第一話:北辺より
懐かしさが、しんしんと降りしきっていた。
また、この季節がくる。城壁のへりに薄っすらと伸びる白い線を掃い、彼はゆっくりと振り返る。
人が、慌ただしく行き交っていた。早い冬の訪れに驚いてか、南へ向けて出立する馬車の足取りはどこか浮き足立っていて、積荷を検める門兵の、そのやや乱雑な手をすり抜けるや、ぴしゃりと甲高い鞭を鳴らしてそそくさと駆け出していく。
きっと、昼までこの調子なのだろう。真っ直ぐ街の方向を見やれば、中央の広場へ続く大きな目貫通りには、家族や友人、あるいは馴染みの客らと言葉をかわす旅人たちの姿があった。
もうすぐ、街は閉ざされる。一度閉ざされれば、春が来るまで、もうその門は開かれることはない。許されないのだ。雪はもう降った。それは訪いの倣いである。
すぐ隣をちらりと覗けば、さっき掃った雪の筋に、そっと手袋を重ねる一人の少年の姿があった。
「機嫌が悪そうだ」
少年が言った。
「きっと、酷い吹雪になるよ。街道はまだましだろうけれど……それも、たぶん今晩まで」
うつむきがちにつぶやくその声には、どこか怯えたような気配があった。
北風が頬をかすめる。彼は少年の方へ体をよじると、その暗い思慮に浸る両目を見据えて、ふっと笑みを浮かべる。
「フアトの導きがある……だろ?」
彼は腰の鞘から一本の短剣を抜き放ち、その刀身を雪舞う灰色の空へと掲げる。
星のような青い光が、二人の目を導く。その短剣の柄には、左右非対称の七枚の翼を持つ竜の紋章と、そしてその瞳を顕わす美しい真球の宝石が埋め込まれていた。
フアトの「表の眼」と、人々は言う。その宝石は誰の手にもなければただの石ころであるが、正しい者の手に収まれば、そこに輝ける七枚の翼を持つもの――生命の擁護者、導きの竜フアトの守護を宿すのだという。
「俺たちならやれるさ。どんな導きだって永遠じゃない。悪霊なんて、必ず追い払ってやる。お前の分までな。ああそうだ、これくらいできなきゃ、旅になんて出られないんだ」
短剣の輝きにふと目を細めた彼は、はっという捨て笑いとともにそれを柄に収める。
「君は、いつも同じだね。僕は……旅に出たいなんて、思ったこともないよ。お役目を選んだのだって、ここでこうしていれば……もうどこにも行かなくていいんだって、そう思ったからさ。外は寒いよ。ここは綺麗だ。ずっと変わらない。僕はこの街が好きだから……」
彼から目を逸らし、少年は独り言ちた。
南から風が戻ってくる。城壁に積もった雪がふわりと舞い上がり、うつむいた少年の前髪をかき上げて空高く昇ってゆく。
老人のような真っ白な髪だった。そして風につられて空を見上げるその両目は、温かな血を思わせる深い緋色。このあたりでは稀な、南方の特徴であった。
城壁の外は、灰色の雲が立ち込めている。鬱蒼とした木々の折り重なる深い渓谷の間、剣で切り裂いたような狭い街道のところどころには、白い雪が積もりつつあり、街道から向かって右手、街の西伝いに伸びるシル川の川岸から野鳥が足早に南へと飛び立つ様は、長い冷たさの始まりを暗示していた。
彼は、足音だけを立てて背を向ける。城壁のへりを右手でさっと撫で、雪のついた手のひらを払うことなく短く手振りする。少年の顔が向いた。
「帰って寝る。もうくたくただ。ナジ、南の見納めも、そこそこにしとけよ。夜は長いんだ。色々やること、あるんだろ」
彼はその少年の――ナジの顔を一瞥して、城壁の階段を降りて行った。
見納め、か。ナジは彼の言葉を呟きながら、ふと自らの手を見つめる。擦り切れ一つ無い、綺麗な手袋のそれだった。
ナジと別れた後、彼は目抜き通りの端をすり抜けるように歩いていた。
通りは、どこも人でいっぱいであった。特に道の中央に並ぶ馬車の数たるや夥しく、立ち往生した御者に、それに話しかける人々、果てはここぞとばかりに終の売り込みをかける商人どもまでがからんで、さながら大市のような様相を呈していた。
ぶつからないように気を遣うのは、それなりに難儀な仕事であった。特に、今の彼――は仕事、すなわち南の城壁の夜番を終えたばかりであったから、武器も佩いていたし、毛皮を巻き込んでいるとはいえ堅い鎧も身に着けていた。
無遠慮に接触すれば、事故になりかねない。特に今日のような誰もが浮き足立っている日は、何かと足元がおそろかになっている者も多ければ、逆に、いやに神経質になっている者も多い。そういった中で騒ぎでも起こそうものなら、たまったものではない。
よそ見をしながら歩く人々を避けつつ、彼はまた人だかりを通り抜ける。
途中、穀物庫に最後の積み荷を降ろす様子が見えた。傍らで、空になった馬車が、代わりの毛皮といくらかの材木を受け取って、急ぎ早にその場を後にする。幸い、荷受けの兵士の顔は窮乏を表してはいなかった。
――北辺の護り、トゥール。
「人王国」の最北端に位置するこの街は、強固な城壁と険しい山脈、急流のシル川に守られた北方の要衝である。その始まりは建国にまつわる北への巡礼にあったとされているが、周辺に連なるオルトゥス山脈の豊かな資源が見出されてからは、軍事的・宗教的な役割を超えて、開拓者たちの集まる都市として発展を遂げてきた。
鉄に材木、そして何より――プルビナ白狐の毛皮。トゥールを代表するこれらの産物は、人王国ではいずれも価値の高いものである。特に毛皮については、ここ数年間厳しい冬が重なったこともあって、必需品としてその重要性が高まりつつあった。
南では、毛皮を取るための獣がいなくなってしまった土地もあるという。しかし、トゥールでは卸される毛皮が毎年の如く増える一方、その元となるプルビナ白狐は数を減らすことも、痩せることも知らない。決して肥沃とはいえないオルトゥス山脈の土地において、その都合のよさがどこからもたらされているのか。不思議がる商人たちは様々な憶測を囁いていたが、ともあれ、それがトゥールに大きな富をもたらしているということだけは間違いなかった。
それに、この街を巡る幸運はもう一つあった。五年前に発見されたばかりの、北東の白色原野への新たな出入り口――「鍵の道」である。トゥール近縁の平野部を北限に、東へと山間をぐねりと鉤形を描いて伸びるほっそりとしたその谷あいの道は、王国の支配が及んでいなかった険しい北東部の処女地への数少ない――それも馬車が通ることのできる――大変都合のよい連絡路であった。
白色原野は、希少な野草類の群生地であるとともに、何より、力ある宝石の豊かな産地である。特に、北東地域でしか採れないアリウの紫石――あるいはフアトの「欠けたる眼」――は、王国の祭祀において最も重要な地位を占めるとともに、強大な力を持つ魔除けの宝石として、貧富に関わらず最上の価値の一つとして扱われている。
こういった事情から、近年、トゥールには処女地での一攫千金を狙う旅人たちも訪れるようになっており、そして、そんな旅人たちを追うように、彼らを商売相手とする新しい商人たちの姿も増えてきている。商人たちは開拓のための道具を旅人たちに売りつけ、そうして、今度はその成功した商人たちを狙って、別の商人が新しい商売を持ってくる――。
トゥールは、本来貧しい土地だ。農耕にはまったく向かず、自給をほぼ放棄した食料についてはもっぱら南からの買い入れに頼っている。何の幸運もなければ、多くて二千そこそこの小都市を維持するので精一杯だっただろう。
しかし、実際に幸運は積み重なった。野蛮な冒険心と野心、貧しさが育てた欲深い目ざとさ、そして共同体を繋ぎとめる古く敬虔な信仰――。そういった諸々がうまく絡み合った結果、トゥールは今に至るまで、北方の富の中心として発展を重ね続けている。少なくとも、人々はそう信じている。
豊かになりたければ、何はともあれトゥールへ行け。
木こりに狩人、鉱夫に物乞い、何をやっても金になる。
春に身を立て、夏に稼ぎ、そしてしこたま貯めこんだら、秋にまとめて、冬の前には逃げ帰ってしまえ――。
それは、トゥールの豊かさをうたった余所者たちの言葉である。
そう、トゥールは確かに豊かだ。だが、そればかりを見るのはあまりに贔屓な見方でもある。トゥールの豊かさの影には、底冷えするような暗さが潜んでいる。この街には古くから伝わる伝承と、それにまつわる恐ろしい倣いが今も続けられているのだ。
そして、彼は今宵、その継承の当事者となる。ナジの怯えた顔は、彼の脳裏に印象的に焼き付いている。自ら選んだ道でありながら、それでも心に立たずにはいられないざわざわとしたさざ波に皮肉なものを感じつつ、彼は一歩一歩と帰路を進む。
南から北へと進むごとに、人だかりは目に見えてまばらになっていった。目抜き通りの終わり、街の中心たる楔の広場に至る頃には、立ち往生の列からはとっくに抜け出していて、本来であれば最も繁華であるはずの広場の中央、導きの竜フアトの偶像の建つ辺縁の腰掛けには、いまや数人が座り込んでいる程度であった。
夏に十万冬に一千は、トゥールのあり方を示す代表的な格言である。南の門が閉ざされる頃には、街に残っているのは最低限の守りの兵士と、この街に根付いた、あるいは離れることのできない事情を抱えた古くからの住民ばかりとなる。
街はもとの姿を取り戻しつつある。彼はふと刺さる硫黄の匂いに、思わずフアトの偶像の方を見やった。そこには、偶像の周辺に彫られた円形のため池を中心に、西から東へと湯気を立てながら一直線に伸びる石造りの細い水道があった。
故なき街の名物、山の落ち水である。まだ街が幼かった頃、西に落ちた星がもたらしたとされるその煮え立つ湯の川は、さりとて人が使うには馴染まぬ無用の長物であったため、今に至るまで、雪解け代わりの水道を伝ってシル川へと捨てられ続けている。
昨日までは、匂いなど気にしたこともなかった。彼は記憶に残る人だかりの匂いを思い起こし、ふと微笑を浮かべる。
「レイル。どうした、こんなところで立ち止まって」
その時、意図しない方向から、彼の――レイルの名を呼ぶ声が響いた。
「……ミリアム様!」
レイルは声の主を見とめると、その場で鞘を押さえ深々と礼をした。
それは、くすんだ金髪の痩せた男であった。
青白く変色した、あざがところどころに浮かぶ皮膚、どんよりと曇った深いくまの浮かぶ目元、寒さに擦り切れたしわだらけの紫色の唇、右手に握りしめる杖に寄りかかって立つ背中は弱々しく曲がり、何枚も重ねられた毛皮の上着には点々とこびりつく血錆のしみ――。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ。……今日から、お役目なのだろう」
その男――ミリアムは、彼を見るとどこか控えめな笑みを浮かべ、そして何かを思い出すように空を仰いだ。
その姿は、傍目には哀れな浮浪者か何かのようにしか見えなかった。生気の無い声は白い息とて漏らさず、雪空を映す両目は灰色に濁って瞳に白い影が浮かんでいる。そよ風に乗って漂ってくる臭いは何日重ねたともわからぬ不快なもので、着の身着のまま、銭袋すら持たずによろよろと体を揺らめかせる様は、ある種の人々には憎悪すら抱かせるだろうほどに脆弱で汚らわしいものだった。
はたして、この男が実は、つい先日十八を超えたばかりの青年であるなどと信じることができるであろうか。それほどまでに、その青年が放つ雰囲気は、くたびれていて、病的で、人生の何もかもが枯れきったようなそんな情感を帯びていた。
「はい、トゥールのため、私の故郷と母のため、ミリアム様の跡を継ぐ思いであります。そして……」
「――マシュー・メリベルの跡を辿るのかね」
レイルの言葉を遮るように、ミリアムは言った。
思わず、言葉につまる。それを見たミリアムは彼のそばに寄り、ぶかぶかの上着の下から一冊の本を取り出す。
「『彼岸への旅』……お役目の前に、渡そうと思っていた」
「……よろしいのですか?」
彼は差し出された本を前に、思わず指を震わせる。
つんと独特の匂いが鼻をつく。金の糸で刺繍されたその表紙はところどころ破けた赤い革で装丁されていて、その端にくるまる錆びついた留め金の周りには、何度も直してつけたと思われる針の跡があった。表紙の間から覗く小口には褐色のしみが浮かび、黄変してぶさぶさになった紙の束からは、いやに心をかきたてられるざわざわとしてした気配が滲みだしていた。
その本に、タイトルは無かった。ただその表紙の下に、「マシュー」と――そう下手くそな字で書き記されているばかりであった。
「おれは、もう長くない。長くありたいとも、思えないんだがな。結末だよ。おれの旅は、お役目とともに終わった。多くの先達たちが辿ってきた、ありふれた話だ」
彼の指に本を押し付けると、ミリアムはくっくと泣きこぼすような表情で笑った。悲しみでも、悔しさでもない、抱え疲れたような複雑なこもり声だった。
ちらりと、道行く人々が目を向ける。しかし、彼はもちろん、その傍らを過ぎゆく者たちでさえ、そこに奇異の眼差しは一切なかった。むしろ、その姿を見た誰もが、いくらかの間その姿を見とめ、そしてぐっと何かを飲み込んだような表情をしたかと思うと、無言のまま神妙に過ぎ去ってゆく。
それは、まるで理の外側の存在を覗いたような、畏れのこもった目であった。
不意に、その左手がレイルの腕を握りしめる。ずっと顔が近づく。その姿からは想像できないような強い力に引き寄せられた彼は、その耳元で、がらがらとした低い声が絞り出すように囁くのを聞いた。
「――おれのようにはなるな。いいか、旅をすることだけを考えろ。お役目の夜は、自分の命以外何も望んではならん。誰も助けられるなどと思うな、望んでいるとも思うな。悪霊は……そういう心を持つ者をこそつれてゆく。すべてを疑え。人形のように冷たい人でなしの……そうでなければ……」
その言葉には、まるで川の底を思わせるような暗い冷たさがあった。ばっと手を放し、ちらちらと周囲を伺うように視線を泳がせる。その男はわずかに震えていた。
何と言葉をかけたらよいか、レイルにはわからなかった。見知った街の広場であるにも関わらず、解き放たれたその時だけは、まるで異世界にでも迷い込んだような、奇妙で空恐ろしい感覚がした。
つっと背筋に冷たいものが走る。しかし、はっと我に返った時には、すでにその男は彼に背を向けていて、後ろ手に腰を支える左手の拳は、その先に続く言葉をとっくに握りつぶしていた。
「ご忠告……ありがとうございます。肝に、銘じます」
彼は受け取った本をぐっと胸に抱えると、あるはずもない言葉を絞り出して言った。
ミリアムが横顔を振り向かせ、コンと杖を鳴らす。
「呼び止めてすまなかったな。さあ、もう行け、イリニ様がお待ちであろう。おれも東のことが終わったら、また眠る。雪解けに、またお前とここで話をすることを楽しみにしているよ」
それは、少し崩れたような穏やかな笑顔だった。
ゆっくりと東へ歩き去る背に、レイルは鞘に手を当てて深々と礼をする。やがて足音が聞こえなくなると、彼は顔を上げ、川の匂いのする西へ向けて静かな足取りで歩き出す。
疲れはとっくに忘れ去っていた。けれども、何か意識を朦朧とさせるような、心を騒がせる落ち着かない印象だけがざわざわと胸の中を行き来していた。
自分は、怖がっているのか。歩きながら、彼は城壁でナジと別れた時のことを思い出す。ナジはずっと何かを考えていた。自分のこと、お役目のこと、そしてこの街のこと――。それは情けないくらいに怯えていて、そして、一人で向き合っていた。
悪霊は……そういう心を持つ者をこそつれてゆく。
ミリアムの言葉がよみがえる。
どうしてだろう。思いとてしなかったというに、彼はその瞬間から、お役目を引き継ぐことが決まった半年前のこと――春というには奇妙なほどに暑かったその日のことを思い起こしていた。