第十五話:ユナの一年
風が抜け、埃が立った。
広場の端からその物々しい騒動を眺めていたユナは、非難を挙げる人々の群れに交じって、その一人の青年が呆然と立ち竦んでいるのを見つけて、ふと、ひそかな笑みを浮かべる。
「ミリアム様……」
彼女は口の中で転がす。
けれども、その畏敬を込めた呼び名は、彼女にとっては皮肉めいた響きにしかならなかった。
彼女は、そっとマフラーを口元に寄せる。
かすかに、暖かい。毛皮に抱かれた白い息が乾いた唇をしっとりと濡らし、街路の枯れ木の隙間から零れてくる色褪せた朝の陽ざしが、にわかに染まった石畳の黒い水鏡に反射して、そのうつむいた真っ赤な瞳をどこか悲しげな気配でもって輝かせる。
「あなたは、何をしたかったのですか」
彼女は独り言ちた。
息を吐き、歩き出す。ただの町娘には、こんな場所は似合わない。彼女は殺気立った広場を後にする。
良い気分では、なかった。そもそも、初めからこんな場所に来るのではなかった。目の前の光景に、彼女はひとり後悔する。重たい両足をゆっくりと持ち上げながら、自嘲めいた面持ちでふと振り返ったその先は、もはや、ぼんやりとした幻の向こうだった。
それでも、来てしまった。来てしまったのだ。見届けなければならないと思った。恩人とその少年に最後の食事をつくり置いたその時から、なぜだか、彼女は自らの中で湧き上がる焦燥した思いに、ざわざわと胸を掻き立てられていた。
「もう一年だよ、兄さん」
彼女はマフラーを握りしめる。
顔は、合わせずに済んだ。自ら近づいておきながら、それに背を向けて初めて感じるその矛盾した感覚に、けれども、彼女はひそかに胸をなでおろす。
結局、何もできなかった。彼女はユナ。一人では何もできない、ただ一人のユナ。
……アルフレッド兄さんが死んだとき、私はイリニ様と一緒に山にいた。
冬の終わりを見届ける春の山入り。その昔から続く代々の務めに従って、私は下手くそな弓を引き絞り、どうにか最初の獲物を持ち帰ろうと必死に駆け回っていた。
イリニ様は、とっくに兎を吊るし終えていた。
真っ赤な目をした、綺麗な白い兎――。まるで雪が命を持ったようなその小さな一匹が、首から力なくだくだくと血を滴らせているのを見て、私は、思わずぞっとしたことを覚えている。
仕方ないじゃない。本当に狩人になるなんて、考えたこともなかったんだから。
アルフレッド兄さんが、イリニ様にどうしてもなんて言い出さなければ、私はきっと、どこかの下働きでありふれた暮らしをしていたのかもしれない。
――けれども、私は結局狩人になった。トゥールの狩人に。それが兄さんの願うことだったから、私には、そうする以外に道はなかった。
怖い仕事だった。けれども、怖いことばかり、というわけでもなかった。
身を潜めるのは、得意だった。兎でも狐でも……それこそ人の誰だって、本気で隠れた私を見つけることは誰にもできなかった。(……少なくとも、兄さんとイリニ様以外は)。巣を見つけるのも得意だった。器用に覆い隠した巣穴の葉っぱも、断崖に引っ掛けた小さな鳥の巣も、私にとっては小さな探し物くらいのものだった。
二人が初めて褒めてくれたその日のことを、私はずっと覚えている。
「弓さえできればね」
イリニ様は、そう言って兄さんと笑っていた。
きっと安心していたんだと思う。イリニ様じゃなくて、兄さんが。
兄さんは、本当に何でもできる人だった。イリニ様が最初に目をかけたのも、本当は私じゃなくて、アルフレッド兄さんだった。私にできて、兄さんにできないことなんて何一つなかった。山を駆け巡るのだって、私がひと月かかってようやく慣れ始めたのを、兄さんはほんの数日でものにしてみせたくらいだ。弓だって、初めて手に取ったその日から百中だった。
私と違って、兄さんはどこに行っても頼られる人だった。
兄さんの周りにはいつも人がいて、いつも賑やかで楽しそうだった。私は余所者で、いつも、ぽつんと隅っこにいた。
私の瞳は、混ざり者の赤の瞳。兄さんの瞳は、純血の清い紺の瞳。
同じ父、同じ母から生まれて――そして分かたれた。
どうしてこうも違うんだろう。兄さんへの尊敬の裏側で、私がどういう風に囁かれていたのかを、知らなかったわけじゃない。
「二番目の、それも女だ。血が悪かったのだろうよ」
ふと道端で聞いたその言葉に、違うと言ってくれたのは兄さんだけだった。
父様と母様は、私が八歳の頃に死んだ。事故――みたいなものだった。父様が川で溺れて死に、母様がそれを追った。私たち兄妹だけが、ぽつんとこの世に遺された。
自分だけで生きていけるようになれ――。今思えば、兄さんはずっとそう言いたかったのかもしれない。
人の命は、呆気ない。突然、わけもわからず、わけも言わずに、ふっとあっちに消えて行ってしまう。泣きじゃくるしかできなかった私と違って、その後のことを精一杯やり切った兄さんだからこそ、私にも、それをわかってほしかったのかもしれない。
「ユナ、僕は……お役目に決まったよ。きっと立派に、務めてみせる。だから、お前もしっかり、一人でも……生きていくんだぞ」
イリニ様に弟子入りしてから一年。山の仕事もようやく形になった春の終わりに、兄さんは言った。
私は、何も知らなかった。知らなかったんだ。兄さんのことも、私の傍で起こっていたことも。本当に……何も、知らなかったんだ。
あの新しい祭祀長様――。兄さんが教えてくれた話では、私はずっと目を付けられていたのだという。もう一年以上も前――父様と母様が死んだその日から。
祭祀長アンゲロス様は、狂った御方なのだと知った。春の始まりとともに行われるトゥールの契りの儀式――来たる冬の「悪霊」に魂を試す「次の子」を指し示すその儀式は、ずっと、生き残った「王」だけがその資格を持つのだと言い伝えられてきた。生き残った「王」だけが――。聖性に認められた「王」だけが。
広場に行かなければ、怖いことはなにもない。トゥールに生まれた子どもは、ずっとそうやって言い聞かされてきた。お役目など、余所者の仕事だ。そのはずだったのに――。
新しい祭祀長様は、もう「王」の導きなんて信じてはいないようだった。
生贄は見繕われる。今度は、薄暗い部屋の机の上で。
兄さんが私をイリニ様に預けたのも、イリニ様なら――トゥールのその最も尊い純血の御方なら――怖い祭祀長様も手を出せないだろうと考えてのことだった。
私は、守られていた。兄さんに、イリニ様に、そして……
……暗がりへと消えた、名前も知らない小さな誰かに。
それからの一年、兄さんは一人で苦しみ続けた。
私を守るために……たったそれだけのために、誰かの魂を「悪霊」へと差し出してしまった。その取り返しのつかない罪の意識に、一人で苦しみ続けた。
「あの日、祭祀長様からそのお話を聞いた時、僕は、お前の代わりに引き受けるべきだったんだ。でも……できなかった。できなかったんだよ。そうしたいと思った。でもその瞬間……そう頭に浮かんだその瞬間……僕は、怖くなってしまったんだよ」
許してくれ。
それが、その日聞いた最後の言葉だった。
馬鹿みたいだと思った。私は、そんな子のことなんて何も知らない。見たことも、聞いたことも、話したこともない。そんな名前も知らない誰か……そんなどうでもいい誰かの命なんかのために、私を捨ててそこに行くのかと思った。涙は、不思議と零れなかった。
さんざん当たり散らした後、私は初めて山の中で眠った。星空が綺麗だった。ずっと変わらないもの――その最初に散りばめられた最初の美しさを知って、私は少しだけ、自分の心の中がわかった気がした。
家に帰った時、兄さんは一人で座っていた。
「……なあ、マシュー・メリベルって、知ってるか」
兄さんは言った。
「友達がさ、言ってくるんだよ。トゥールのお役目には、ただ一度、「王」が選ばれなかった年があったって。そのお役目の子が、マシュー・メリベル。そして、もう一人が……イリニ様」
ぞっと寒気がした。
一体何の話をしているのか。言葉ではわかっても、私の心はまるで理解できなかった。
やめて――。私は思った。こんなにも早く、私の心を壊さないで。叫びたくて仕方なかったのに、ばくばくと跳ねる心臓は――私の弱い心は――次の言葉を待ち望んでしまっていた。
「僕は、生きて帰るよ。二人ともだ。僕は死にたくない……。あいつも、一緒にそう言ってくれたんだ。だから、僕は信じてみようと思うんだ。きっと、お前を一人にはさせない。僕は僕の中のことにけじめをつけて、必ず、帰ってくる」
星空は、真っ白な朝日に塗りつぶされた。
「――うん」
その次の春、兄さんはその人とともにお役目に選ばれた。
嬉しそうだった。あんな救われたような笑顔は、生まれて初めて見たような気がした。
私は、イリニ様に兎を貰ってスープを作った。兄さんがお役目から帰ってきたときは、きっと私が獲った兎でお祝いしてあげようと思った。
そうして、時は過ぎた。山から降りる私の手の中には、気がつけば、一匹の小さな黒兎が引っかかっていた。帰りの道すがら、私のそれを見た街の人たちは皆口々にお祝いしてくれた。
「幸運の黒兎じゃないか! 吉いことあるよ、お嬢ちゃん!」
兄さんは死んだ。
帰ってきたのは、その人ただ一人だった。
そう、私はユナ。一人では泣くこともできない、ひとりぼっちのユナ。