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彼岸のクロニスタ  作者: 御御
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第二十一話:公国の吸血鬼⑤

 何が起こったのか。

 それは誰にもわからなかった。

 ただ、小さな光だけが目の前を横切った。

 景色が置き去りにされる。一瞬の浮遊感、意識が映し出すその極限まで引き延ばされた時の世界の中で、居並ぶ者たちは皆、辺りを取り囲んでいた木々がゆっくりと引きちぎられてゆくのを目にする。大地が裂ける。埃が舞い、土が舞い、小石が舞い散る。何もかもが吹き飛ばされてゆく。

 音は、聞こえない。滅茶苦茶な破壊の景色の中で、ただ静謐に、一筋の耳鳴りだけが頭の中を流れてゆく。

 ぷつりと、目の前で真っ赤な色が弾けた。それは生き馬の目だった。口から涎を吐き、恐怖のままに無茶苦茶に舌を振り回したその馬は、ふと、一歩二歩、背中から突き飛ばされたかのようににわかに前足を浮き上がらせたかと思うと、小刻みな痙攣を最後に、どさりと力なく地面に崩れ落ちる。


 コツ――。


 一つの足音が、死に絶えた馬体の上から、何事もなかったかのように悠々と降り立つ。

 それが境目だった。その瞬間、時を奪われたすべての音が、まるで堰止めを突き破る洪水の如く、一気に舞い戻ってくる。頭の中に雷が堕ちた。すべてを薙ぎ払い、すべてを押しつぶす地鳴りのような低い音が、火の山の如き憤怒の絶叫とともに、居並ぶ者たちの意識を、恐ろしい衝撃とともにこちら側へと引き戻す。

 近くにいた者たちは、皆為す術もなく吹き飛ばされていた。王を中心に、まるで嵐が落ちてきたようなその爆心地の中で、元の居住まいを保っていたのは、ヤールスフェルト伯と、そして彫像のようにただ跪く黒衣の男だけだった。


 「剣が折れた」


 王が言った。

 徒士のまま、無造作に砂を振り払うその手には、折れたというにはあまりにも原型を留めぬ、バラバラの木片と化した無惨な柄の残り滓が握りしめられていた。


 「誰の作だ」


 王が問いただす。


 「リナのヒメカの作にございます」

 「そうか、あの三代目のな。よろしい、早馬を飛ばせ、代替わりだ」

 「陛下、恐れながら、この世に陛下の膂力を受けて砕かれぬ剣などございません。ヒメカは当代一の鍛冶師、リナの柱なれば、何卒ご慈悲を賜りますよう」

 「……ふん」


 ヤールスフェルト伯の諫言に短く言い捨てると、王は役立たずとなった柄の滓を放り捨て、黒衣の男へと向き直る。

 その首は、まだ地に落ちてはいなかった。王の剣は、王の力に耐えられず、振り下ろすと同時に鍔が砕け、その刀身を知らぬ彼方へと吹き飛ばしていた。

 残っているのは、さながら巨大な獣にでも引き裂かれたような、一文字に抉られた大地の傷痕のみ。それは、跪く男のすぐ隣、分かれ道の中心を始まりに、鬱蒼とした木々を引きちぎって、森の中に数里はあろうかという土煙の峡谷を作り出していた。


 「おい無礼者」


 王は投げ捨てるように言った。


 「真に和睦を求める者が、このような戯言で出迎えるなどと、余が本気で信じると思うか。その気が(まこと)であるならば、汝の主は初めからここに跪き、我が子を余の前に差し出しておろうよ。さしずめ、虚言で余を惑わし、時を稼ごうという魂胆であろう。だがそうはいかぬ。余は正しく汝らに二つの道を指し示す。すなわち、一族共々今すぐここに跪くか、それとも我が竜とその使命の名の元に皆殺しとなるか」


 マントを振り払い、王は突き付けた。

 それは、言葉だけで言えば紛れもない最後通告であった。

 見下ろすその目に、慈悲の光は一点とて無い。ただ厳然と、その運命を我が元に差し出せと突きつけるその青い瞳は、さながら、古の始祖が罪人たちにそうしたような、揺るがしがたく、そして一切の酌量の無い、無慈悲の黒々とした恐ろしい冷光を帯びていた。

 ヤールスフェルト伯は、自らの剣を王へと差し出す。無言で受け取った王は、再び男の首筋に刃を立てる。濡れるような銀色の光が走り、かちゃりと、柄の飾りが時を告げるかのような無機質な音を鳴らす。


 「さあ、選べ」


 王は言った。

 こうなっては、選択の余地などどこにもなかった。王と語らい、そして拒まれた者が、これまでどうなってきたか。そんなことは、風に聞かずとも、答えは影よりも明らかであった。

 降伏すれば生き、抵抗すれば死ぬ。ただそれだけの、二つに一つ。

 混乱は、徐々に収まりを見せつつあった。王の一撃で吹き飛ばされた兵士たちもそろそろと集まり始め、再び隊列を整えつつあった。怪我人は、誰一人としていない。さすがは純血の人族というところ、若輩の新兵と言えど、彼らは互いに困惑の息を吐きつつも、初めて見た王の強大な力に、慄くどころか、むしろ、沸々とその士気を上げているようであった。

 一時一時が、ゆっくりと過ぎる。葉から雫が落ちるように、闇夜に遠雷が這い寄るように。

 王の優勢は、誰の目にも明らかだった。


 ――だが、男はそれに何も言わなかった。


 ただ、跪いたまま静かに沈黙する。

 恐怖も、動揺も、あるいは怒りさえ、男は一息とてそこに見せることはなかった。先ほどの雄弁とは打って変わって、無言の彫像と化したその男を見て、王はやや怪訝に眉を顰める。

 ふっと吐き出す、小さな溜息。ゆっくりと剣を上げる。音一つしない、静かな所作。ただ首を切り落とすためだけに振り上げられたその刃は、それが成そうとしていることの血なまぐささとは正反対に、誰も何も感じないほど、自然で美しい悪意無き白い冷光を帯びていた。


 「残念だ」


 王は、小さく呟いた。

 死の刃が、真っ直ぐ男の首を捉えた。

 血しぶきが舞う。それは一瞬の出来事だった。あまりにも速い、静かなる一閃。その音さえも置き去りにする気配無き死を与えられたその男の首は、王以外の者が気づく頃には、とっくに、夕暮れの落とす漆黒の影の中にその暗い横顔を投げ晒していた。


 「お見事にございます」


 ヤールスフェルト伯が言った。


 「よい。それより、急ぐぞ」

 「……御下知は」

 「皆殺しだ。赤子も女も、一人として生かすことは許さぬ。松明を焚け、焚ける限り赤々と。兵どものことは気にするな。思うだけ、戦の血煙を味わわせてやれ。運命を試させよ。かつての、我らのように。ワルトワの血は、余自らが沈める」


 言うや、王は兵から差し出された馬に跨り、天高く剣を振り上げた。


 「皆殺しだ!!! 野蛮な無礼者どもを粛清する!!! 全軍、余に続けい!!!」


 空を突き破る雷の如く、人の王は高々と咆哮した。

 それは、開戦の合図だった。王の声を聞いた兵士たちは、王の掲げる血塗れの剣と、その下で地に伏す首のない死者の姿を見て、皆胸の内から湧き上がってくる凄まじい戦いの衝動に、思わず張り裂けるような鬨の声を上げていた。

 後戻りは、もうできない。暗闇に向けて馬蹄を向ける王の背中に、迷いは一つとしてなかった。

 王の軍勢は、森の中を怒涛の勢いで突き進んだ。分かれ道のことなど、もはやどうでもよかった。王が手綱を振るった先は、「左」の道だった。理由など、むろん無い。運命によって選ばれし王に、そのようなものは最初から必要なかったのだ。

 行けばわかる。敵がいるなら尽く討ち果たせばよい。罠があるなら踏んで潰せばよい。兵士どもが何人死のうが、王は死なぬ。そして、勝利に必要な駒は、最初からただ一つだ。

 最初からこうすればよかったのだ。

 馬の腹を蹴り上げながら、王はその男に言われた言葉を苦々しく思い起こす。


 「道に、お迷いですか」


 王に迷うておるかなど、決して許されぬ侮辱。

 王とは、竜によって選ばれし者。人の一族を導き、失われた始祖の楽園を再び地上へともたらす者。一切の瑕疵無き、一切の迷い無き至高の存在。その長命を竜によって祝福され、永遠にその伝説を語り継がれるべき、導かれし者。

 ただの一言とて、その完全性を疑うなど許されぬ。

 王は、自らにそう言い聞かせていた。

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