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彼岸のクロニスタ  作者: 御御
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第十九話:公国の吸血鬼③

 かくして、王はその最後の遠征へと足を向ける。

 王の軍勢はその版図に収めた土地土地を巡りながら、新たな臣民たちを慰撫、あるいは威圧しつつ、その北東の山嶺へとその軍靴を下す。


 「王よ、どうやら天は我らの味方です。ご覧あれ、あの輝かしき太陽を。今まさに我らの頭上にあり、ワルトワの者どもの闇などどこにも見当たりません。道はよく慣らされ、気候は穏やかです。草木は豊かで、当面、野営の食事にも困らぬでしょう。兵は三千、皆よく動いており、御沙汰とあらばすぐにでも攻めかかれます。いよいよ竜の導きをも超えられましたな。ワルトワの者どもは今に降伏するに違いありません」


 穏やかに光の差し込むその森の入り口を前に、王の腹心、ヤールスフェルト伯ヨハンは言った。

 ワルトワの山嶺は、やって来てみれば、伝承上の印象よりもずっと拓けた山々であった。「鬱蒼」と語られる木々は、近づいてみれば鮮やかな色実をつけた優しげな広葉樹であり、「暗闇」と語られる道は、燦々と輝く太陽に照らされたなだらかな馬車道であった。遥か遠く見渡せば、切り立った山々の急峻な斜面の隙間にところどころ尖塔の影があって、その周辺からはぽつぽつと、どこか牧歌的な雰囲気を漂わせる昼餉の白い煙が薄っすらと立ち昇っていた。

 日が高いのを確かめた王は、自らの軍勢にその森へと踏み入るよう命じた。王は夜になる前にワルトワの者どもと話をつけてしまう腹積もりであった。ワルトワとそれに従う亜人どもは皆夜の住人、明るいうちに迫ってしまえば、仮によからぬ考えを抱いていたとしても、容易にそれを討ち取ることができるに違いないと考えたわけである。

 そして実際、そんな王の思惑が当たったのか、その道のりは何事もなく進んだ。途中、昼餉の煙とともに見えた尖塔のいくつかを通り過ぎたが、近づいてみれば、いずれも朽ち果てた廃墟であり、ヤールスフェルト伯の思考するところでは、おそらくせいぜい土着の亜人どもが休息所に使っているのだろう程度の佇まいだった。


 「急ぐぞ」


 王は言った。

 これまで、敵の影は見当たらず、こちらを害しようという意思を感じさせるものはどこにもなかった。

 とはいえ、王にも一抹の不安はあった。これまで数多の遠征に付き従ってきた導きの竜フアトが、今回に限っては、自らの意志でその戦列に加わらなかったのである。どうやら、竜はなおも王の運命を案じ、不吉な予兆が迫った時、速やかにその運命を変転させられるよう、王の所領にて知られざる瞑想の儀式に努めているということであった。

 ふと立ち止まりながらも、王の軍勢はさらに進んだ。斜面を登り、谷を抜け、南へと伸びる小川の橋を渡っては、切り拓かれた森の涼やかな落ち葉道をしずしずと進んだ。

 穏やかさが不気味なくらい続いていた。しかし、そんな王の不安に反して、いくら進もうとも、それを物語るような不吉な兆候はどこにもなかった。戦の物々しさを煽り立てるものといえば、王とその兵士たち自身が立てる鎧の音くらいのもので、あえてその目を訝し気に傾けてみても、茂みの暗がりに見つかるのはありふれた小動物の跳ねまわる影ばかりであった。

 山に踏み入ってから、もうかなりの時間が過ぎた。

 気づけば、その行軍はいつしか気の抜けたものになっていた。これまでの遠征とは打って変わって、しっかりと慣らされた道は実にたやすく、急ぎの行軍であるにもかかわらず、兵が疲れている様子は全くなかった。道中には敵の伏兵を警戒しなければならないような地形もいくつかあったが、そんな警戒も杞憂のまま、そこから実際に敵が来襲することは終ぞなく、そのために、当初こそまめに斥候を放っていたヤールスフェルト伯も、やがては時が無為に過ぎ去るを嫌って、気にせず真っ直ぐ通り抜けるよう指図し始める有様であった。

 このまま何も起こらぬのだろうか。王を始め、遠征に列した兵士たちは皆そのように考え始めていた。

 しかし、日も陰り始めたその時、王の軍勢は初めて迷いの岐路に差し掛かった。


 「陛下、道が分かれております」


 ふと止まった行軍の先から、ヤールスフェルト伯が急ぎ早に報せた。


 「一方には変わることなく青々しい木々が、一方には針の如き黒々とした木々が、さながら道標の如く奇妙に生え広がっており、斥候の報せによれば、いずれの道も、先は見通せぬ薄暗い森の中へと続いておるようです」


 ヤールスフェルト伯の報告を聞いて、王は速やかにその分かれ道へ赴いた。

 伯の報せ通り、道は斜めの線を描いて左右へ分岐していた。そのうち、右の道にはあの見慣れた青い葉の広葉樹が、一方で、左の道にはこれまで見たこともないような真っ黒な葉をした不気味な針葉樹が、まるで自らの領域を指し示すように真っ二つに群れ茂っており、それらの道の先には、鬱蒼とした枝葉と峡谷の影が描き出す、これまでの道とはどこか違う、薄暗い不穏な暗闇がその口を覗かせていた。


 「陛下、いかがなさいます?」


 ヤールスフェルト伯が言った。

 こういう時、通常であれば導きの竜フアトが道を示すというのが常だった。竜はすべての運命に通じており、王がその岐路に立たされた時、王に災いが降りかからぬよう正しい道へと導くというのが、「導きの竜」たるフアトが自らに課した使命の一つであった。


 「竜はおらぬか」

 

 しかし、今回に限って、導きの竜は王の傍にはいなかった。

 王は迷った。この日が傾きつつある最中、道を迷っている暇などないことは明らかだった。

 日が暮れれば、行軍はずっと難しくなる。灯りを立てねば足元さえおぼつかず、敵味方はわからず、混乱のうちにあっては方角さえも見定められなくなる。闇を払う松明の火はそのまま敵の目指すところとなり、虚言は伝わりやすく、兵は将より自らの恐慌に耳を傾けるようになる。


 「王よ、ここは一度引き返し、日を改めてみては?」


 ヤールスフェルト伯が言った。

 それは正論であった。土地勘のない敵地のただ中で、もう日が間もないという時節に、どこへたどり着くやもわからぬ道にただ運命のまま突き進んでゆくというのは、どちらの道を選ぼうとも、それが危うい答えであることに違いはなかった。

 伯の言う通り、本来ならば一度開けた場所まで引き返し、野営を整え、敵の出方を伺ってから、翌朝改めて方針を思案するべきなのであろう。むろん、それは王にもよくわかっていた。


 「だが、ここで引き下がるは実に惜しい。話によれば、ワルトワは小領であり土地の先はそうないという。なれば今、我らは敵の奥深くへと踏み入り、かの一族の館まであと一歩のところまで迫っているのではなかろうか。我らが退けば、敵は安堵し勢いづいて、かえって攻め入る意志を固めるやもしれん。逆に、我らが夜を恐れず、そのまましずしずと敵の元へ迫れば、敵は恐れ驚愕し、慌てて交渉の席に着くやもしれん。それに、何よりここで退くことは、我らの元に導きの竜がおらぬことを敵に教えることになる。我らは無敗の軍勢、なれど敵が恐るるは、我らではなく導きの竜フアト、その権能なりしことを肝によく銘じなければならぬ」


 しかし、後進を勧めるヤールスフェルト伯に、王はそう言って反駁した。

 王の言葉に、伯ははっとして頭を下げる。

 導きの竜フアト――王の軍勢を無敗たらしめたその超常の存在は、世界の余すところなく、すべての意思ある者たちの知るところであった。その竜は数多の戦において王を導き、その兵の一人ひとりに至るまで、聖なる恩寵でもって包み込み、いかに強大な敵であろうと、その運命の力のもとにひれ伏せさせてきた。

 王の軍勢は常に竜とともにあり、ゆえに勝利は必定である。世の人々は、そう言って王とその兵士たちを崇めた。

 なれば、その不在が何を意味するのか。竜の最も近いところにいた王にとって、その肌先の感覚は誰よりも鋭くありありとしたものであった。


 「右か左、二つに一つか……」


 王はその赤色の髭をなぞりつつ、どこか虚しげな顔をその夕暮れの空へと向ける。

 兵を分けることは、そのまま竜の不在を敵に教えることになる。遠くまで斥候を放つこともまた同様だ。王の軍勢は竜とともにあり、だからこそ迷うことなく正しい道に突き進まねばならぬ。

 将卒は皆答えを待っている。ここにいる者は、皆王の運命を信ずる勇士たちだ。皆負け知らずで、皆傲慢な。迷うことも恐れることも知らず、ただ勝利のみを信じてこちらを覗き込んでいる。

 皆、若い兵士ばかりではないか。白い髭の混じった老人は一人もいない。その三千は、竜によって選ばれた、皆「奇蹟」を知らぬ世代であった。竜という「奇蹟」を。その降誕に至るまで、人の一族がどれだけの塗炭を味わってきたのか、それらは、おそらく誰一人として知らない。

 その選別がただの選別でないことは、王にもよくわかっていた。だが、そういう兵士たちでなければ、そもそもこの遠征が受け入れられなどせぬかったであろうこともまた、一つの事実。

 急がねばならぬ。王の青い瞳に、密かな暗がりが宿る。敵はもとより、味方にそれを知られることは、その瞬間に遠征の破綻を意味する。王は、迷ってはならぬ――。

 赤々とこちらを見下ろすその夕日を前に、王は再び自らの運命をその「嘘」に預けようとしていた。

 ――しかし、その時であった。


 「道に、お迷いですか?」


 ふと、暗がりから一つの声が響いた。

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