第十一話:彼の物語①
僕は覚えている。あの短い日のことを。
出会ったのは、寄る辺の川の丸い石の上だった。
そこにその人は腰かけて、流れる水と向こうの草原を、ずっとずっと眺めていた。
どうしてそこにいるんだろう。
僕はわからなかった。誰かが来るのは、それが初めてのことだったから。
僕が生まれた場所は、誰も知らない国の外れだった。
穏やかで、寂しい、秘密の場所。そこには僕と弟と母様しかいなくて、大きな森に守られた川べりの家には、僕たち三人と、優しい竜様の小さな木彫りの御姿だけがあった。
誰にも会っちゃ、いけないよ――。
それは、いつも母様が言って聞かせる時の決まり文句だった。
外の世界は、恐ろしい。あの森の先には、あの川の向こうには、あの太陽の沈み落ちる先には、呪われた神々の住まう暗い夜の世界が広がっている。そこは竜様の護りも届かない見放された土地で、大人たちは尽きることのない飢えに苦しめられ、夜更けには南からやってきた人食いの怪物が、道端に捨てられた子どもを闇の中へとさらってゆく。
導きに背いた人々の、罪の牢獄。
だから、そこに誰か見かけても、決して目を合わせてはいけない。招かれざる影は暗闇の現れであり、そして暗闇とは、こちらを覗き誘い込む呪われた神々の目なのだ。
見知らぬ影に気づいたら、両手でそっと瞳を伏せて、竜様の御堂に帰っておいで――。
あかね色の夕暮れ。この世とあの世に影が落ちる。
真っ赤な夕日を向かいに、じっと川の向こうを眺めるその背中は、まぼろしのようにゆらゆらと揺れていた。全体の輪郭は曖昧で、霧を思わせるその体は、時々薄くなったり色を増したりしながら、まるで風にさらわれる野焼きの灰みたいに、そのとらえどころのない奇妙な人の形を、あかね色の空に立ち昇らせていた。
人でないことは、子どもの僕にもすぐにわかった。
けれども、なぜだろう、僕は不思議と怖いとは思わなかった。
それはただそこに座っているだけで、後ろから窺う僕の存在には、まるで気づいていないようだった。それは、ただじっと、向こう岸を物憂げに眺めては、ふとわけもなく俯き、そして何をするでもなく、時折その右膝に乗せた指先をこつこつといたずらに刻みに動かしていた。
あの人は、どこへ帰るんだろう。
空が遠ざかるたび、僕は胸の中にざわざわとしたものがこみ上げてくるのを感じていた。
日が落ちる。夜がやってくる。地平線に波打つ夕日を見て僕は思う。
暗くなったら、僕はきっと帰るのだろう。そこには母様と弟がいて、そして、穏やかで変わらない夜がある。僕は竜様にお祈りを捧げ、夕餉をいただき、眠る。また朝が来る。僕はそこから飛び出して、そうやって、穏やかで変わらない今日が、ずっとずっと続いてゆく……。
続いてゆくのだろう。僕には、帰る場所があるのだから。
僕の頭を、ぞっと冷たい気持ちが駆け抜けた。
……こうやって、連れていかれるんだろうな。
その時、僕は初めて、自分が笑っているのだということに気づいた。
涙が瞼の縁にあふれかかっていた。頭がぐらぐらと渦を巻いて、胸の内側から昇ってくる激しい何かが、息にならない鼓動を抱えて体中をかたかたと駆け巡っていた。
幸せだった。温かな毎日、透き通った思い出、約束された永遠の平穏――。
けれどもそれに気づくのに、一体どれだけの時を過ごしたのだろう。僕は思わず空を見上げていた。そこに広がる景色は――薄暮に色づくあの天上の暗がりは――これまで見たこともないくらい綺麗だった。
何もかも、消えて無くなってしまえばいいのに。
気がつくと、僕はふらふらと歩き出していた。
木々のざわめきが消える。僕は彼方の地平線を求めて、真っ直ぐ真っ直ぐ進んでゆく。
足が重い。目の奥が苦しかった。足を前に出すたびに突き刺さるあの残り火のような赤い夕日が、さながらそこから落ちまいと僕の中にしがみついているみたいだった。
影が近づいてきた。行き場もなく座り込んだその真っ黒な背中を前に、僕は閉ざしていた感情が解き放たれるのを感じる。
僕は、自由になりたかった。
その影が座っていた場所は、本当は僕の場所だった。僕は毎日そこに通って、いつかあっちに行けるその日のことを、ずっと夢見ていたのだ。僕は影の居場所に自分を重ねていた。
先のない平穏が怖かった。母様から初めて物語をいただいたその時から、僕は、あっちの世界に強く引き寄せられていた。無明の暗闇、永遠の飢餓、邪悪なる万知の神々――。その物語には、果てのない苦しみと狂気ばかりが綴られていた。
僕を怖がらせるための言葉の数々。けれども、なぜだろう、僕はそれを知れば知るほど、逆にもっと知りたいという衝動が徐々に抑えられなくなっていった。話を聞くたび、僕は思い描いた。一体、そこにどんな秘密が眠っているのだろうと。
人々は、言葉は、教えは、そしてそれを生み出す魂と心は?
あっちに住まう者たちに自分を重ね、今日のその日に何を見るのだろうと思い描く。
だが、思い描くことは僕に何も教えてはくれなかった。むしろそうするたびに、僕は同時に自分の中にわだかまるどうしようもない不明に落胆が深まっていった。
結局、僕は何も知らないのだ。その物語のはざまに、裏側に、どのような人々が生き、どのような物語が根付き、どのような物が作り出され、そしてどのような景色が広がっているのか――僕は、何も知らないのだ。
もっと、もっと知りたい――。
見果てぬ夢に誘われて、僕は一歩を踏み出していた。
冷たさが足首を伝っていく。目の奥にのしかかっていた痛さと重さが、前に進むごとにゆっくりと遠ざかっていく。
少しだけ、心が痛かった。僕は悪いことをしていた。そのことはよくわかっていた。けれども、止められなかった。最初の一歩を踏みだしたその時から、僕の心からはみるみるうちにすべての恐れが失われていった。
ぴちゃぴちゃ。足元で水の音がした。
夕日が、静かに闇の中へ沈んだ。目の前の景色から光が消える。人も影もすべて溶けて、僕は影の中の一つになる。僕が望んだあっちの存在に。このまま進めば、きっとたどり着けるのだろう。僕は不思議と安心していた。僕は言いつけから解き放たれた。もう帰る必要などないのだ。
あと一歩、あと一歩、その先へ――。僕は語りかける自分の声に、その先へ、その一歩を踏み出そうとしていた……。
「――書き言葉は、わからん」
しかし、その時だった。
僕の後ろで、何かが砕け散るような音が鳴り響いた。