第二話:紫衣
ミリアムと初めて会った日のことは、彼の物語の中において鮮烈に焼き付いていた。
その日はうだるような日差しがトゥールの街を満たしていて、この時期に本来ならば咲かないはずのコンサの赤い花が家々のささやかな日向にほっそりと咲き立っていた。シル川の流れは穏やかで、空の青さに過ぎゆく雲は形とて変えない。風は無く、帰ってきたばかりの野鳥たちの跳ねる音コツコツという音だけが、雪染みの残る三角屋根の上に鳴り響いていた。
トゥールの春は気まぐれだ。冬の続きを思わせるようなつんと寒い日があったかと思えば、次の日には春が置き去りにされたようなむっと暑い日が何日も続いたりする。
知恵のある者たちの語るところでは、オルトゥス山脈の地形や、もっと遠くの風がそうさせているのだという。特に、北に流れる風は目立っていたずらで、それの機嫌次第によって、その年の春の良し悪しが決まるのだと言い伝えられていた。そして、その風はここ数年すこぶる機嫌が良くないようであった。
が、実のところ、そのような理屈上のことはどうでもよかった。そこに住む者たちにとって重要だったのは、春が穏やかかどうかなどよりも、その訪れによって、南から人々が戻ってくるかどうかということであった。
むろん、その期待は今年も当然のように叶えられた。城門の鍵が開け放たれて一月と少し。その日は、戻ってきた人々も夏の我が家を整えるのをほとんど終え、いよいよ本格的に稼ぎに入ろうかというところで、冬の間広々としていた街の通りも、ちょうど手狭に感じるようになり始めた頃であった。
彼は、息を切らしながら西の通りを駆けていた。額からこぼれた汗が陽光の差す土の上に落ち、せわしない足音を聞きつけた人々が木陰の涼からちらちらと視線を向ける。寒さに慣れた余所者たちは皆、その真夏のような脈絡のない暑さにまいっていた。
万物を生み出す天の恵みの何と寛大なることか。その太陽に照らされる明るい表情と――そして何より、その紫色の目を前にして、人々は驚くとも訝しむともつかぬ少し浮いた印象をその眼差しにとらえる。トゥール育ちなのは、その走り慣れた様子からして誰の目にも明らかであった。
彼は西の通りの終わり、楔の広場に建つフアトの偶像の影を目にしていた。足に力が入る。見えない何か心の奥を後押しし、形を持たぬ、けれども鮮明なる諸力が、その紫色の――実に古いいわくつきの――透き通った瞳に一層の輝きを燃え立たせる。
広場には、子どもたちを先頭に人々が集まっていた。金色に赤色、栗毛に、少ないが白や黒。様々な髪の色をした彼らは、さらに様々な色をした目で、その先に立つ一人の人物に不思議そうな眼差しを向けていた。
「トゥールの契りの日である! フアトの正しき導きが下った! 古き冬の悪霊は我らが王の前に屈し、不具なるオルトゥスの呪いは雪とともに融け去った! 王の凱旋である! 崇めよ、崇めよ、フアトの長命なる使徒を! 讃えよ、讃えよ、楽園の正しき継承、その北辺の護りたるトゥールの偉大なる城壁を!」
フアトの偶像の白い台座、その湯の香が立ち昇る最上段より、祭祀長アンゲロスは子どもたちに向けて熱心に喚きたてていた。
供回りの祭祀官たちが聖性の象徴、アリウの紫石垂れる白銀の円管を三重の音階でもって叩き、その荘厳なる響きとともに、件の人物がしずしずとした足取りでフアトの偶像の正面に立つ。両手を広げ、その身にまとった金糸縫いの紫衣の袖をゆらりと波立たせると、その場で静かに膝をつき、額を地面にこすりつけるような所作でもって深々と跪く。
その顔は、仮面で隠されていた。白磁でできた精巧な顔型の上にフアトの左右非対称の七枚の翼を表したその仮面は、一翼の欠けたる右辺の三翼の、その最上に空いた空白に目型の穴が開けられていて、そこから、異様な雰囲気を放つ銀色の鋭い瞳が、その向こうの見えない何かを睨んで暗い輝きを放っていた。
そして、その頭の上には八つの宝石を吊り下げた黄金の葉冠――すなわち偉大なる人族の王たる証明――今は売り捨てられて久しい人王国の最古の王冠、建国の王オラドが身に着けたとされる八つ眼の聖冠が戴かれていた――。
「我、氏族の子、オラド。楽園の正しき継承、トゥールの護り、四方に導きの楔を打ち込みたる巡礼者にして竜に導かれし者。その依り代にして供物、永遠の流れに沈められたる聖性にまみえし王、今、北辺の倣いにしたがい、冬の悪霊を追放しここに新たなる巡りを告げん」
その人物はフアトの偶像を見上げると、がらがらとした低い、老人のような声でもって詠った。
銀管の清浄な音色が響き渡る。普段は人声に満たされている楔の広場に不可思議な静寂が流れ、それを待っていたかのように、銀管がさらに二回、二つの美しい音階を刻む。
祭祀長アンゲロスが台座を降りる。竜に跪くその人物に歩み寄ると、恭しい礼とともにその手を取り、ゆっくりと立ち上がらせる。
仮面の顔が上がり、そこから覗く銀色の眼が、一瞬、ぞっとするような恐ろしい光でもって人々を見渡した。
観衆がざわめいた。まるで魔術から解かれたかのように、人々の呆けた顔にさっと戦慄の色が走る。何かが起こった。見下ろす仮面の人物をよそ目に、何も言わず、人々がぞろぞろと足早にその場を後にし始める。
子どもたちは状況が呑み込めていないようであった。彼らは互いに顔を見合わせ、その一方で、何かに耐えかねたような悲痛な表情をした大人たちが、息を切らしながら慌てて列を割ってくる。子どもたちのいくらかが、さらわれるように広場を後にした。
仮面の人物は、それをじっと眺めていた。祭祀長アンゲロスが目くばせする。けれども、その人物はただ手を取られたまま、何かを言うでも、動くでもなく、いつまでも立ち尽くしていた。
「――ああ王よ、導きたまえ、示したまえ! 新たなる契りを、北辺の倣いを受け継ぐ我らが子を指し示したまえ!」
一瞬、しびれを切らしたようにピクリと眉を動かしたかと思うと、祭祀長は大仰な声でもってそう求め立てた。
子どもたちは、すでに半分以上が広場から立ち去っていた。残っているのは一人身の大人たちと、身寄りのない汚い身なりの子どもたち、何も知らない余所者どもに、そして、明らかに尋常ではない目をした、フアトの従順なる信徒とその哀れな連れ子たちだけであった。
王と呼ばれたその人物は、いくらかの間を置いて、すっと右の人差し指を持ち上げる。集まった人々の中から、一人の少年が指し示される。
「王の選定が下った! そこなる子よ、出でよ」
祭祀長が満足げな表情を浮かべて身振りする。
指し示された少年は、その顔に何の表情も表してはいなかった。汚いぼろ切れをまとい、その体にいくつもの青あざを浮かべた彼は、ただすっと胸に拳を当てたかと思うと、ゆっくりとした足取りで進み出る。この辺りでは稀な、真っ白な髪に、血のような緋色の目をした少年であった。
二人の人物を前に、少年が跪く。
「名を」
仮面の人物が言った。抑揚のない、沈んだ声だった。
「ナジと言います」
「そうか。ではナジ、お前に我が後継を託す。そなえよ、そして……倣いを果たせ」
「はい、王よ。務めます」
少年と仮面の人物との間に、いくらかの言葉が交わされる。
それは短いやり取りだった。お互いに一切目を合わせることなく、まるで何かをわかっているかのようにか細く交わされたその言葉は、雑音に耳打ちされた群衆にとってはほとんど聞き取れないものであった。
祭祀長アンゲロスが一人の祭祀官を引き連れ、少年のもとへ歩み寄る。
「フアトの御名のもと、護りの剣が与えられる。受けよ」
両手の平に一本の短剣を捧げ、祭祀官が少年の脇に立った。
おずおずと姿勢を低くすると、片膝をつき、ゆっくりとした所作でもってそれを差し出す。祭祀長の言葉の後、それを恭しい所作でもって受け取った少年は、視線を上げることなく、刃を手にしたまま後ろへとその身を退かせる。広場に、再び三重の音階が響いた。
群衆から、ささやかな拍手が沸き起こった。跪く少年を眺める人々は、皆一様に顔を見合わせながら、そこに捧げられた短剣の輝き――夕焼けのように美しい真球の赤石に、目を奪われていた。
「フアトの裏の眼……! なんと素晴らしい! あれほどの品、トゥールのどこを探してもありはせん。まったく、石ころ商どもが軽んじられるわけだ!」
群衆の中の一人――いかにも商人然とした出で立ちの男が、たまらぬといった様子でそう囁いた。
その時、それを眺めていた彼ははっと我に返った。思わず、きょろきょろと周囲を伺う。何の因果か、商人の男と目が合った。ぽかんと開かれた紫色の瞳に、男がわずかに困惑の色を浮かべる。一瞬のやり取りだった。
足が、上ずったように前に踏み出された。大きく心臓が跳ね、それに打ち立てられるように、彼は慌てて前へ出る。群衆をかき分け、持ち前の足の器用さを活かして、広場の外縁から中心まで猛然と駆け抜ける。
ちらりと見えた仮面から覗く瞳は、今は黒い闇に隠されていた。指はまだ上がっていない。
選ばれるのは、あと一人――。
彼はそのことを考えながら、祈るようにひた走った。
もっと前へ、仮面の「王」の目の前を目指して。