第二十話:公国の吸血鬼④
それは、まるで日没を告げる影のようであった。
左右の木々が境界のように広がるその中心、分かれ道のその始まりに、その男は音もなく佇んでいた。
流れるような黄金の長髪、死人のような青白い肌、蝙蝠を思わせるつば長の帽子、木立の如く無形に揺れる濡羽色の外套。目には、人ならざる者の呪われた輝きが――月食の如きその「環」が――その内側に夜の暗がりを湛えて漆黒の瞳の中に浮かび上がっていた。
「王よ」
男は、静かに言った。
一体、いつからそこに居たのだろう。居並ぶ者たちは、皆その予想だにしない存在に声を奪われずにはいられなかった。
それはありえない出会いだった。男の周囲には、隠れ潜める場所などどこにもなかった。その背中には、ザリザリと音を立てて揺れる深緑の固い茂みが、根草の影に追いやられた矮小な細木の棘のついた鋭い枝葉とともに、天然の責め具の如く物々しく生い茂っていた。そしてその反対、男の前方には、夕の木漏れ日が赤々と照らし出すまっさらな道が広がり、数多の兵たちが立ち並ぶそこは、言うまでもなく、見知らぬ何者かが人目を盗んで入り込めるような空間では到底なかった。左右の道は、見張りの兵がしっかりと固めていた。
なら、この男はなんだ?
幾ばくかの間、そこにはまるで現実から引き抜かれたかのような奇妙な沈黙が漂っていた。
男が、わずかに微笑みを浮かべた。白んだ唇が、ゆっくりと動く――
――が、
「愚か者!!!!!!」
その静寂は、ヤールスフェルト伯の激昂でもって破られた。
「囲えや兵ども何をしておる!!! 狼藉者、王の御前を汚す闖入者ぞ!!!」
一喝するや、伯は勢いよく抜剣した。
大音声が響き渡る。黄昏に沈む森に突如として不穏な気配が立ち上がり、ばたばたと飛び立つ鳥の羽音とともに、刃が擦れる音がまるで望楼の鐘ように辺りに響き渡る。
それは一瞬の変化だった。伯のただその一声で、辺りの沈黙は瞬く間に物々しい騒擾へと変わった。人馬が行き交い、兵たちが集まる。異変に気づいた彼らは、半ば慌てふためいた様子で自らの王を人壁の後ろへと押し隠すと、代わって、ヤールスフェルト伯の前に立つその見知らぬ漆黒の男に向けて、まるで興奮した蛇がとぐろを巻くように幾重もの包囲の列を形作る。
「無礼者が! 名を名乗れ!」
兵たちを見やり、ヤールスフェルト伯は叫んだ。
それは、若い軍団の仕事というには実によくできた包囲であった。一瞬で、男は完全に自らの退路をふさがれていた。その身には剥き出しの刃が尋常ならざる敵意とともに突きつけられ、がちゃがちゃと音を立てる数多の鎧は、さながら鉄の城壁の如く男の行手を完全に遮っていた。
ぽつぽつと陣中に灯り始めた無数の松明の連なりは、薄暮が落とす茫洋とした闇の中にあってなお、蟻一匹抜け出せないほどの耿かさでもってその男を照らし出し、その中でさらに色を持ってぎらぎらと瞬く、不意の号令に沸騰した若き兵たちの、そのややもすればいつタガが外れてもおかしくない恐ろしい無数のまなこの群れは、まるで群れからはぐれた獅子を狙うハイエナどものそれの如く、ある種の卑屈さと、そして恐怖を覚えるがゆえの執拗なまでの獰猛さでもって、その男の一挙手一投足を見逃すまいと害意に満ちた視線を突き付けていた。
「素晴らしい手際だ、伯爵」
包囲を見回し、王は言った。
「まこと、素晴らしい」
それはどこか皮肉げな響きだった。
兵に勧められ、馬にまたがった王は、その人垣の向こうに広がる冷たい木々の暗がりを見やる。
ふっとこぼれる、小さな笑み。まるで何かを察したかのように、一つ静かな溜息をついた王は、もはや何も言わず、無造作に鐙を蹴り、その馬蹄をゆっくりと男の方へと向ける。
「王よ……!」
王の意図がわからず、何人かの兵士たちは慌ててその前進を制止した。が――、
「さがれ」
王の怒りは、彼らから言葉を奪い去った。
仰ぎ見た刹那、自らを見下ろす王の青い瞳が、ぞっとするほどの深い闇を浮かび上がらせているのを見て、兵士たちはまるで魂を抜かれた操り人形のように、ただただその道を明け渡すことしかできなかった。
「……して、客人よ」
その男の正面――ヤールスフェルト伯の隣へと立ち戻った王は、低い声でそう言った。
「余が道に迷っておるとは、いかな了見か。余は人の王。三つの大領を降伏せしめ、竜の導きを世にもたらせし選ばれし者。余が軍中にあって、迷いし時など今に至るまで須臾としてあらぬ。客人よ、これは無礼である。命が惜しくば、今すぐそこに跪き、余と余の竜の許しを乞うがよい。余は寛大なれば、言葉によりては汝をその呼び名のとおりに遇してやることもやぶさかではない。なれど……客人よ、余の言葉を知るがよい。さもあらねば、汝らは尽く、王の使命たるを知るであろう。己と、己の纏う者どもの運命を、よく考えることだ。よもや、余と余の軍団を前に、今さら余を知らなかったなどとは言わせぬぞ」
それは、ヤールスフェルト伯でさえ思わずぞっとするほどの恐ろしい表情だった。
凶星の輝きが闇から見下ろしていた。西日を背負う王の顔には深い影がかかり、無感情に噤まれた頬と口元の間には、まるでもう一つの顔が潜んでいるかのような深い闇の輪郭が浮かび上がっていた。その上では、彗星の如き青い瞳が、凍るような不吉の光を湛えてぎらぎらと瞬き、自らを愚弄せし者へと、厳酷な――けれども非人間的なまでの対照的な平静さでもって、真っ直ぐにその視線を降り注がせていた。
何という――。
ヤールスフェルト伯は慄いた。
おそらく、この男はワルトワの者どもの使者であろう。日暮れが近づいたのを見て、今さら威勢よく和睦を求めにきたに違いあるまい。ワルトワは闇の住人。暗がりとなれば、将はともかく、兵は明らかにあちらの有利になる。
夜襲をかけられれば、若い兵どもは目の前の敵を迎え撃つのに精一杯になる。王の身の上はこの上もなく危機的なものとなり、勝とうが負けようが、我らは手痛い打撃を被ることとなる。
なればこそ、和睦を持ち掛けるならば今。日暮れは近く、我らはいまだ夜営を整えられていない。和睦を持ち掛けられれば、我らは喜んで応じるに違いあるまい。おそらく、そんなこと考えていることだろう。それに、よしんば我らが応じぬとしても、無為な交渉を持ち掛けて時間を稼いでしまえば、何もせず我らに陣を固めきってしまわれるよりも、はるかに有利な状況で我らを迎え撃つことができる。
和睦で重畳、決裂でも最善……そんなところか。
伯の直感は、現状を正しく読み取っていた。そう――、
――盤面上はな。
伯は引きつった笑みを浮かべた。
竜の導きばかりが、人のすべてだと思うのはあまりにも愚かだ。長年にわたり、王の征行に付き従ってきたヤールスフェルト伯の記憶には、導きの竜フアトの光さえも陰らせる、人の英雄が放つ真の色が焼き付いていた。
「どうした、答えよ」
馬上から告げ、王は剣を抜き放った。
男の首元に刃が突きつけられる。青白い肌の隣に濡れるような鉄の瞬きが走り、逡巡を許さぬ王の相貌とともに、ひねられた柄がかちゃりと音を立てる。
男は、ゆっくりと跪く。王の両目を見据えたまま、その顔に意味深な微笑みを張り付けたまま、
「王よ、無礼をお許しください」
男は、片膝とともに頭を下げた。
「私はアトラ。この地の主、ワルトワ公に仕えし者、しがない土地なし領主でございます。此度は、我が主の御命によって参上いたしました。闇夜の者は明るきの倣いを知りませぬ。まずは、我が非礼に深く謝罪を。この不明の罪を、どうかご寛恕ください」
深々とひれ伏し、男は言った。
「なれば、何を望む。そのような不明の汝を寄こして、ワルトワの公とやらは何を求むる」
微動だにせず、王は問う。
それは侮辱の言葉だった。王の言葉に、兵士たちが一斉に息を呑む。幾ばくかの静寂。視線が、男の頭上へと一点に集まる。
男は、静かに胸元に手を置いた。
「ああ王よ、人の支配者よ、どうかお怒りなく。どうか我が願いを聞いてください。我が主は、このワルトワの地にて公爵を賜りし同じ人の一族の継承。同胞相争うなど露程も望みませぬ。我が主が求むるはただ一つ……すなわち和睦。王よ、古の友誼に従い、ここはどうか矛をお収めください。もし王が、その願いをお聞き届けくださるのならば、我が主は、王を自らの主として、末代に至るまで忠節をもって仕えるでしょう。さしあたり、我が主は歓待の席を整えております。王がお許しくださるのならば、王の兵は、荷運びの一人に至るまで、皆我が主の館にて遇され、明朝には十分な糧食と、望むだけの剣矢が、王の使命への支えとして奉られましょう」
その言葉に、周囲の兵からは少なからぬ感嘆の息がこぼれる。
その提案は完全な服従を示していた。
ほれ見ろ。どこからか、そんな声がこぼれる。ヤールスフェルト伯と同じく、兵たちの中には、かの者の意図について察していた者は少なからずいた。
「和睦だな」
王は言った。
「まさに」
男が答える。
「そうか、和睦か」
男の言葉に、王はふと嘲るように失笑した。
「……くっくっ……はっはっはっは……あっはっはっはっはっはっは……!」
剣を持ち上げ、王は腹を抱えて笑う。
笑い声が辺りに響き渡る。初めて見る王の笑う姿に、はじめ、若い兵たちは皆驚きの表情を隠せなかった。が、やがて王が背後を振り向いて兵たちの目を見やると、それにつられて、一人、二人と次々に引きつった笑いの合唱を奏で始める。
何が、そんなにおかしいのだろう。わけもわからないまま、笑いは後方の一兵に至るまで、伝染病のように広がっていく。唯一、目を閉じて声を伏せているのは、ヤールスフェルト伯ただ一人。
意図は、誰にもわからなかった。王の胸の内など、誰一人としてわからなかった。
不可思議な愉快さが辺りを包んでいた。傍から見たら、もはや語ることなど何もないかのような雰囲気であった。男は、ただ王の前に首を垂れる。その身姿は、まるで運命を前にひれ伏す虜囚のようであった。
男を見下ろし、王は笑う。まるで何かに憑りつかれたかのように。
笑う、笑う、笑う、そして――、
「嘘つきめが」
王は、その剣を真っ直ぐに振り下ろした。




