第十六話:ミリアムの選択
ミリアムは重ねていた。
なじられる余所者たちの姿を。
おおトゥールよ、祝福されしトゥールよ、北辺の牢獄よ。汝は寛大なり。汝はすべてを受け入れ、なれど終には、とうとう終にはすべてを吐き出す。咎あるゆえに。我は百年、汝は千年。おおトゥールよ、トゥールよさらば。老いたれど、我は終ぞ事叶わず、流れ伏したるは郷里の荒土――。
頭に浮かぶのは、トゥールを皮肉った一つの詩。
長く居た者なら、きっと誰もが思うだろう。この数十年、多くの者たちがトゥールを訪れてきた。金を求める者、物を求める者、人を求める者、名声を求める者。個々の事情は数あれど、この街を訪れる者たちは、皆誰もが何かを求める夢見人だった。
ミリアムも――いや、ミリアムの父もまた、その一人。
だが、皮肉なるかな、それだけの人が訪れたにも関わらず、最後にこの街に骨を埋めようという者はほとんどいなかった。
「ミリアムよ、お前の父に墓は無いぞ。余所者は皆、そこに葬られるのだ。そうわからぬ顔をするな。むろん、我らは感謝しておる。感謝してはおるが、それが決まりじゃ。……お前も、いずれそうなるのだ。ミリアムよ、父の名誉を思うなら、父の故郷へ帰り、弔ってやるがよい。お前は此処で生まれたが、此処はお前の故郷ではない。その血の、その瞳の意味を、よく考えることじゃ」
かつてある老人に言われたその言葉を、ミリアムは覚えている。
彼の父は、彼が八歳の頃に死んだ。穏やかな春の終わりの頃だった。
その日、彼の父は南方から戻って来た出稼ぎの人々をまとめて、オルトゥス山脈のある鉱脈を掘り進めんと鶴嘴を振るっていた。底へ、底へ――。露天掘りでは話にならぬということで始まったその地底への長い旅路は、彼の父が移住してきてからおよそ十年、冬を除けば一日も欠かすことなく続けられてきた街の大仕事であった。
何がそれだけ大事なのか。幼いミリアムにはわからなかった。が、後に聞いたところによれば、それはあの悪名高いメンダシアの大商人――ゲオルク・ハイゼンベルクが関わっていた仕事ということで、かの商人が求めるとある不思議な鉱石を発見するため、山の奥深くへと、誰も到達したことのないような深淵へと、深く、深く掘り進める必要があったのだということであった。
そして、彼の父は、その監督役であった。元は豊かな南方の生まれで、王国に献上する力ある赤石を掘り起こすある特別な鉱夫として育った彼の父は、求める石の在り処を見分ける特異な赤色の目を持っており、それを買われて、坑道の掘削から鉱夫の指図に至るまで、あらゆる工程を一手に預かる責任ある立場を任せられていた。
仕事の腕は確かだった。彼の父はトゥールに身を置いてすぐ、掘削を阻んでいたオルトゥス山脈の浅層を覆う鱗のような岩盤をたった一度の火入れと水引きで突き崩し、ごろごろと溢れる豊かな石の数々をその手に取ってきて見せた。彼の父がやってきて以降、開発は劇的に進み、そんな成果もあってか、ミリアムが物心ついた頃には、すでに彼の父はトゥールでは一目置かれる存在となっていた。
彼の父は、トゥールに完全に溶け込んでいた。鉱山のもたらす恵みについては、かの商人が求めるものは件の不思議な鉱石のみであったため、その探索の途中で掘り起こされた金やその他の価値ある石については、すべてトゥールと出稼ぎ者たちの懐に入れてよいこととなっていた。そして、彼の父はその公平な仲介人であり、トゥールにも出稼ぎ者たちにも不足が出ないよう慎重に分け前を振り分けるその姿勢は、自らはほとんど分け前を取らない懐の慎ましさも相まって、余所者にも関わらず、トゥールの古い住民たちからからさえも快く思われているほどであった。
彼の父は、トゥールに骨を埋める決心であった。
それは誰のためか。自分のためか。幼いミリアムのためか。あるいは――長すぎる旅に心を病んだ誰かのためか。ミリアムには、その本心はわからなかった。だが、彼の父がそのために心を砕いてトゥールに尽くしているということだけは確かであった。
……その日、鉱山で痛ましい事故が起こった。鉱山の下層から突如として黒い水が噴出し、鉱山のほとんどを――その上層に至るまで――夥しい泥水によって飲み込んだ。公国から持ち込まれた爆ぜる石――。鉱山の豊かな産物に目をつけた、新参の石ころ商どもの身勝手な横槍による悲劇だった。
彼の父は死んだ。だが、そんな最悪の悲劇であったにも関わらず、鉱山における死者は、下層の最奥にいた数人の者たちに留まった。葬儀の少し前、父の遺体が運び込まれてきたその日の夕暮れに、ミリアムは父の死について聞かされた。
「旦那は、俺たちのために死んだんだ。大水が噴き出した時、旦那は俺たちに上に上がるよう怒鳴りつけると、石ころ商どもの荷物を引っ手繰って、穴のあちこちにその黒い石を押し込んだ。見えていたんだろうな……。旦那は独り底に残って、そしてしばらくして……耳が潰れるような馬鹿でかい音が鳴り響いた。……俺たちは振り返らなかった。さっきまで押し寄せていた水の音がしばらくの間静かになって、その間に、俺たちは他の連中を上に上げてやることができた。……ああ、すまねえ。俺は、まだわからない振りをしている……。旦那が何をしたのか、旦那がどうして死んじまったのか、俺はきっと、一生お前に話せないままだ。……俺は、出て行くよ。お前も、母ちゃん連れて出て行きな。こんな場所はろくでもねえ。そうさ、俺たちはそんなこと望んじゃいなかった……いなかったんだよ……」
崩れ落ちるようにそう語ったその鉱夫は、数日後に、シル川の中州で死んでいるのが見つかった。浴びるほどの酒を飲んでの、惨めな溺死であった。
ミリアムはゆっくりと息を吐く。
鉱山には、トゥールの者たちも大勢いた。だが、トゥールの者たちは同情こそすれど、その鉱夫ほどに思う者はいないようであった。彼らは余所者のための葬儀を粛々と行い、灰となった彼の父をシル川の流れに投げ捨てたら、それ以降何の音沙汰もなかった。
聞けば、彼の父が行った決断により、かの鉱山の坑道全体が急速に不安定化し使い物にならなくなったということで、金のなる木を失ったばかりか、ゲオルク・ハイゼンベルクの機嫌をも損ねた十三人会は、もはやこのことについて触れられるのを嫌がっているということであった。
父の死により、ミリアムは苦しい少年期を送ることとなった。当初、犠牲者の遺族へは生活に窮しない程度の年金が施されていたものの、それも一年、また一年と徐々に減額され、三年目の終わりにはとうとうその一切が打ち切られることとなった。
生活を埋め合わせるべく、ミリアムは懸命に働いた。が、所詮は子どものすること、まともな実入りなど期待できるわけもない。あまつさえ酷い時には騙されてなけなしの金を奪われることさえあった。父は、遺産をほとんど遺していなかった。皮肉なことに、彼の父がトゥールに受け容れられようと努めていた無私の精神は、その死後に妻と息子を苦しめることとなった。
「さっさと出て行け」
言われずとも、自分たちがどう思われているのか、幼いミリアムにもよくわかっていた。
実際、それは正しい選択肢だっただろう。トゥールにこだわらずとも、生きてゆくに足りるだけの場所は他にもあった。王都の流民街、グラディアの僧院、公国の辺領……あるいは、運命を選り好みしなければ、メンダシアで救貧の施しを受けることだってできたはずだ。
だが、それでもミリアムはトゥールを出て行くことはなかった。彼には出て行くことのできない理由があった。
「……なんで、あんたが生きてるのよ」
お役目を終えたその日、彼が初めて聞いた言葉はそれだった。
それ以降、彼にその日の記憶はない。気がつけば、彼は人々とともにシル川の畔に立っていて、かつて――だったはずの女の遺灰をその白い流れに撒き捨てていた。
理由など、初めから無かったのだ。
それからというもの、ミリアムは何度もトゥールを出ていこうとした。
だが、どうしてだろう、彼はトゥールの南の大門に近づくほどに、なぜだかわからぬ激しい情動に、強く、強く胸をかき乱されるようになった。
先へ、先へ。思うほどに、近づくほどに息を押しつぶすその感覚は、不思議と、まだトゥールでやり残したことがあるような重苦しい自責の印象を、彼の中に亡霊のように思い起こさせた。
――これが、そうなのだろうか?
現実へと帰った彼は、目の前に広がるぼんやりとした光景に、ざわざわと萎びた唇が震えるのを感じる。
――なら、おれはどうすればいいのだ?
何かを忘れている。決して忘れてはいけない、何かを。
――どうして、お役目なんて、受けてしまったのだろう。
自ら望んだ運命にもかかわらず、彼はもうそのことがわからなくなっていた。
彼は自らの心を辿る。しかし、蘇ってくるのは、やはり、あの恐ろしい夜のことばかり。
いやだ、いきたくない、たすけて、たすけて――!
頭の中の亡霊が繰り返すその呪いのような言葉の群れに、彼ははっと我に帰る。
そうして、彼はようやく思い出したのである。
……そうだ、おれは、確かに見た。
星空――。
記憶の印象から叩き出されるその瞬間に、彼はその象徴を思い出した。
満天の星空の只中、群青色のヴェールを背景に、真紅の満月を喰らって呪うようにこちらを睨みつける、血まみれの真っ黒な一つ目を――。
それからだ……。
彼は揺らめく印象の輪郭を追う。
その目は、一人の女の手の中にあった。まるで古の神々のように、霧を纏い、宙に腰を下ろしたその女は、だくだくと血を滴らせるその黒い目玉を手のひらに座らせて、真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。
「知らぬ者よ。汝は、《真実》に忠誠を誓う者か?」
女は、言った。
――だが、それだけだった。
それに何と答えたのか。思い出そうにも、そこから先はまるで切り取られたかのように不自然な空白が広がっていた。
彼は当惑する。
何を、したのだ、おれは――。
心臓が激しく高鳴っていた。
思い出さなければ、思い出さなければ、何か、何か取り返しのつかないことが起こってしまう。
予感だけが、まるで食い散らかされた腐肉の切れ端のように、じゅくじゅくと、どこか生暖かい嫌な粘性をもって頭の中にへばりついていた。
彼は必死に思い出そうとした。
――だが、哀れなるかな。
ミリアムという人間は、とうに運命の手綱など握ってはいなかった。
「北辺の民よ!」
広場に、一人の声が響き渡った。
その瞬間、ミリアムは自らの足に細い糸が巻きついていることに気がついた。ちかちかと輝く、か細く美しい、見覚えのある銀の糸が。
「あ……」
――ミリアムは思い出した。が、思い出したところで、もはや何もかもが手遅れだった。
瞳から、光が消える。意識がすっと遠のき、頭の中が押し流されたように静かになる。
彼は、視線を上げる。ゆっくりと、確かめるように静かに息を吐く。色褪せた冬の太陽が、まるで恐れ伺うかのように彼の瞳を照らし出す。
その銀色の瞳に、もはやかつての光は宿ってはいなかった。
――岐路なら、あった。
だが、彼がそれを知ることはなかった。
その日、彼が出会ったその影は、彼から「迷い」という名の最後の手綱を奪っていたのである。