第十話:ある名無したちの物語②
その日、僕たちは売られた。
金貨一枚だった。
何度目かは、もうわからない。皆んな、珍しい珍しいと言って買っていく。皆んな、恐ろしい恐ろしいと言って売っていく。
僕たちの物語は、そればかりだった。
紫の目が珍しい? 紫の目が恐ろしい?
それがどういう意味なのか、僕たちはついに教えてはもらえなかった。
珍しい何かとして売られた僕たちに――紫の目をした僕たちに――話をしてくれる人は一人もいなかった。
生まれてくるべきではなかった。
もう何度言い尽くしただろう。僕は兄様と違って馬鹿だったから、何度も何度も、そうこぼして泣いては兄様を困らせた。
鞭で打たれるだけなのに。怖い怖いと言っても、外の人たちは僕たちを死なせてくれなかった。泣いているのが聞かれれば、僕たちは二人とも鞭を食らう。泣いても泣いても、許してはくれない。何度も何度も――ついに鳴き止むその時まで――僕たちは鞭で打たれ続ける。
そうやって、ぶくぶくと爛れた物言わぬ火ぶくれ玉になったら、おしまい。外の人たちははっと我に返ったように何かを見下ろして、慌ててお医者様を呼んでくる。
僕たちは助けられる。僕たちは、また誰かのもとに売られる。
鞭で打たれるだけなのに。何度鳴いても、何度そうしても、僕たちは死ぬことはできなかった。
手枷の石が、温かく光る。頭から、辛さが引いていく。そうやって、僕はまた、死ぬことを忘れる。
きっと、そういう運命なんだろう。最初に売られたその時から、僕たちは生きることも、そして死ぬことも失くしてしまった。人から飼い葉をもらった馬が死ぬまでそれから離れられなくなるように、僕たちもまた、この手枷と石を与えられたその時から、この運命から離れられなくなった。
たとえ嫌でも生きたいと、そう思えるような。
僕は知っていた。この石が――いや、この紫色の光が――僕たちの命を繋いでいる。死にたいなんて、許してくれない。殺してほしいなんて、許してくれない。この温かい目の色の光は、僕たちの命に触れるすべてを阻み、憎んでいる。それは僕の心さえも。
だから、誰も殺せないのだ。僕は恨むことしかできなかった。ただ、生まれてきたそのことを。命が生まれ、魂が生まれ、そして消える。この生き写しの物語は、執拗なまでの悪意で満ちている。昔、神様は人を呪ったのだという。なら、そいつはきっと笑っているに違いない。僕たちの命を。吹けば消える蠟燭の火のような、ぶるぶる震える僕たちの命を見て、笑っているのだ。
先はない。
僕は、終わりを待ち続けていた。
最後に鞭を受けたのは、どのくらい前だったか。僕はいつしか鳴くことを止め、兄様と二人、運命を受け入れるようになった。
色んな場所を旅した。声を殺し、心を殺し。がたがたと揺れる車輪の音は、僕たちを連れてどこまでも回る。旅には飽きなかった。信じられないかも知れないけれど、その終わりを待つだけの旅は、前を向いてしまえば、意外に、悪いことはなかった。
色々な人が僕たちを買った。僕たちはたくさんの目の色があることを知り、たくさんの言葉とたくさんの土の匂いを知った。変わらないものは、あの夜の上の星空だけだった。
そして、わかった。
きっと、皆んなそうなのだろう。道すがら、あの光は僕たちに教えてくれた。
祝福されて生まれた。望まれて生きた。
そんな人間はどこにもいない。
皆んな、離れられなくなっただけなんだ。物語から。それはきっと、仕方ない、意地悪な物語だ。
皆んな、仕方がなかったんだ。僕は金貨の落ちる音を――その人たちが生きるためにしていることを――聞いて思う。
だって、皆んなももう、食べてしまったんだから。
母様の言葉が浮かんでくる。
「人は、皆んな地獄に落ちるんだよ」
かわいそうな母様。
生まれたくなかった人、生みたくなかった人、生まされた人。
もう顔も思い出せないけれど、その人はいつも優しくて、そして嘘つきだった。
蝋燭の火が消えるのをいつも怖がっていた。
僕たちを呪う導きの竜フアトに祈りを捧げながら、その人は、一体何を願っていたんだろう。
僕たちは、王国の金貨三枚で売られた。その後は知らない。ただ、「金が返ってきた」という笑い声を覚えているだけだ。
扉が開く音が聞こえた。
「影」は、いつも日暮れとともにやってきた。
誰かはわからない。
それは僕たちが繋がれた座敷牢のすぐ前を横切って、奥の部屋へ入る。そしてがらんと静まり返ったその暗い部屋の中で誰かとぼそぼそと何かを話すような声を立てると、ふと、どこからか火を持って出てきて、家の中の蝋燭に点々と灯りを灯す。
家には、まだ誰も帰ってはいなかった。「影」は明るくなった家の中をよたよたと歩きまわり、そうして、やがて何かを思い出したかのように僕たちの方に首を向ける。
顔は無かった。それが「人」であると見せているのは、真っ白な――まるでそこだけが色が消えたような――にたりと吊り上がった不気味な「口」だけだった。
「ひさしぶり」
それは言った。
それが来ている時は、いつも水の音がした。ぴちゃぴちゃ、ぴちゃぴちゃ。水の音を滴らせて、それは僕たちの前でゆっくりとかがむ。手も体も、真っ黒だった。薄くなり、濃くなり――霧のようにゆらゆらと曖昧に揺らめきながら、それは僕たちの目を覗き込んでけたけたと笑う。
「また、わすれたのか?」
それは聞いた。
僕は、何もできなかった。紫色の石が怖いくらいぎらぎらと輝いていた。
影が、ゆっくりと手を伸ばす。僕ではない。わかっていた。それはいつも――いつだって、兄様の方だけを向いていた。
「たびだ」
影は兄様の手をつかんで言った。
「ひがんへの、たび」
じっとりとした感触が、全身を包んだ。
水だ。ぬらぬらとした泥のような真っ黒な水が、僕たちの頭に覆いかぶさってくる。それは温かかった。温かくて、ひどい匂いがしていて、そして穏やかだった。
影は、兄様の腕をつかんでまじまじと覗き込んでいた。
影はささやく。
おもいだせ、たびを、ひがんへのたび――。
歯からこぼれた生温かい黒い吐息が、僕の耳にぞっとするイメージを思い浮かばせた。
泥の下の暗闇、這いまわる呻き声のうねり、星空の下の知らない灰色の街、そして――その先に広がる真っ白な「海」――!
影は、そこから話しかけていた。
兄様は何も言わなかった。ただじっと、その影の暗い瞳を見すえて、ぎらぎらと目を輝かせていた――!
ああ、ああ、どうしてだろう。これまでも、影は何度も僕たちの前に現れた。でも、その時だけは――その日のその夜だけは、僕はとてつもなく恐ろしかった。
兄様、兄様、どうか答えないでください。僕はひくつく声が――笑みが、こぼれるのを我慢することができなかった。僕は、生まれて初めて母様に心から感謝していた。
母様、母様、地獄に落ちた母様、愛しております。
ありがとう。どうか兄様を――この男を、唖者として生んでくれて――!
兄様は、生まれた時から声を失っていた。血の病だった。
違う年の、同じ日に生まれた。でも、僕は結局、この人と兄弟になることはできなかった。
僕はずっと恐ろしかった。この唯一の兄弟が――兄様が、その同じ紫色の瞳の後ろにどんな声なき声を潜めているのか。その色を見るたび、僕はわからず、その星のようにちらつく光にただただ身を震わせていた。
その色は、呪いだ。
雪が見えた。
ああ、ああ、どうしてしまったんだろう。僕は、本当は、きっと売られた後の物語を語ろうとしていたはずだ。
あの影が去ってから、もう何日も後の話。
僕たちはいつものように売られて、いつものようにぼろ馬車に押し込まれて、知らない土地に連れていかれるはずだった。北の風は初めてだった。どうやら、いつものように車輪の音を聞いているうちに、春のうららにあてられて、夢の中を彷徨っていたらしい。
僕はふっと目を覚ました。気がつけば、僕たちを見送っていたその暖かさはふっつりと途切れ、代わって、ひりひりとした冷たさが息切れとともに僕を襲ってきた。
色々な夢を見た気がした。なら、さっきまでのも、夢だったのだろうか――?
そうして、僕は思い出した。
それは浮き上がってしまった。魂の海から。曖昧な思い出のさざ波のただ中から。まるで打ち上げられるように僕の頭に蘇ってきたそれは、その日からもうずっと忘れていたはずの――その男の「声」だった。
「きっと、先へ――」
母様、母様、助けてください。
僕は思い出しました。何もかもが間違っていたのです。僕はずっと忘れていました。
僕を殺せなかったのではありません。僕が死ねなかったのであはりません。本当にそうだったのは――僕がついに殺せなかったのは――まさしくそいつなのです。
助けてください。石の光が消えています。そいつは思い出し、僕たちを欺く術を取り戻しています。
声が聞こえます。ああ、母様、母様――。
「まだ、地獄におられますか?」




