僕はもう、空気なんか読まない。
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『空気』というものが、人と人の間には存在する。
それはたぶん、暗黙の了解の塊みたいなもので。
そのくせして、やたら壊れやすいゼリーみたいなやつで。
それを壊すと、空気の読めないやつ、と異端扱い。
人の集団というのは、とても怖いもので、群れの『空気』から外れる奴に対しては、何をしても許されるという『空気』になる。
『空気』から外れたやつを、攻撃するようになる。
人間は、ひとりひとりの時は普通の人でも、集団になった途端、なぜか簡単に残酷になれる。
簡単に人を傷つけるようになる。
それもきっと、『空気』とやらの仕業だ。
あいつもやってるから。
私だけじゃない。
俺もやらないと、次は俺が……。
そういった『空気』が、まるで免罪符であるかのように。
だから僕は、自分の身を守るため、空気を読むのに必死だった。
僕は、決してイケメンという訳ではない。
だけど、髪型から、高校の制服の着こなしまで、全身に細心の注意を払い、いわゆる雰囲気イケメンとは呼ばれるようになっていた。
バランスが大事。
ブレザーの薄い灰色に合うように、少し茶色く染めた髪は、ちょっとだけ長めに伸ばしてある。
制服を着る時も、カッチリすぎず、だらしなさすぎず。
清潔感は最重要。
つまらなさ過ぎても陰キャと呼ばれ。
くずし過ぎてもチャラ男と呼ばれ。
バランスが大事。
まるで毎日が綱渡りだ。
でも僕、深山光太郎は空気が読める男。
何も問題なく、学園生活を謳歌してみせる。
僕ならきっと、できるはず。
深山光太郎は、高校二年生であった。
中間テストの勉強に四苦八苦している秋口。
この間まで灼熱のように暑かった気温も、いつの間にか肌寒くなっていた。
昼休みでは、教室で仲間内の男子達と、いつものように中身のないお喋り。
「……のアイドルが……」
「女優の……が、不倫だって」
「隣のクラスの……かわいくね?」
光太郎には、まったく興味のない会話。
それでも、何とか食らいついていかねば。
置いて行かれるわけにはいかないのだ。
そう、僕ならきっと、できるはず。
僕は空気の読める男、深山光太郎だ。
下校時の下駄箱で、光太郎は靴を履き替えていた。
今日は、家に帰ってテスト勉強をする。
そして仲間内では「僕も勉強やってねぇ!やべえ!」と皆に同調するのだ。
そのためには、遊びの誘いが来る前に、さっさと帰らねばならない。
一旦遊びの誘いが来ると、断るわけにはいかないからだ。
傍から見たら余裕な感じで。
でも、急いで。
靴を履き替え、校舎から出ていく。
すると校門の所で、声をかけられた。
「よっ!深山っち、これから帰り~?」
振り向くと、同じクラスの石井鞠がいた。
こいつは、空気が読めない女だ。
胸まで伸びた髪をベージュに染めて。
両耳にはピンクのガラスのピアス。
化粧もマスカラばっちりの。
ギャルだった。
光太郎は、少し安堵する。
石井鞠が相手ならば、空気を読む必要なんてない。
なにせ、こいつは空気が読めない女。
クラスの中でも浮いていて。
女子達からも倦厭されるほど。
細心の注意なんて払う必要はなかった。
「お、石井か。僕はこれから帰って勉強」
「かぁ~っ!このマジメ君がぁ!深山っちって、マジメなんだかマジメじゃないんだか、わかんないよね」
「そこは、ちょうど真ん中になるように、バランス取ってるから」
「それはやっぱりマジメ君だよ」
石井とは、降りる駅は違うものの、途中まで電車は一緒だった。
たまに、共に帰る程度には、仲が良かった。
「深山っち。一緒に帰ろ」
「いいよ」
「電車の中でムラムラしても、私に痴漢しちゃダメだよ」
「しない」
「私にムラムラする?」
「しない!」
こいつは本当に空気が読めない。
というか、何を考えているのかわからない。
話が突拍子も無さすぎるのだ。
でも光太郎は、少しだけ、この空気を読まなくていい会話が楽しくもあった。
帰りの電車の中。
もうすぐ光太郎の降りる駅が近づいてくる。
「ねぇねぇ、深山っち。恋、できた?」
「いや、まだ」
そう、深山光太郎は、生まれてこの方、一度も恋をしたことが無かった。
だから、友人達とのコイバナについていくのが、本当に大変だ。
「石井はどうなの」
「ナイショ」
石井は、唇に人差し指を当てた。
石井はいつも、光太郎の事は根掘り葉掘り聞いてくるくせに、自分の事は秘密主義だ。
そして、光太郎の最寄り駅に到着し、光太郎は電車から降りてゆく。
「深山っち、またね~」
「おう、またな」
閉まる電車のドアの、ガラスの窓から、石井が手を振る。
そして、電車は出発し、線路の向こうへ消えてゆく。
「変な女」
光太郎は、駅のホームで一人で呟いた。
翌日。
休み時間、光太郎と男子達は、いつものように駄弁っていた。
男子グループの中に、黒髪短髪の真面目そうな男子がひとり。
光太郎とも仲のいい、司だった。
司は腕を組んで、言う。
「俺、今回の物理のテスト、ヤバいかも」
みんなは言う。
「まあまあ、司はいつもそうやって、結構いい点取るから」
「なにげにマジメだもんな」
「マジメなのは割と見たまんまだと思うぞ」
光太郎は、抜群のタイミングで相槌を打っていた。
細心の注意を払って。
これもいつもの、会話の綱渡り。
だいじょうぶ。僕は空気の読める男。
空気を壊したりはしない。
そこで、ふと深山光太郎は石井鞠を見た。
こちらのグループを見つめる石井。
その視線を追っていくと。
司が居た。
そうか。石井の恋の相手は。
光太郎は、司を見る。
(ほうほう。司もなかなかモテるじゃないか)
恋をしたことがない光太郎は、石井の気持ちに寄りそうことはできないけれど。
少なくとも、石井の手助けくらいは、どこかでしてやってもいいかなと思った。
そして何日か経ち、テストも無事に終わり、みんなが一息つけた頃に。
ひとつの噂が立った。
- 石井鞠は、身体を売っている -
どこから始まったのか。その噂は、あっという間にクラスに広まった。
みんな、遠目で石井を見るばかり。
もともと、クラスの中でも浮いていた石井。
女子からも倦厭されていた。
きっと、女子の誰かが、言い出したのだろう。
石井の周りには、もう人が誰も寄り付かなかった。
(あいつは空気が読めないからなぁ)
深山光太郎は、心の中で呟く。
光太郎は、石井が身体を売っているなんて、思っていなかった。
真実は分からない。
もし実際に売っていたとしても、それはそれでしょうがない。
なにせ、世の中にはそういう職業もあるくらいだ。
でも、少なくとも、石井は売っていないだろうな、と思ってはいた。
(まぁ、このままってのも、後味悪いし、僕が話しかけてみるかな)
孤立した石井を放っておくのも良くない。
光太郎は、石井に話しかけるため、自席を立とうとした。
だが……
クラスのみんなの視線が刺さる。
- 余計なことはするなよ -
まるで、そう光太郎の心に釘を刺すかのように。
(なんだ、この『空気』)
クラスの全員が、一丸となって、石井を排斥しようとしている。
クラスの空気が、まるで有刺鉄線のように、光太郎にまとわりつく。
もし変に動いたら、次はお前が傷つくぞ、と言わんばかりに。
光太郎は、立てなかった。
立ち上がろうとしたが、その空気の圧力に負け、また座ってしまった。
動きたくても動けなかった。
集団の中にいる身としては、その場の空気というのは、非常に強力だ。
押し込まれるような圧力。
もしその空気を破れば、次のターゲットは自分だ。
みんなの、石井への空気は、とても鋭く尖っていた。
あの中に入れば、光太郎の心は、石井と共にズタズタに切り裂かれるだろう。
そして光太郎はその恐怖に抗えず。
放課後、ひとりで帰る石井を見送るばかりであった。
それから何日経っても。
噂は無くならなかった。
いや、むしろ。
クラスの空気は酷くなるばかり。
女子達が小声で、でもハッキリと言う。
「ちょっとー。なんか汚い女がいるんですけどー」
「ほんと、もう学校来んなって感じ」
「売りとか、ありえないよね」
何度か、いや何度も、石井に話しかけようとした。
だが、みんなの空気が、見えない刃物付きの壁のように、それを阻む。
クラスの空気は、鋭さを増していた。
石井はひとりで、耐えているというのに。
「光太郎。石井のことは放っておいた方がいい」
司が言う。
「石井には悪いが、もし関わっても、お前がターゲットになるだけだ」
司。石井はお前の事が……
「俺は、別に石井の事が嫌いな訳じゃない。でも光太郎。俺は、お前が傷つくのは見たくない」
石井を助ければ、光太郎が傷つく。
石井を助けなければ、石井が傷つく。
どちらかしか選択肢が無い中で、司はただ、光太郎の身を案じていただけだ。
司は、決して悪い奴じゃない。
いや、むしろかなりいい奴だ。
だが、僕も司も、ただの一生徒に過ぎない。
この空気を変える力など、どこにも持っていなかった。
とある日の昼休み。
深山光太郎は、珍しくひとりで屋上でぼんやり過ごしていた。
(はぁ。今のクラス、何とかなんねぇかな……)
それは、石井に対するあの空気。
光太郎は空を見上げる。
すると、誰かが屋上に入ってきた。
光太郎は、屋上の入り口を見る。
そこには、石井鞠が立っていた。
光太郎をみて、少しびっくりして、そのまま引き返そうとする石井。
光太郎は手を上げる。
「よっ!石井!」
石井は、再びこちらを振り向いた。
「……やぁ。深山っち」
「こっち座れよ」
光太郎は、自分の隣へ、石井を誘導しようとする。
「……深山っちも、いじめられちゃうよ」
「今、ここには僕達しかいないから大丈夫」
決して『いじめられても大丈夫』とは言えなかった。
光太郎の隣へ腰かける石井。
あらためて、石井をよく見てみると、ずいぶんと顔がやつれていた。
これが、あの元気だった石井なのか。
これが、あの空気を読めない石井なのか。
光太郎は、意を決して告げる。
「石井。僕は、お前が身体を売ってるってこと、信じてない」
光太郎を横目で見る石井。
「助けてあげられなくって、ごめん」
「うん。いいよ。そう言ってくれるだけで……
私、身体なんか売ってないのに」
石井の目から、涙が溢れていた。
マスカラが涙で落ちていく。
「頭、撫でてあげようか」
「……お願い」
光太郎は、触れているのか触れていないのか分からないくらい、そっと石井鞠の頭を撫でる。
これが、光太郎が今できる精一杯。
でも確かに少なくとも、この昼休み、この屋上にだけは、クラスの『空気』は存在していなかった。
秋も終わりに差し掛かる頃。
我が校には、桜とは別に、楓の樹も結構植えられていて、楓の葉が紅く染まっている。
その葉が地面に落ちて、紅いカーペットを作り上げていた。
その日の朝。
石井は、上履きを履いていなかった。
職員室から借りたであろう、スリッパを履いていた。
たぶん、隠されたか、壊されたか。
石井は、ひとり自席で、うつむくばかり。
教室に、司が入ってきた。
何だか、思いつめたような顔で。
そして、その後ろには、数名の男女が入ってきた。
石井へのいじめの首謀者たち。
その男女たちは、皆、何やらニヤニヤしていた。
(……何だ?)
教壇の前で止まる司。
だが、固まったように動かない。
一人の男子が司を突く。
それに反応し、その男子をちらりと見る司。
そして司は、大声を張り上げた。
「い、石井!
俺、お前が好きだ!
付き合ってくれ!」
ぽかんとした表情の石井。
司の顔は青白く、とても愛の告白をしたばかりには見えず。
だが、石井の表情は、徐々に喜びに染まる。
石井の口が開く。
「え、えっと……。
つ、司君。
私、嬉しい。
私も、司君がいいなって思ってたから……」
司の周りの男女たちは、今もずっとニヤニヤしている。
ちがう。ちがうぞ、石井。
お前は、相変わらず空気が読めない。
たぶん、これは……
司が、吠える。
「ごめん!石井!これ、嘘だ!
お前の事は、なんとも思ってない!」
喜びに満ちていたはずの、石井鞠の顔から、赤みが抜け落ちる。
クスクスと笑うクラスメイト達。
光太郎は、動けずにいた。
(……司!お前!
お前だけはそういうことをしないと思ってたのに!)
光太郎の頭には、軽蔑と無念さがぐるぐる回っていた。
なぜ。なぜだ。司。
光太郎は、席に座ったまま司を睨む。
そこには、相変わらず青白い顔の司。
そうか、きっと司も、あいつらに言われて。
断れる空気なんて、一切なかったんだろう。
だけど、それでも……
ふと、光太郎は気付く。
空気に飲まれて、多数の言いなりになっていたのは、自分も同じではないのかと。
結局のところ、石井を助けに動けなかったのは、光太郎も一緒なのだ。
司を攻める資格なんてない。
(何が、何が悪かったんだ)
なぜこんなことになっているのだろう。
クラスの空気に抑圧されていた光太郎。
クラスの空気に無理やり背中を押された司。
クラスの空気に盛り上がり、石井をいじめるクラスメイト達。
このクラスの空気が、分厚い壁となって、石井の周りを囲み、石井を助けようとする意志を阻む。
このクラスの空気が。
- この空気か -
光太郎は、空気が読める男。
集団の空気というのは、とてつもなく勢いのある流れのようで。
流れに逆らえば、とたんに溺れてしまう。
そして、一旦できあがってしまった空気を変えることは、容易くはない。
だが、それでも……
光太郎は、学校の屋上で、泣いていた石井を思い出す。
涙でマスカラが落ちていて。
そして、そっと撫でた、ベージュの髪の毛の感触を。
光太郎は、立とうとする。
石井の無念を晴らそうと。
だが、腰を浮かしたところで、まるで上からすごい圧力がかかったよう。
クラス全体が、石井を笑いものにしようとしている、この空気が。
この空気に逆らうと、どうなってしまうのか。
きっと、その瞬間、クラス全員が光太郎を敵と見なすだろう。
光太郎は、怖かった。
想像してしまった。
その恐怖に押しつぶされ、再び腰を下ろそうとする。
だが、そこで目に入ったのは。
石井の、ピンクのガラスのピアス。
そして、よく見ると。
石井の目の、マスカラの間から、きらりと光る何かが。
それはたぶん、虫眼鏡で見ないと分からないくらい、小さな涙。
それを見た光太郎は。
光太郎は、思いっきり席を立ちあがる。
クラスの何人かが、怪訝な顔で光太郎を見ていた。
いとも簡単に立ち上がれた光太郎は、自分でも驚いていた。
空気なんて、所詮はこんなものかと。
読もうとすれば、とてつもなく重く大きく。
読もうとしなければ、羽毛のように軽く。
もちろん、その空気に逆らった異端者は、現実として、集団から重いペナルティを背負わされるだろう。
今回の場合は、いじめの対象になるだろう。
だけど、光太郎は怒っていた。
石井をいじめるクラスメイトに。
それに従い、嘘告白をした司に。
何もできなかった自分自身に。
そして光太郎は動き出す。
司に向かって。
クラスの空気が変わる。
でも、光太郎は気にしない。
一度胎さえ決めてしまえば……
空気に流されないなんて、とても簡単なことだったんだ。
最初からこうしていれば、石井をこんなに傷つけずに済んだのに。
くだらない自分にならずに済んだのに。
そう思うと、過去の自分を嗤った。
そう、光太郎はもう。
僕は、もう。
僕はもう、空気なんか読まない。
光太郎の足は、自由に動く。
纏わりつく空気を引きちぎって。
クラス全員が、光太郎を見る。
その視線を、振り払って。
途中で机にぶつかり、その席に座っていた女子が非難の声を上げる。
ざわつくクラス。
その声なんて、聞いてやらない。
進む光太郎。
目の前には、青い顔をした司。
そして光太郎は。
司を、思いっきり殴った。
人を殴ったことなんて、生まれて初めてだった。
拳が痛かった。
教壇に倒れこむ司。
教室中で悲鳴が上がる。
入り口を見ると、いじめの首謀者の男女たち。
(お前らは、逃がさない)
光太郎は走る。首謀者どもに向かって。
はじめは、先頭の男子を殴った。
次に、隣に居た女子を殴った。
もう男女なんて関係あるものか。
僕はもう、空気なんか読まない。
その後ろの男子が叫ぶ。
「お前、何してんだ!」
その男子も殴った。
別の男子から、殴られる光太郎。
そして、光太郎も殴り返す。
光太郎を中心とした、大乱闘が始まっていた。
だが、多勢に無勢。
光太郎は、殴られ、引っ張られ、掴まれ。
クラスメイト達に鎮圧されていた。
そこに、急ぎ足で駆けつけてきた担任の中年男性教師。
既に、状況は聞いているのだろうか、全員に速やかに席に戻るよう、伝えていた。
光太郎は、石井鞠に肩を借り、保健室に連れられていた。
「あー、痛え」
大乱闘の翌日。
深山光太郎は、石井鞠と一緒に、屋上に座っていた。
紅くなった楓の葉が、風に舞う。
光太郎の顔面も、楓の葉のように真っ赤だ。
ところどころ青くもなって、腫れあがっている。
あの後、教室には一回も行けていなかった。
担任の中年男性教師は、意外と話が分かるためか、事情は全て汲んでくれた。
今日は、石井と一緒に登校した後、一旦保健室で傷を診てもらい、そのまま二人で屋上に来た。
熱くなった顔面に、秋の風が気持ちいい。
「深山っち、すごい顔。ウケる」
「誰のせいだと思ってんだ」
相変わらず、石井は空気が読めない。
でも、それもまた良し、と光太郎は一人で納得していた。
すると、屋上の入り口から、一人の男子生徒が。
司だ。
司も、光太郎が一発殴ったせいで、頬が少し膨れている。
司は、光太郎たち二人を見ると、こちらへやってきた。
そして、頭を下げる。
「すまん。石井。光太郎。
俺が悪かった」
やっぱり、こいつはいい奴だ。
悪かったのは、クラスの空気と、それを作った奴ら。
でも、それに逆らえず嘘告白をしたのだから、一発殴られるくらいは大目に見てほしいと、腫れまくった顔で、光太郎は思う。
司は顔を上げ、続ける。
「職員会議の結果が出た。
光太郎は一週間停学。
俺も一週間停学。
首謀者のあいつらは、一番タチが悪かったから、三週間の停学だ。
あいつらには、場合により、刑事事件にも発展させるらしい。
石井の持ち物を壊したりしたみたいだからな」
うちの担任は話が分かる。
上履きが無くなった石井に、スリッパを貸したのも担任。
その時点で、いじめを何とかしようと思っていたらしい。
そこに来て、光太郎の大乱闘。
全員から証言を取り、職員会議では、首謀者どもを一番重い罪に持って行ったそうだ。
かっこいいじゃないか、担任。
司は、まだ話を続ける。
「それで、石井。昨日の告白は、嘘で……
本当にすまん!」
再び頭を下げる司。
応じる石井。
「司君。もうだいじょうぶよ。私、他に好きな人ができたから」
えっ
たった一日しか経っていないのに?
石井に一体何があったのだろう。
なんだか納得したような顔の司。
「二人とも、保健室登校に切り替えた方がいい」
うちの学校の保健室は無駄にデカい。
そのため既に、他の学年やクラスで、いじめにあっていた生徒が数名、保健室登校をしていた。
「深山っち、私たち、そうした方がいいと思う」
「だな」
正直、もうあのクラスには戻れないと思っている。
保健室で、同じ境遇の生徒と、勉強していた方が絶対にいい。
そして司は去っていった。
教室の机の荷物などは、司が持ってきてくれるそうだ。
あいつは本当にいい奴だ。
司が去ったあと、特に何を話すわけでもなく、ただ黙っている深山光太郎と石井鞠。
こんな空気も悪くない。
空に舞う、紅くなった楓の葉を、ふたりで見ていた。
「ねえ、深山っち」
「うん?」
「まだ恋できてない?」
「うん」
光太郎は、恋を未だにしたことが無い。
すると。
「ん!」
かけ声と共に、光太郎の頬に、ぶちゅっとキスをする石井。
ロマンの欠片も無い、吸盤のようなキス。
「痛えっ!」
腫れていた顔に吸い付かれたものだから、激痛が走る。
「あっ、ご、ごめん!
でも、私のファーストキスだから!」
まるで意味がわからない。
やっぱりこいつは、空気が読めない。
「ね、ね、ねぇ、深山っち。
もし、もしまだ好きな人いないんならさぁ、
わ、私とかどうよ?」
楓の葉と同じくらい、紅葉した石井鞠の顔。
あれ?さっき言ってた、石井の新しい好きな人って……
「ええっ!?
僕!?」
「そ、そうだよ!今キスしたじゃん!」
「うーん、正直、どうしたらいいか、わからん!
恋なんてしたことないからなぁ」
「じゃあさ!お試し!お試しで!」
「だってお前、昨日まで司が好きだったんじゃないの?」
「ほら、女の好きな人は、上書き保存って言うじゃん?
今はもう、その、こここここ光太郎に変わっちゃったわけで……
だって、私のために、あんなこと……
そんなの、絶対好きになっちゃうじゃん……」
俯きながら、目をすごいキョロキョロさせる石井鞠。
どうしようか。
「じゃあ、お試しで。
他に好きな人できたら、そっち行っていいから」
「や、やった!
だいじょうぶ!
私が光太郎に恋を教えるから!」
飛び跳ねて喜ぶ石井鞠。
ベージュに染めた髪も跳ねる。
ピンクのガラスのピアスも跳ねる。
僕は、これから恋を知れるのかな?
甘い空気なら、ぜひ読んでみたい。
石井鞠が、深山光太郎に、手を差し出す。
「行こ!光太郎!」
光太郎は、鞠の手を取る。
立ち上がる光太郎。
そして、ふたりの影は、そのまま校舎の中に消えてゆく。
空には、紅くなった楓の葉が、秋の終わりの風に舞っていた。
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