第十七話:公国の吸血鬼①
「北辺の民よ!」
ふと、広場の中央から高らかな声が響き渡った。
「古よりの誓い、始祖より引き継がれしこの北辺の秩序。我らが、どうしてそれを踏みにじれましょうか! 民よ、オルトゥスに選ばれし古き民よ、どうか我らの言葉を聞いてください。私は人の一族の継承、《ワルトワ公国》に仕えし者、アトラ。ここには、家路を失いし多くの民を救うために参りました。方々も見知っておられましょう。我らの来たりし北方の白色原野では、かつて例のない恐ろしい大吹雪が吹き荒れ、山は崩れ、大岩と雪壁により、あらゆる道が閉ざされております。……我らは道を失いました。もはや我らが故郷へ帰り着くには、この北辺の導きに……トゥールに縋るほかないのです。公国の民、五十。王国の民、三十。生まれた土地こそ違えど、我らは共に助け合ってここまで来ました。我らは、あなた方の敵ではありません。我らが望むのは、ただ各々の故郷へ帰り着くこと。ただ、それだけなのです」
その瞬間、人々の群れにざわりとさざ波が立った。
辺りを包んでいた雑言が、まるで水を打ったように静かになる。昂った興奮が、奇妙な浮遊感を伴ってよろめきながら沈黙し、人々の頭の中を支配していた怒りや恐怖、あるいは喜悦の感情が、まるで自らの手を零れ落ちてゆくかのように、ゆっくりとその実体を失ってゆく。
何が起きた。居並ぶ人々は、互いに顔を見合わせる。
それは、漆黒の法衣を纏った一人の男であった。川面のように流れる黄金の長髪に、金糸の縫い込まれた濡羽色の外套、頭には象徴的なつば長の黒帽子がかかっていて、一歩踏み出された足には黒狐織りのブーツ、人々に語りかける開かれたその両手には、その男自身の肌によく似た、白磁を思わせる蒼白の手袋がはめ込まれていた。
帽子を取り払い、男は静かに片膝を地面に伏せる。その左右には蛮族の衛士を思わせる二刀の曲剣を佩いた真っ黒な毛皮鎧の二人の余所者が控えていて、それらは男の所作を見とめると、まるで舞台役者が主役に倣うかのように静かにそれに続く。
カラン――。
石畳の上に、四つの柄が音を立てた。
その様子に、人々の間には奇妙な当惑が広がる。
並べられた四つの曲剣は、刃というにはあまりにも美しい工芸品であった。その鞘はつやのある滑らかな黒革張りで、その鍔から切っ先にかけて伸びる漆黒の横顔には、遠目からでも鮮やかに光り輝く黄金の蕾があしらわれていた。鞘の口には真っ黒な毛皮が、そこにかかる鍔の両翼には深紅の獣爪模様が彫り込まれ、そして、銀染めのその中心――刃を隠れ潜ませる鍔のその中心では、《王国》では不吉の象徴とされる「たてがみを逆立たせる黒い狼」が、新月を思わせる左右非対称の円の掘りの中心で、誰も見たこともない奇妙な黒い石の輝きとともに、この世ならぬ恐ろしい形相をこちらの世へと浮き上がらせていた。
《公爵の印》――。
知恵のある何人かの者たちが、一斉にその心胆を寒からしめたのも、無理もない話であろう。
それは騎士の守り刀であった。
「無論、ただ衣食を無心するなどというつもりはございません。もしも我らが願いをお聞き届けいただけるのならば、後日公国よりハイペル金貨百万を、またこの場においては、我らが白色原野より持ち帰りしアリウの紫石五十箱を、御恩の御印に譲渡いたします」
男は言った。
それを聞いて、左右に跪く二人の余所者が、その真っ黒な装束の懐から小さな金飾りの木箱を取り出す。それらは視線を伏せたまま男の正面におずおずと歩み寄ると、跪く男の膝下に静かにその木箱を捧げ置く。
男が、木箱の口をゆっくりと開く――。
「なんと……!」
その瞬間、群衆の間から思わず驚嘆の声が上がった。
それは、箱一杯に敷き詰められた美しい石の山であった。《アリウの紫石》――。遥か北東、閉ざされた白色原野でしか採れない、聖なる紫色を示す奇蹟の石。王国を壟断する祭祀官どもでさえ、その最も高貴な一粒にあっては数えるほどしか持っておらぬという、人の世における史上の価値――。
その原初の美しさ、遠く閉ざされた大地の褥から切り取られたそのこの世で最も尊い輝きを前にして、人々は言葉を失う。
「……いくらになる?」
「わからぬ……」
「しかし、あれが五十か……?」
「……あれだけの勘定、つけようものなら兵が動くぞ」
「それに金……それも《公国》の金か……」
居並ぶ人々は皆口々に狼狽する。
それは、国をも揺るがす恐ろしい提案であった。
公国のハイペル金貨――わずか一枚で王国のノモス金貨十枚、南方の農奴五人に勘定されるその朽ちぬ真実の金貨は、百万ともなれば、メンダシアの傭兵一万を優に三年は養うことができ、そうでなくとも、ただ懐に入れただけで、王国の名だたる貴族のほとんどがその家格を貶められずにはいられないであろうほどの莫大な財貨であった。
そして、何よりその燦然と輝く石の山――。いまだ形を整えられていないにもかかわらず、まるで何年も磨かれたかのような美しい輝きを放つその《アリウの紫石》は、見る目の無い者にさえ、それが明らかに尋常のものではないと一目でわかるほどの、市井の石どもとは何もかもが違う圧倒的な神秘の気配を放っていた。
一級か、あるいは――。居並ぶ人々は、石の輝きに各々の目利きを光らせる。
あれだけの価値を手にしたならば、自分は――トゥールは一体どうなってしまうのか。一粒でさえ何人もの人生を簡単にひっくり返してしまうほどの恐ろしい価値の力を前にして、人々は自らの状況を忘れる。
それは勘定のつけられない価値であった。トゥールは豊かだが、その豊かさはこの世界においては絶対のものでは決してない。西には《メンダシア》の忌々しい商人どもが、南にはその傀儡たる砕かれた《帝国》の穢れた裏切り者どもが、東には《グラディア》の永遠の独裁者とその学徒どもが、そして中央には――死に体の王権をうやうやしく貪る《王都》の貴族と祭祀官どもが。それらは、いまだ古い富の流れを操って、揺らぐことのない強大な勢力として存在し続けている。
多少の豊かさなど、何程のこともない。あえて数えてしまえば、そもそもたかが数十年の幸運の積み重ね。トゥールがそれら古の力に抗し、王国の始まりより前の最も偉大な祖先たちに並ぶには、本来、時も富もまだまだ足りないはずなのだ。
「……方伯では、ちと物足りぬやもしれぬな……?」
ぼそりと、誰かが呟いた。
それは、あるいは単なる冗談だったのかもしれない。
しかし、それは決して冗談では済まされなかった。その価値は、使おうと思えば、現在の何もかもをも覆す力を持っていた。
狼狽はただの住民たちに留まらなかった。誰よりも非難し、誰よりも頑なに叫んでいた十三人会の老人たちでさえ、その輝きを目にしたその時から、唇は震え、表情は一つの意志への忠誠など完全に忘れ去っていた。
困惑した気配は、やがてとらえどころのない浮足立った弱い興奮へと変わってゆく。
そして、その変化を察してか、その男は穏やかな口調で希うように言った。
「どうか、我らの願いをお聞き届けください。我らは今や命すらねだれぬ身、死しては石など、何ものにもならないのです」
深々と頭を下げる三人の余所者の姿に、トゥールの人々はその厭悪を完全に失っていた。
老人たちは、ようやく異変に気づく。思わず我に帰った彼らが慌てて見回してみれば、その頃には、もはや人々は皆別の事ごとに心を傾けており、街の主人たる自分たちのことなど、道端の石くれほどにも意に返していない様子であった。
「セ、セオス殿、これは一体どうしたら……」
一人の老人が、引きつった声で言った。
こうなっては、もはやどうすることもできない。目の前に差し出された光り輝く価値の力を前に、老人たちは、皆ただ狼狽することしかできなかった。
たかが数十年――けれども、その一時を知ればこそ、人々はその力に心を傾けずにはいられなかったのだ。
そう、ただし、その一人を除いては――。
「騙されるでない!!!!!」
突如、広場に耳をつんざくような声が響き渡った。