第十二話:彼の物語②
両足が平衡を崩す。
ぷつんと何かが切れる感覚がして、かすかな震えを先触れに、崩れ落ちる感覚が腿を一直線に上ってくる。
僕は、たまらず目の前に倒れ込んだ。両手が地面をつく。爪の先端にずきりと嫌な痛みが走り、少し遅れてやってきた冬のような鋭い冷たさに、こらえきれずぐっと目を瞑る。
「お前もそう思うだろう?」
ひどい耳鳴りが辺りを包んだ。意識の内側を真っ白な光が突き抜け、瞼の裏に広がっていた薄暮の暗闇をまるで押し流すかのように消し去る。跳ね上がる心臓がその後を追う。突然の出来事に、僕はわけもわからず、ただ息を切らし、そして本能につられるがままぐっと顔を前へと持ち上げる。
光が、僕の目を刺した。それとともに、頭の中に広がっていた混乱が、やがてじわじわと冷たい恐怖へとかたちを変えてゆく。
それは、あるはずのない光だった。瞼を開いた僕の目に映るその空の向こうには――そのあったはずの暗がりの景色には――あのとっくに沈んだはずの夕日が、あかね色のぎらぎらとした光を湛えて燦然と輝いていた。
「だが、だからこそお前は幸運だ。お前が愚かな小僧でなければ、俺は、きっとここへは来られなかったのだからな」
後ろから発せられた声に、僕ははっと我に返った。
冷たさが手首を伝った。そうして、僕はやっと気づいたのだ。
僕は、川の中にいた。河原から進んで、もう脛も半ばまで浸かったような流れの入り口。そこに行ったらもう戻れない、光さえ飲み込む真っ黒な深い水のうねり。そのわずか一歩手前に、僕はつま先をかすらせて呆然と座りつくしていた。
目の前に広がる恐ろしい現実に、みっともなく鼓動が跳ね上がるのを感じた。
わけがわからなかった。自分の息で溺れながら、僕はがしゃがしゃと足元の石をかき分け、河原の方へとずぶ濡れになりながら後ずさりする。指先が擦れて切れた。しかし痛みは感じても、もはやそんなことはまるで考えられなかった。
「早くしろ。また来る」
誰かが僕の腕を引っ張り上げた。
体が大きく浮き上がる。同時に、それはやにわに歩き出し、後ろ足でよたよたとふらつく僕を半ば引きずりながら、河原の方へ向かって急ぎ足に引っ張っていく。
「フアトめ……」
河原につくと、それは僕の腕を陸の方へ放り出した。
無造作に川へ向き直る。じっと向こうを見据えたその人影は、何かを見て不快そうに短く鼻を鳴らすと、中空の一点を指さし、そこから何かを描くようにゆっくりと指を動かし始める。
あの人だ。
僕は気づいた。
そして、それとともに辺りが急に暗くなってゆくのを感じた。夕日が闇に溶ける。さっきまで空に浮かんでいた夕焼けが、地平線から立ち上ってきた闇に塗り替えられるように失われ、それと同時に、あの砕け散る音が聞こえる前に感じていた、ざわざわとしたあっちへの誘いが、心の中に再び入り込んでくる。
さきへ――。
ぴちゃぴちゃ。何かが水の中から這い出るのが見えた。
それは腕だった。青色に腐って溶けた、人間の腕。それは光を失って静止した黒い水面に一筋のさざ波を立てると、その下から真っ黒な靄を立ち昇らせ、こちらへ向かって誘うようにその手のひらを向ける。
一本、また一本。水音が立つたび、川から腐った腕が次々と現れる。それは辺りにひどい悪臭を放ち、そうして、後からきたものは最初の一本にならうかのように、その湿った手のひらをこちらへと向け、まるで何かを求め縋るように、ゆっくりとその手首を動かし始める。
あのさきへ、はこぶねよ、さあさきへ、さきへ、さきへ――。
頭の中に、うめくような声が響いた。
それが合図だった。それは一瞬、まるで何かに囚われたかのようにぴたりと静止したかと思うと、やがて糸をつけられた人形のように、一斉に行進を始める。びちゃり、びちゃり。真っ青な腕が、真っ黒な水面に次々と飛沫を上げる。爪を立て、関節を震わせ、手のひらの中にゴボゴボと泡を立て、そしてこっちを向いて再びゆっくりと立ち上がる。
さきへ、さきへ。それは何度も繰り返す。男の声で、女の声で、子どもの声で、老人の声で。か細く、叫び、呻き、泣いて、手繰るように、縋るようにただただ繰り返す。
それは、何かを求める人々の群れだった。何かを求めて、這いずり、溺れる、形を失った――けれども、恐ろしいくらいに命の気配に満ちた彼らの群れだった。
水は、もはや川の流れを保ってはいなかった。彼らに溶け、彼らが沈んだその清いはずの流れは、いまやびちゃびちゃと粘りを引く真っ黒な泥に成り果てていた。
僕は、たまらず目を逸らした。目を逸らし、頭を伏せて、本能のままに目を瞑った。けれど無駄だった。その恐ろしい光景は、僕の頭に直接入り込んできていたからだ。僕は何度も何度も目を逸らしたが、そうするたびに、その暗がりにはいつもあの黒い水面があって、そこから現れる泥と水底への誘いは、そんな僕を追い立てるように、やがてゆっくりゆっくりとその距離を縮めはじめていた。
――逃げられない。
運命を知るのに、正気は必要なかった。
きっと、ずっと見られていたのだろう。僕のじっと覗き込む、その悪い目の光を。生まれて初めて知ったその彼方からの恐怖に、僕は心の底から怯え、悔やんでいた。
ああ竜様、竜様、お許しください――。僕はずっと約束を破り続けていました。あなたの言葉に、母様の言葉に、その戒めにしたがわず、その教えに泥の足跡をつけ、じっとじっと、僕は自らその迎えがくることを待っていたのです。向こうからの迎えが――。僕が呼んでいたのです。僕は恐ろしいことをしました。恐ろしい過ちを犯しました。けれども、けれども、どうか、どうか今だけは助けてください。そのさきは、その先の旅路は、あまりにも、あまりにも暗すぎるのです――!
呪いに自ら手を伸ばした者は、その魂を守るすべてから見放される。
――それは、訪いの倣い。
暗闇が、僕の心を覆いつくした。
もう、何も見えない。光を思うことも、夜明けを幻に見ることも、できない。底のない泥の下に、僕は優しげな腕に連れられて、深く、深く沈み始めていた。さきへ、さきへ、さきへ――。泥の底、どこよりも深い生温かい命のさきへ、僕はゆっくりと歩き始める。
……きっと、永いのだろうな。
一瞬の無音。
気がつけば、恐怖はどこにも無くなっていた。
無数の手と手が、僕の手に縋り付いている。足音が聞こえる。僕とともにゆく彼らの足音が。彼らの心が、吾の中に溶けてゆく。僕が、失われてゆく――。
……ゆこう。
そのさきへ、いつかゆめみた、そのいろのさくばしょへ……。
――しかし、
「イベリス」
そんな夢を引き裂くように、再び、あの凄まじい音が暗闇の中に響き渡った。
「お前、一体誰の手を取っている?」
なじるような、けれども何かを噛みしめるような、そんな声。
それが、僕の目の奥に光と色を呼び戻した。
突き刺さるような衝撃。僕は再び割り込んできた眩しさの奔流に、両膝を折って腕を上げる。地面を引っ掻く割れた爪先がじんと痛む。そこでようやく、僕はまた、自分が幻に囚われていたことに気がついた。
「ゆくなら、ひとりでゆけ。誓いにしたがえ。信じる友を間違えた、愚かな裏切り者。メリベルの輪のもと、永遠にわかたれよ」
追い立てる暗闇も、腕も、もはやどこにも無かった。
代わりにそこにあったのは、闇夜を吸って眩く輝く、純白の「輪」。それは、僕の目の前でゆらゆらと揺らめき、ひとつなぎの美しい光の流れとなって、霧のような暗闇の立ち込める暮れゆく空に、さながら星々の河のように瞬き輝いていた。
そして、その前に立つのは、あの目鼻すらわからない、真っ黒な人の影。
それは、その右腕を真っ直ぐに伸ばし、泥となった真っ黒な川に向けて、その真っ白な「輪」を――その中心で光を吸い込む真っ黒な人差し指を、まるで射抜くように突き付ける。
「めりべる、メリベル……アァ……アァ……!」
泥となった川に泡ぶくが立った。
その時、僕は知らない人の声を聞いた。それは、ほんの一声――か細い、けれどもなぜだか聞き覚えのある、女の人の声だった。
――そうして、川は起き上がる。
泥を跳ね散らかして。
その夕日さえ吸い込む真っ暗な闇のただ中から、一本、二本、三本――。びちゃびちゃと音を立てて、その暗がりから巨大な「腕」が現れる。それは川べりを掴み、泥を握りしめて、のっそりとその体を這いあがらせる。
凄まじい悪臭が辺りを包んだ。風に乗ってどろりと鼻をつくその生温かさに触れた僕は、その瞬間、目がすべてを知るよりも先に、その巨大な「腕」が、あの幻の暗闇で見た無数の「腕」たちの、まさに命と形を持った真実の姿なのだということを直感していた。
それは、「底」そのものであった。腐って、爛れた、人間の腕――その青ざめた腕たちは、這いずり、指を絡ませ、そして互いをその濁った爪で苦しげに搔きむしる。色を失った真っ黒な体液をぬらぬらと垂らし、その狭間で、溺れのたうち、時折何かを求めるように弱々しく手首を伸ばす。
それは結びつけられていた。融け、塊り、うごめく腕――。その異形の一部と化した彼らは、今やその苦しみのみを自らに残して、その「川」の――いや、その百足のごとき多腕の「巨人」の、恐ろしい三本指の「腕」の一つひとつを形作っていた。
川は吼える。遠い空に向かって。
僕は月が照り輝くのを見た。
けれども、それが月でないことはすぐにわかった。
その巨人は――彼女は、僕たちを見下ろしていた。
涙を流して。
ぼたぼた、ぼたぼた。
泥の落ちる音とともに、とめどなくあふれ出す。
悲しみと血をこぼし続けるその左目は、何者かによってくりぬかれ、ひくひくと震える切り落とされた瞼の傷痕の下で、ぽっかりと深い暗がりを空けていた。
髪は無かった。その痕にはいつか流したであろう血とかさぶたの名残りと、それを掻きむしる無数の腕たちの皮膚ばかりがあった。耳と鼻はそぎ落とされて、そのぽっかりと空いた穴と傷口からは、粘りがかった血のような真っ黒な泥と、それに混じった水のような浸出液がだくだくと滲み出していた。瘦せこけた頬は魚鱗を思わせるごわごわとしたヒビに覆われ、ずり上がった頬骨の傍らでは、不自然に浮き上がった青黒い血管が、まるで蜘蛛の巣のようにその横顔に巣くっていた。
そして、その右目。そのあえて残された飛び出した淡黄の眼窩の中心では、それまでの悍ましさにはまるで似つかわしくない、あまりに美しい真球の宝玉が――僕の目と同じ色をしたその石が――まるで夜空にかかる月のように、ぎらぎらと毒々しい光を放って輝いていた。
「アァ……アァ……」
巨人は独り言ちる。
それは頭を突き出し、僕の前に立つ影の人に向かって、その紫色の瞳をゆっくりと近づける。頬から生えた多腕が、それを形作る無数の腕とともに突き出され、いくつもの手が、まるで確かめるかのようにその霧のような漆黒の体を覆う。
「さき……さきへ……アァ、アァ……アアアッ……!」
裏返ったような、高い唸り声。
ぽっかりと空いた左目の暗がりからは、ぼたりと真っ黒な涙があふれだしていた。
光が、消えてゆく。無数の腕がからみつき、その人とその光を、まるで抱きかかえるかのように暗闇へと連れてゆく。
その人は、動かなかった。そして僕は、そんな目の前の景色の変化を、ただ見ていることしかできなかった。僕は、ただ見ていた。腕に覆われてゆくその人と、真っ白な「輪」の輝きを。ただただ見て、じっと見据えていた。
――なぜなら、僕にはもうわかっていたから。
「小僧」
小さく、声が聞こえた。
「輪は、三度鳴る」
その瞬間、この世のすべてが時を止めた。
世界から色が失われる。闇も、星も、あの月のような石の光さえも、何もかもが灰色の背景と化して静止する。僕だけが、取り残されている。その「感覚」は、僕が生まれて初めて感じた、最初の「感覚」だった。
「一度目は偽りを剥ぎ取り、」
僕の中で、言葉が聞こえた。
「二度目は真実を剥ぎ取り、」
けれども、僕は気づいた。
「そして三度目は、」
その景色の中でただ一つ、小さな光が揺らめいている。
腕の隙間からこぼれる、星のようなその光が。
……アァ。
ああ、僕は覚えている。それは間違いなく現実だった。
光が、あふれだしてくる。その隙間から。時も色も、何もかもを塗りつぶして。塗りつぶして、近づいてくる。まるで、僕の中に入り込んでくるみたいに――。
僕は、次の言葉を聞くことはなかった。すべてが白に塗りつぶされた景色の中で、僕は自ら手を伸ばしていた。その先へ――僕が本当に望んだ、そのさきへ。
「――世界を、剥ぎ取る」
輪は、鳴り響いた。
――物語は、公平ではない。
贔屓に華やかに語られる物語もあれば、悪意をもっていたく説得的に語られる物語もある。
それは仕方のないことだ。
人がある限り、物語は続く。そして人はいつだって、物語の虜囚だ。
時の始まりに物語は無かった。我らの公平なる書き手に、それは必要なかったのだ。
我らは、囚われ続ける。我ら自身に。その物語に。




