第十三話:異変
トゥールの東に、にわかに騒ぎの気が立っていた。
杖の音を響かせ、ミリアムはじりじりと弱った足を進める。足の裏に石畳の擦れた感覚が走り、久しぶりに浴びた太陽に、その寒さにも関わらず額がじわりと冷たい汗を滲ませる。その表情に、穏やかさはなかった。象徴的な銀色の両目にはかすかに焦りの色が浮かび、上下に息をつく痩せばった肺からは、今朝がたのそれからは想像できないほどに深く白い息が吐き出されていた。
彼は急いでいた。だが、それが難しいことであるのは彼自身もよくわかっていた。お役目を終えたその日から、彼はほとんど家から出ていない。部屋の内側に閉じこもり、思うことすら億劫になるほどの長い暗がりの中で、永遠にすら思えるような無為の時を過ごしてきたその体にとって、外を歩くことは辛く、痛いものですらあった。
「ミリアム!」
フアトの楔の広場を抜けてから十数分、彼のもとに一人の青年が駆け寄る。
「セオス、門の様子はどうだ!?」
「どうもこうもない、奴ら今にも攻めかかってきそうだ! 爺さん方が、火に油を注いでいるのさ! 祭祀長殿の留守が痛い……。何の御用だか、今はどこかに引っ込んじまってる!」
その青年は急ぎ早に話すと、おもむろに彼の肩を持ち上げ、そのまま焦った足取りでのしのしと歩き始める。
軽くなった杖が地面に高い音を立てる。ふと考えるかのように視線を落としたミリアムは、その時耳にかすかに聞こえてきた穏やかでない喧騒に、その青年の言葉が誇張でないことを悟る。
「……変わらないな」
彼は静かに呟く。
がちゃがちゃと音を立てる鎧が物々しい雰囲気を煽り立て、ちらちらと目につく住民たちの囁きあう姿が、彼の心に忘れようもない幼少の頃を思い起こさせる。
「セオス」
彼は聞いた。
「おれは、一体どっちだ?」
自らの名を呼ばれたその青年は、友の浮かべる皮肉げな笑顔に、なんと答えるべきかわからなかった。
レリオス・セオス。そのトゥールの伝統的な毛皮鎧に身を包んだ青年は、この冬、街に残った数少ない兵士の一人である。紺色の髪に紺色の瞳。その混ざりなき血のあらわれは、彼がトゥールに根付いた古い氏族の――紺色の純血の一人であることを示しており、同時に、その伝統を継承するに相応しい、生きるべき身分の生まれであることを示していた。
余所者の――そうではないミリアムとは、何もかも違う。
一瞬、唇が動く。答えは出なかった。出かかった言葉をぐっと飲み込んだその青年は、ただただ、ミリアムを支えて東の通りを真っ直ぐに進む。その眼前には、物々しい雪囲いで閉じ込められた平家建ての寒々しい低い街並みが広がり、そしてその向こうでは、天地を分つ東の城壁が、オルトゥス山脈を背景にその対照的な灰色の稜線を浮かび上がらせていた。
「わからない。おれはずっと考えている。おれは結局、何をしたかったのかと。……何かを忘れてしまっている。忘れてるはずがない、何かを。……わからないんだ。おれはおかしな話をしている。セオス、お前にそれがわかるか。この足を上ってくる、突き刺すような痛みと声が。……正直なところ、今朝、おれはそこに行きたくはなかったよ。だがなセオス……足が言うことを聞かないんだ。何かがこれを狩り立てている。何かがおれの足を突き立てて、そこへ行けと。……あの人でなしどものただ中へ、今行けと! そう言っているんだ」
苦々しく足に触れながら、ミリアムは問いかける。
セオスには、ミリアムの言葉はわからなかった。だが、その足取りが示す強烈な違和感――矛盾については、そんな彼にもよくわかっていた。
ミリアムの足は、セオスの足よりも速かった。まるで何かに呼び寄せられているかのように。自らの膝を押しのけ、かたかたと前に出るそれを見てセオスは思う。
肩に寄りかかる友の体は、力尽きたようにぐったりと重かった。横顔は夢うつつのようにとろんと垂れて力を持たず、わずかに光を残すばかりの銀色の目は、この先に待つ自らの運命について、ただただ憂鬱な気配を放つばかりであった。
それは、明らかに友の心と相反していた。それが何を示すのか。セオスは一瞬嫌な予感がしたものの、やがて割って入ってきた目の前の現実に、もはやそれは何の意味もないのだと、静かに飲み下さざるを得ないのであった。
「余所者、出ていけ!!!」
二人が歩き始めてからほどなく、両者の耳に突き刺すような怒声が響いた。
「混ざり者! 亜人くずれの人でなし!」
「凍えて死ね! 今すぐ立ち去れ!」
トゥールの東の城壁。その正面の開かれた広場に、無数の人々が集まっていた。
煙の臭いがかすかに鼻を刺す。物々しい気配を辿れば、城壁の所々に何か煮立てたような白い気を放つ細長い甕が運び込まれていて、その傍らでは、慌てた様子の兵士たちが、乱雑に積まれた古い木箱の山に手を突っ込んで、槍やら弓やらの――なんとも古い埃被った――用意の数々を引き摺り出していた。
一体何が起きているのか。ミリアムは閉ざされた城門を睨んで目を細める。
狼狽した兵士たちの足取りは、その城壁の向こうに何か恐ろしいものが迫っていることを物語っていた。
「アシャ! アシャ! アシャ!」
耳をすませば、人々の雑言に混じって、城壁の向こうから何かざわざわと言い立てる声が聞こえてくる。それはトゥールでは耳馴染みのない低くくぐもった声色で、母音の曖昧なそのかすれた絞り出すような響きは、まるで舌を抜かれた罪人の暗い喉笛にわだかまる怨言の如く、知らぬ者には、非人間的で、そしてざわざわと本能を震わせずにはいられないものであった。
あの白い気を放つ甕が何なのか。寄って見ずとも、ミリアムにはそれがよくわかっていた。それは、千年の因習が生み出したトゥールの呪い。すなわち、オルトゥスの骨焚き。
トゥールの城壁が外敵に脅かされた時、それを守る兵士たちは火を立て、北辺に伝わる古い呪いの霊薬を作る。それはオルトゥス山脈が生み出した数々の毒草をプルビナ白狐の脂と骨で煮立てたもので、そこから立ち上る白い煙は、矢じりにまとわせれば狐の呪いにより強力な毒気になるとともに、また、その城壁を超えて呪わんとするあらゆる姿無き悪意への魔除けになるのだと言い伝えられていた。
ああ《オルトゥス》よ、永遠に帰ること叶わぬ運命の主よ。
汝の毒に灼かれたる我らの、何と幸いなることか。
その煙は、それを呼んだ守り人をも蝕む不具の呪い。一息吸い込めば肺は焼け、二息吸い込めば血は爛れ、やがて静かに、静かに、その毒は長い年月をかけて骨に達し、じわじわとその無垢な白肌を灼き蝕む。徴を知り、昨日の若者は老人の仲間入りをする。納まる墓に、白い骨などありはしない。
しかし、それでもトゥールの民はその煙を焚き続けてきた。それは、ともすれば容易く滅ぼされるこの残酷な辺境で、かつての寡少なるトゥールの民が、異民族から生命を守り、古の伝統を存え続けさせるためには手放すことのできない手段だったからだ。
それは過去より手渡された導きであった。トゥールの城壁は千年間敵を通してはいない。刃も、呪いも、いかなる悪意ある運命もその煙と壁は跳ねのけてきた。ゆえに、今でもそれがすべてを守るのだと、信じる者はなおも多くいる。
それは千年の無謬。けれども、時の流れを知る人々は、その頬に密かな不安の影を浮かべていた。
はたして、煙を立てたその日から、今日で一体何年になる?
トゥールは、ここ数十年、敵に襲われたことがない。
それは開拓の都市として余所者が入り込み始めた時期――あのマシュー・メリベルの伝説が広まり始めた時期――と重なる。
それ以来、トゥールは目まぐるしく変わり続けてきた。千年の停滞をひっくり返すかのように、広がり、積み上がり、無数の血潮を吸いこんだトゥールの現代史は、寡黙で閉鎖的な人々の精神をも急進的に変容させていった。
過去が我らを守るのならば、それを忘れた我らはどうなる?
兵士たちは固唾を飲んで見守っている。城壁の向こうを。そして、城壁のこちら側を。
煙は、すでにその敵を城壁の内側へと通していた。小弓を持った兵士たちの一部が、ぽっかりと空いた広場の中心に向けて、その恐ろしい因習の毒矢を引き絞っているのを、ミリアムは見た。