燥――を振り払うことはなかった。
紫色の目――。
そして、その時彼はようやく思いだしたのだ。
ずっと忘れていた過去の記憶――トゥールに拾われてくる前の、幼い彼が目にした、人々の憎悪に満ちた七色の目のゆらめきを。
「そうか、だからイリニ様は……」
彼は独り言ちた。
仮面から覗く目が、ぴくりと動く。
しかし、彼はそれに気づくことはなかった。周囲の声、視線、そして何より、呼び起こされてしまった記憶の奔流に、彼はそれを手にするための力を完全に失っていた。
時間だけが、過ぎていく。何をしているのかと頭をよぎる。だが、よぎりはしても、どうしようもなかった。
紫色の目は、人王国では裏切りの象徴である。それは導きの竜フアトにまつわる古い伝説に由来し、それを持つ者は、すなわち導きの竜から尊い色を盗んだ裏切り者、導きを冒涜した呪われた一族の末裔であると信じられていた。
祭祀官らがどよめき、人々が口を滑らせたのも、無理からぬことだろう。ここはフアトの楔の広場、他でもない竜の御前なのである。
「早くしろ、死にたいのか……!」
仮面の男が、にわかに怒りを孕んだ声で言った。
はっと顔を上げる。気がつけば、祭祀長アンゲロスが姿勢を取り戻し、その目に並々ならぬ意思を滾らせて迫りつつあった。
仮面越しに、再び目と目が合った。それは不意の出来事だった。だが、彼はその仮面から覗く銀色の目が、何か運命でも見通しているような、あるいはすべてのくびきから解き放たれたような、そんな確信に近い何かを宿しているのを確かに目にした。
「彼岸――」
全身に戦慄が走った。
そして、それを耳にした時、彼は無意識のうちに、その剣の柄を取っていたのだ。
一瞬の出来事であった。群衆がにわかにどよめき、そして一転、水を打ったように静まり返る。人々が顔を見合わせ、複雑な感情がそこかしこを行き来する。
祭祀官たちが目を見開き――やがてすべてを諦めたかのように目を瞑った。
チリーン……。
銀管が一つ、どこからともなく響き渡る。
祭祀長アンゲロスの顔が憎々しげに歪む。音もなく胸を上下させ、拒絶の炎でもって祭祀官たちの方を睨みつける。誰もが、目をそらしていた。
足音が響いた。仮面が静かにその前に立ち、そして、その銀色の目にぎらぎらとした皮肉な勝利をたたえながら、やがて静かにこう告げるのだった。
「イリニ様の子だ」